Xfs の設定をいろいろいじっているうちに、自分好みの状態にすることができた。以下、私が好むフォントのあり方。
以下、.fonts.conf
ファイルの全容。Vine Linux 3.2 用。
<?xml version="1.0"?> <!DOCTYPE fontconfig SYSTEM "fonts.dtd"> <fontconfig> <!-- Normal Fonts --> <match target="font"> <edit name="autohint" mode="assign"> <bool>true</bool> </edit> <edit name="hinting" mode="assign"> <bool>true</bool> </edit> <edit name="globaladvance" mode="assign"> <bool>true</bool> </edit> <edit name="embeddedbitmap" mode="assign"> <bool>true</bool> </edit> <edit name="antialias" mode="assign"> <bool>true</bool> </edit> <edit name="rgba" mode="assign"> <const>rgb</const> </edit> </match> <!-- Japanese Fonts --> <match target="font"> <test name="pixelsize" compare="less"> <double>17</double> </test> <test name="family" compare="eq"> <string>Kochi Mincho</string> <string>Kochi Gothic</string> <string>Sazanami Mincho</string> <string>Sazanami Gothic</string> </test> <test name="slant" compare="eq"> <const>roman</const> </test> <edit name="antialias" mode="assign"> <bool>false</bool> </edit> </match> <!-- "Mona" Font --> <match target="font"> <test name="pixelsize" compare="eq"> <double>16</double> <double>14</double> </test> <test name="family" compare="eq"> <string>Mona</string> </test> <test name="slant" compare="eq"> <const>roman</const> </test> <edit name="antialias" mode="assign"> <bool>false</bool> </edit> </match> </fontconfig>
ようやく理想のフォント表示環境を構築することができた。Windows よりずっと細かなカスタマイズができる。嬉しい限りだ。
だが……ちょっと待て。早川書房から出るとはどういうことだ。しかも訳者変更で浅倉久志訳。
つまり東京創元社から出ている「暗闇のスキャナー」の、タイトルと訳者と版元変更バージョン。
東京創元社版「暗闇のスキャナー」訳者である山形氏のサイトに記事があり、初めて知った。早川書房近刊情報にも載っている。
しかも、あくまで噂であるということだが、「スキャナー」以外にも創元が持っていたディックはすべて早川が持って行ってしまった
らしく、なんでも翻訳権の契約で、一定期間以上増刷かなんかがないと権利が切れるような条項があり、通常は比較的柔軟に運用されるんだけれど、今回は知らぬ間に早川がディックの関係者と交渉していて、突然この条項をたてに有無を言わさずかっさらわれてしまった
らしい。
ということは、逆に「そもそもまだ刊行されていない作品のうち、創元が版権を持っているものは早川に渡ってはいない」という話になる。……その辺はどうなるのだろうか。だいぶ心配になってきた。
2chのディック板でも話題になっている。だが、詳細な情報はまだ山形氏の記述と早川のサイトにある近刊情報だけのようだ。
それより、未訳作品の翻訳マダー? というのが本音。いや、多分早川版の「スキャナー」も買うけれど。読み比べてみたいし。
ちなみに、創元版「暗闇のスキャナー」は、山形氏のサイトで全文公開 (PDF)されている。
題名が「暗闇のスキャナー」から「スキャナー・ダークリー」へと変更されている。これは、個人的にあまり嬉しくない。元タイトルを片仮名表記しただけというのは、それがしっくり来る場合と来ない場合があると思う。
原題は「A Scanner Darkly」。そもそも、「暗闇のスキャナー」という題はサンリオSF文庫から刊行された当時の訳者である飯田隆昭氏がつけたものだ。その意図はサンリオ版に訳者あとがきがあればそれに載っているのかもしれないが、所持していないので不明。創元版の訳者である山形浩生氏は、邦題をそのままにした理由について訳者あとがきにて語感を優先した云々という説明を行っている。
片仮名題への変更、意味があるのだろうか。ううむ。
キッズ goo のフィルタリングに引っかかり、表示できないサイトが該当する。で、ウチもそうだという話。実際にやってみると、ごめんね。ページがひょうじできませんでした
というメッセージ。
フィルタリングというのは、思想誘導の手段である。つまり、基準を設けた人間にとって「好ましくない」語句が含まれている場合に表示されないのだから。
「理解できない」情報は、理解しようとしない限り意味のないものである。日本人の幼稚園児に「Fuck You」と告げたところで、それが何を意味しているのかは、「説明」されない限り当の本人にとっては不明のままだ。
WWW の性質上、「不明なことを調べる」為に検索をかけることは自然である。しかし、何らかの「意図」が介在してしまうと、逆に結果が歪められることになる。そこに、思想誘導を行う余地が生まれる。
「子供に全てを見せるのはよくない」か、「子供だからといって全てを見せないのはよくない」という議論は、不毛ではあるまいか。私は、「全てを見るがいい」と告げるだろう。但し、こう付け加える。「そして、お前は何を思った?」
フィルタリングは、「考える余地」を無くす。……思想誘導という言葉は生ぬるい。「思想束縛」と呼ぶべきだ。選択肢を消された情報は、真であるか偽であるかという二者択一しか生まない。情報が一意であるならば、固定された観念としてその存在が定義され、結果的に思想を束縛する。しかし、情報の本質は混沌としたものだ。一概にどちらともいえない、という場合もある。
安全であり見せたいと考えるサイト
という定義は、定義にならない程幅広い応用が可能になる。逆を言えば、主観による定義をも可能にしているのだ。主観の押しつけは束縛でしかない。故にキッズ goo フィルタリングには疑問を抱かざるを得ない。
……今度、80×15のミニサイズバナーでも作るか。
「何故 Blog は繁栄しているか」。以前、当 Blog で書いた論考をまとめたもの。
奇しくも、10月22日の雑念日記で柊氏によって Blog ツールの性質に関する指摘が行われている。
ただ、そのアプローチは違うものだったが。
柊氏は、Blog ツールの持つネガティブな面を掲示板と同じ問題
であると指摘し、それは蓄積された情報の再利用性に欠ける
ことだ、と述べている。更に、BBS はその殆どのものがテキストデータを独自形式で保存し、独自検索によってのみその参照が可能であること、故に BBS = Blog ツールの使い勝手が、テキストデータの再利用性とダイレクトに直結することを論じている。
結果として、データの加工がやりにくいという土壌を造り上げていることに警鐘を鳴らしている。
そのこと自体に関しては、私も同意見だ。確かに Blog ツールは「垂れ流しの文章」しか生まない危険性を秘めている。
とはいえ、柊氏も補足しているように、ツールとしては優秀な部類に入る。そこに現れるのは、機械に使われるか、機械を使うかの差だ。当然ながら「使われる」人間も、「使う」人間も存在する。封建制社会が今でも根強く残っている日本において、「使われる」ことを当然とする人間が多いのも、また事実である。人から機械に変わっただけの話だ。
そこで「練り上げられた文章」を模索する必要に迫られる。しかし都合の良いことに、デジタルデータとして保存可能になった文字媒体は、非常に改稿が容易になった(弊害もある)。ソフトウェア開発が良い例である。人工言語としてのプログラミング言語で書かれたプログラム(= 文章)を、どんどんデバッグ(= 改稿)していけばよいのだ。紙媒体ではこうはいかない。
結局は「使うか、使われるか」という昔から存在する論に帰着するのだろう。……時間が無いので今日はこれまで。
マイクロチップに秘められたアートの世界(フォトギャラリ)について。
ソフトウェアにイースターエッグがあるように、ハードウェア――マイクロチップ――にもチップアートがある……そう思えば左程不思議なことでもない。が、感心せずにはいられない。マイクロメートルの世界で繰り広げられる芸術が、そこにはある。久しぶりに背筋がゾクゾクした。
しかし、問題がないわけではない。イースターエッグが時としてバックドアになりうるように、チップアートもまた、時として不具合を引き起こす要因になる。あまりにも細かい点をいくつも描いたためにそれが衝撃などで剥離し、回路に問題が生じたケースもあるという。無論、いくらチップアートが芸術的だからといって、そうした問題は許されるものではない。
だが、やはり素晴らしい作品は驚嘆に値する。程々に、見る方が微笑をもって迎えられるような、人畜無害なものであるからこそ、チップアートはアートたりうるのだと、そう思う。
Mozilla Developer News によると、3日以内らしい。米国の太平洋沿岸時間 (日本との時差は -16時間) における今週日曜日の11時59分にロックダウンされたコードが1.5rc1用とのこと。(おそらくポップアップの) ブロッカーリストに12個のバグがあるものの、それらの大抵はパッチの検討中だとか。実に待ち遠しい。
ようやく週末。明日にでも「戦闘妖精雪風5」を借りてくる予定。
レンタルで思い出したのだが、TSUTAYA でカードを作ったとき、保険証では駄目だと言われてしまった。学生証でも駄目。免許証かパスポートを見せろと告げてくる。ふざけるなどうしてなんだと訊くと、曖昧な答え。……顔写真のないもの・学生証全般は信用できないということだろう。住民票を持ってこいという話であった。仕方なくそうしたのだが。
しかし、TSUTAYA のその店舗 (どことは言わない) は、結構ずさんな入会登録をさせる。何が駄目かというと、入会規約の書かれた書類が申込書の置いてある場所になかったのだ。探したが、見つからない。しかし、申込書には「入会規約を読んだ上で云々」とある。個人情報の取扱いに関する欄を読んでおきたかったのだが、それもできない。ならばと受付まで申込書を持っていき、それを相手に見せる前に尋ねた。「入会規約はどこにある?」と。そうしたら、相手はこう言った。「作成したカードと一緒に渡しております」。
ふざけるなと思った。その手口は、白紙の誓約書に判を押させるようなヤミ金融と同じではないか。そこで私は、その場で「何を言っているんだ。申込書には『読んだ上で』と書いてあるではないか。だから読ませなさい」と告げた。まったく、今思い出してもその時の店員の表情には腹が立つ。眉根を寄せて、「何コイツ?」という訝しげな顔をしくさったのだ。
後に私は苦情の電話をその店舗に掛けた。「今度から (規約を) 置いておいてくれ」と。……借りに行くとき、ついでに調べてこよう。きちんと置いてあるかどうか。主張はしてこそ意味を成す。そう思った秋の一日だった。
卒研シリーズ連続。今日は SCC について。
ModelChecking による検証を行う際には、状態遷移のループを使用する。
SCC は Kripke 構造のサブグラフである。Kripke 構造 M
に対し、部分 Kripke 構造 C
を考える。C
内の任意ノード a
が C
における a
以外の全ノードから C
内にのみ含まれる経路によって到達可能であるような最大のサブグラフであるとき、C
は SCC であるという。
SCC (強連結要素) は、グラフ理論における強連結という用語の意味を内包している。グラフ理論では、有向グラフ D
におけるノード u
, v
に対し、 u
が v
から到達することができ、かつ v
から u
にも到達することができるならば、D
は強連結 (strongly connected) であるという。
C
が trivial であるとは、ノードが C
にひとつしか存在せず、有向辺で自己参照している場合を指す。その逆が nontrivial である。
SCC を用いると、以下の補助定理で示される CTL 演算子 EG の性質を得る。
M, s |= EG f1
⇔ 以下の2状態を満たす
s ∈ S'
s
から SCC であるグラフ C = (S', R')
内の任意ノード t
までの経路が M'
内に存在する以上。
今日は Kripke 構造における公平性について書いてみた。
以下、公平性についての説明。恐らくこれを下地にして卒論を書く。
無限に動作するプログラムを作成する際、その状態遷移内でいくつかの状態が必ず発生しなければならない場合がある。例えば、理想的な OS を考えてみる。OS は、再起動やシャットダウンをすることなく、それこそ無限に動作し続けていられるものとする。そこでプリンタで何かを印刷するとしよう。プリンタは、無限に動作し続ける OS の上で、不定期に、しかし回数の制限なく使うことができなければならない。プリンタは入力があるまで待機していなければならないし、データを受信して印刷動作を起こさなければならない。ということは、データを受信しなかったり、入力がないのにアクティブになったりしてはならない。
このように、並行システムにおいて起きるべき状態が必ず起きてくれることを保証する性質の集合を公平性制約 (fairness constraint) という。
公平性 Kripke 構造は、4要素から成る集合 M = (S, R, L, F)
によって定義される。公平性制約を導入する前の Kripke 構造に、F ⊆ 2S
という公平性制約を追加する形になる。
π = s0, s1, ...
という M に含まれる経路を考える。そして、inf(π)
という写像を次のように定義する。
inf(π) = {s | 無限に多い i について s = si}
このとき、全ての P ∈ F
に対し、inf(π) ∩ P ≠ ∅
となるならば、π
は公正 (fairness) であるという。
CTL で公平性を扱うためには、CTL の意味論 (semantics) にわずかな修正を加えなければならない。公平性制約を持つシステムでは、まず CTL の意味論定義において、記号 |=
を |=F
に変更する。また、公平性制約を持つシステムと持たないシステムとの間で、意味論の差異が発生するのは以下に示すもののみである。
充足可能関係定義 | 公平性制約を持たないシステムの場合 | 公平性制約を持つシステムの場合 |
---|---|---|
M, s |= p |
p ∈ L(s) |
s から始まる公平である経路があり、p ∈ L(s) |
M, s |= E(g1) |
s から始まる M, π |= g1 となる経路 π が存在する |
s から始まる M, π |= g1 となる公平である経路 π が存在する |
M, s |= A(g1) |
s から始まる全ての経路 π が M, π |= g1 である |
s から始まる全ての公平である経路 π が M, π |= g1 である |
以上。
1から4までを観た。
……これは、もう別物だ。大人しく戦闘シーンの迫力に酔いしれればいいだけ。人間模様は情緒的になっているので、舞台背景の根底とはあまり馴染んでいない。零はブッカーとスーパーへ買い物に行き、汚い部屋でピザをつまみに酒に酔う。モノレールに乗り、自分の住処へ帰るシーンまである。
隔絶した地球ではない環境の中で、生活感を徹底的に排除し、背景描写も最小限にとどめられ、ひたすらにメカニックと零に焦点を絞った、原作小説「戦闘妖精・雪風」と、その零が自分の外にあるものを認めていく「グッドラック 戦闘妖精・雪風」と同じ舞台であるフェアリイ星を用いているからこそ、原作の真逆を想定しまったからこそ起こった矛盾であるといえよう。
しかしそれは、作品の根底にはあるものの、作者の差異により現れてくる主題とその表現手法の違いによって殆ど違和感を感じさせない。原作では、「戦闘妖精・雪風」において機械と人間との在り方について、「グッドラック」においては機械と言葉の在り方について模索される。しかし、アニメ版「雪風」では、コネクションの殆どが人対人である。機械と人間との接点である雪風は存在しているものの、どうにも影が薄くなってしまっている。零が織り成す人間模様を描こうとして生じた、かなりベクトル方向の変わった主題がそうさせるのだ。
これじゃあ、原作原理主義者が頭を抱えるのもありえない話じゃない。尤も、メカニックのディティールはよくできているので、作品としてはそれなりにまとまっている。私は作者が異なった時点でニュアンスが変わるのは必然であり、そうでない場合こそ逆に作品としての濃度は確実に薄くなると考えている(とはいえ、ニュアンスの変化が良い方向に作用するかどうかは、観客の視点による)。
確かなのは、「戦闘妖精・雪風」という作品は映像として再びこの世に生をうけ、確実に私を楽しませたということ。それも、戦闘シーンで。……残念だが、情感的なシーンはそれなりに面白いものの、今ひとつ魅力に欠けている。それは、雪風とのコネクションを薄めてしまったから発生したズレなのではないかと、勝手に考えている。
蛇足だが……零とブッカーの掛け合いは、確かに腐女子にインスピレーションを与えるものだと思う。あそこまで匂わせておいて「そんなつもりなかった」と、もし監督が言ったとしても、私は信じないだろう。本当にたまたまそうなったのだとしたら――監督がある意味で凄い天然だという、それこそアニメの中にしかないような状況に陥るしかないだろう。
先日購入したブツ。
まさか非Aシリーズが復刊されるとは! 前から読んでみたかった二冊である。東京創元社もやってくれる。
ヴァン・ヴォークトの名を知ったのは、フィリップ・K・ディックの作品を通じてだった。彼は自作「偶然世界」について、次のように述べている(因みに「ヴァン・ヴォート」は「ヴァン・ヴォークト」のことである)。
「偶然世界」を書いたときは、ヴァン・ヴォートがお手本だった。意図的にそうしたのだから、べつに恥ずかしいとは思っていない。作家としてもひとりの人間としても、彼はわたしのヒーローだった。
「ディック、自作を語る」(「去年を待ちながら」(創元 SF 文庫)巻末付録)
そして、「タイタンのゲーム・プレーヤー」(創元 SF 文庫)解説には、ディックが雑誌「ヴォーテックス」(1974年2月号)のインタビューに答え、最も影響を受けた SF 作家はヴァン・ヴォークトであり、「非Aの世界」が気に入っている、とあった。
機会があれば読んでみようと思っていた矢先の復刊。タイミングがいい。……しかし、読むのは当分後になりそうだ。まだ「ディアスポラ」が途中なのである。
xml-stylesheet
スタイルシートの読み込みに xml-stylesheet
を使うように変更した。これも、所謂 Modern UA と IE 用のスタイルシートを分離してあるからこそ成せる技。
IE 用は link
要素で読み込ませる従来方式のまま、SSI でどうにかしている。
……それだけなんだが。うん。大げさだ。
今日の購入物。
時雨沢氏の書くあとがきはいつもブッ飛んでいるのが最早当たり前になってしまっている。毎回趣向を凝らしたあとがきを作り出すその想像力にただただ呆れ感嘆する。
だが、今回のあとがきは、おかしいことに「普通」のものだった。本当にありがちなありきたりのあとがき。あれ? と思った。
「これはもしかしたらフェイクで、本当のあとがきがあったり何か仕掛けがあるんじゃないか」と考え、色々と疑ってみたら……。とんでもないところにとんでもないものが。
おったまげた。まさかああくるとはと。販促用の小道具まで仕込みに使うとは思わなかった。……もうその根性には脱帽するしかない。帽子持ってないけど。
「ディアスポラ」は、まだ読み始めたばかり。だが、開始早々《コニシ》精神種子は十億のフィールドに分割されている。フィールドとは六ビット長の短いセグメントで、各々がひとつの単純な命令コードを含む
なんていう語句が淡々と続く有様に、“あ、面白そう”と感じた自分がいた。だからこそ買ったのだが。
今日は「配列に格納された文字列をポインタのポインタを使って参照し、その文字列長を出力する」C プログラムを作成せよとのこと。
#include <stdio.h> #include <stdlib.h> #include <stddef.h> main () { char* str[] = {"The", "quick", "brown", "fox", "jumps", "over", "the", "lazy", "dog."}; char** pstr; size_t nstr = sizeof str / sizeof str[0]; size_t i; pstr = str; printf("String\t Length\n"); for (i = 0; i < nstr; i++) { printf("%s\t: %d\n", *pstr, strlen(*pstr)); pstr++; } exit(0); }
以下、出力結果。
String Length The : 3 quick : 5 brown : 5 fox : 3 over : 4 the : 3 lazy : 4 dog. : 4
ポインタは、有り体に言えば「他変数のメモリアドレスを保持する変数」である。つまり、「ポインタのポインタ」は、「他ポインタのメモリアドレスを保持するポインタ」であるといえる。
char* str[]
は、見ての通り char
型ポインタの配列である。もし、配列の各要素について、そのアドレスを参照したい場合はどうするか? 答えは簡単。char
型ポインタのポインタを使えばいい。故に char** pstr
が使われる。
思考2分、実装3分、テスト1分。合計6分。もう少し歯ごたえのある課題が出ないかな……。
ぶっちゃけた話、まだ日付変わっていないけれども更新ということで。
就職内定した会社が、メールによる事前研修をやるということで、現在受講中。
そこでは毎回課題(仕様)が出され、それを C 言語でコーディングするのだが……。
とにかく、次のコードを見てもらおう。要するに、ポインタを使って配列の要素を参照していくだけのプログラム。
#include <stdio.h> #include <stdlib.h> enum { NARRAY = 5 /* 配列長 */ }; main() { int i; int arr_int[NARRAY] = {0, 1, 2, 3, 4}; int* parr_int; char arr_char[NARRAY] = {'a', 'b', 'c', 'd', 'e'}; char* parr_char; parr_int = arr_int; parr_char = arr_char; for (i = 0; i < NARRAY; i++) { printf("int[%d] : value = %d, addr = %p\n", i, arr_int[i], parr_int); parr_int++; } for (i = 0; i < NARRAY; i++) { printf("char[%d] : value = %c, addr = %p\n", i, arr_char[i], parr_char); parr_char++; } exit(0); }
int
ないし char
型配列をポインタ変数のインクリメントによって参照していく。sizeof(int) == 4
、sizeof(char) == 1
であり、かつ limits.h
標準ライブラリにある CHAR_BIT == 8
という環境で実行したので、出力されたアドレス値は int
が4ずつ、char
が1ずつ増えている。
それだけの話。それ以上でも以下でもない。どういう構造にしようかと考えて3分。コーディングに3分。テストに1分。合計7分でできあがり。
2年の頃にしごかれた成果が遺憾なく発揮されている。ポインタと配列の関係について突っ込んだ部分は「プログラミング言語 C 第2版」(B.W. カーニハン / D.M. リッチー 共立出版)――いわゆる K&R ――の第5章を読めばいい。因みに、parr_int = arr_int;
という代入文は、K&R 120 ページに書かれている通り。
ポインタを理解できるか否かという問題は、計算機の基礎がわかっているか否かという問題に直結している。メモリ空間を図的に解釈できるかどうか……コードが与えられたらパッ、と頭に浮かぶかどうか……紙とペンを使って他人に説明できるかどうかが重要になる。B 木を実現するプログラムを実装して、メモリはどう確保され、開放され、参照されるかを図やコードで表し、延々とそれを書き連ねたレポートを提出していた頃が懐かしい。
「ローゼン メイデン(Rozen Maiden)1~5」(PEACH-PIT 幻冬舎コミックス)を読む。
1巻を立ち読みして、続きも面白そうだったので続巻をまとめて購入。予想的中大当たりだった。
主人公が引き篭もりという設定もさることながら、内面世界を具体化する為の装置として「n のフィールド」というものを導入し、視覚に訴えられるようにしてあることが興味深かった。
更に「おや?」と思わせる設定は、ドールが球体関節であるというものだ。最近私は球体関節人形をよく見かけていたからだ。「ユリイカ」の2005年5月号を見る限り、そこに載っている現代の人形作家によるドールは、球体関節のものが多かった。「人形と犬の話」でもある映画「イノセンス」に出てくるガイノイド、ハダリも、原作には無かった「球体関節」という属性が付与されていた。
では、どうしてローゼン メイデン・シリーズの人形は球体関節なのか。一番手っ取り早い解釈は、やはりその“可動性”にある。GIジョーなどを思えばすぐにわかるだろう。或いは、ガンプラなどのポリキャップでもいい。関節に球体を取り入れると、それだけで稼動範囲が格段に広がるのだ。稼動範囲のリアルさを追求した末に出る結論ともいえる。で、ローゼン メイデンは「生きているような」完全性を追求した結果の産物である(実際に作中では動いているわけだが……)。よって、球体関節であることは自明というわけだ。
そういえばこの作品、アニメ化されている。……観るべきなのだろうか。それよりも「戦闘妖精・雪風」の OVA を借りることが、今の私にとっては優先事項だ。作者と監督が別の人間であるという時点で、既に“同じもの”を期待してはいない。全く同じものでも面白いには面白いだろうが、それよりもどのように解釈され、どのように変化したのか、という結果を見ることもまた面白い。その結果が自分にとって良かれ悪しかれ。
「死して咲く花、実のある夢」(神林長平 ハヤカワ文庫SF)を読む。
この作者が書くユーモラスな人物はまさにツボ。笑いを堪えることができないので、講義中に読むことができない。そんなことするなって? 今日はしてないから大丈夫。
のっけから空を飛んでいるクジラの肉を焼いて食いつつ、醤油はないのかとボヤきながら舌鼓を打つ少尉がいろいろ考えてみるに、われわれは死んだのだ、という見方がいちばん現実的である。いま、われわれがいるところは、死後の世界なのだ。重大発表おわり。食事にもどってよし
と宣言するあたり、もう私に笑うなという方が無理だ。
とはいうものの、この作品。本質はかなり深い SF である。最終的に提示される概念(観念?)は、あまりにも自然に与えられるので、最初は違和感がなかった。後からじわじわとくる。
登場人物の三人(降旗少尉、知念軍曹、大黒一等情報士)が織り成す掛け合いは、どうにも高専一年の頃、昼休みになって「行列のできる不味い店」と称される寮食堂の前に並んでいる時、意味もなく他愛もない、半ば漫才のような会話を交わしていたことを思い出させる。行列ができてしまうことによって生まれる時間。他の地域から来たクラスメイトの話を聞くことができるタイミングでもあった。FF を「エフエフ」と呼ぶか「ファイファン」と呼ぶか、白熱した議論になったことを今でも覚えている。
今日は、ついでに「今宵、銀河を杯にして」も読んだ。頬の肉が緩みっぱなしの一日だった。
「ディエンビエンフー(Diên Biên Phu)」(西島大介 角川書店)を読む。
ベトナム戦争を扱った漫画といえばそうなるだろうが、かなり特殊というか、戦争の渦中にいるような感覚にならない。それが不思議。
Warning 以下の内容は多分にネタばれ・個人的解釈を含んでいる。ネタばれや、個人的な解釈を読むのは嫌だという方は、読み進めないことをお薦めする。
恐らく、その不思議の原因は主人公(ヒカル・ミナミ)の特性に端を発しているのだろう。アメリカ人でありながら、日本人のような自己主張の無さ。日系二世という設定から、その風貌は日本人そのもの。やたらとチビであり、年齢17才と異常に若く、「苦悩」とは無縁の性格。
……そして、少女。
少女もまた凄まじい。異常な、人智を超えた戦闘能力。11才という年齢。そして、作中で一回もまともに喋ることがない。「ンククッ」という、一種の笑い声のような、意味を成さない音だけを発する。
冒頭にあるエピグラフは、これらの設定・物語の進行を総括するために設けられている。
多くの場合、本当の戦争の話というものは信じてもらえっこない。
すんなりと信じられるような話を聞いたら、眉に唾をつけたほうがいい。
真実というのはそういうものなのだ。
往々にして馬鹿みたいな話が真実であり、まともな話が嘘である。
何故なら本当に信じがたいほどの狂気を信じさせるにはまともな話というものが必要であるからだ。
ティム・オブライエン「本当の戦争の話をしよう」(村上春樹 訳)
そもそもの端緒がこの数行であることは、著者自身があとがきで認めている通りである。
パッと見、確かにこの漫画は無茶苦茶だ。続刊があるかは知らないが、途中でぶった切れる物語もそうなら、主人公の辿る道もまた、波乱万丈である。
だが、ヒカルはあくまでも精神に異常をきたしたり、ぐだぐだと悩んだりしない。だが、そんなヒカルに、我々はあまり違和感を抱かない。
オビにもあるように、話のプロットは一つの恋のようなものを軸にしている。してはいるが、それは一般的な、ごくありきたりのそれとは全く違う。まず第一に、ヒカルは少女に殺されかける。とはいうものの、少女の方も確実に殺そうという気は更々無かった。何せ、カメラを狙ったのだから。次に、ヒカルの方は少女を積極的に探そうとしていない。あくまでも受動的で、別部隊に編入して戦禍の中へふらりと戻っていく。
むしろ、少女の方が積極的である。別部隊に編入したヒカルの真横を平然と通り掛かったり、果てはその部隊をまたヒカルを残して全滅させたり。ヒカルにつけた傷へキスをくれて帰るのもまた凄い。更には、脱走しようとしてボートに乗り込んできたヒカルを川に自分ごと突き落とす。乗っていたボートは爆破された。あくまでもヒカルだけは殺さない。理由は何も説明されない。ただ、その事実だけが横たわる。
最後の方で、ヒカルと同伴する、これまた戦闘能力過剰の特殊兵。背丈はヒカルと同じ背丈、つまりチビであり、軍服ではなくマントのようなものを羽織り、やけに女っぽいが、男である。かなり饒舌。そして「女の子には興味がない」と何度も繰り返す。彼の興味は“戦争”、しかも彼自身の定義したそれだ。――これらの点は、能力を除き、その全てが少女とは正反対である。
そんな彼は、最後の最後、ヒカルにこう告げる。
「ベトナムでヒカルみたいにうれしそうにオナニーする人初めて見た」
それが、この物語の性質を端的に現している言葉ではないだろうか。同時に、それは何故ヒカルが戦争にまつわるイデオロギーを構築せず、ただ気づけばそこにいるという状況を享受しているのか、また少女を能動的に探しに行こうとしないのかをも内包している。
言うなれば、ヒカルは、現代の日本に存在しているような人種なのだ。反抗もせず、自分の意思を声高には主張せず、世渡りはそれなりに上手で、だがどこかヌケている。……それが、ベトナム戦争という舞台装置を借りて現出しただけのこと。
ヒカルは戦争というものを見ていない。恐らく、報道として配属された当初は、何も見るものがないから仕方なく戦争を見ていた。というより、目の前の戦闘や、状態……と敢えて呼ぶが、それらだけを見ていた。アメリカがどうだとか、ベトコンがどうだとか、そんなことは微塵も感じていなかったのだろう。
そして、少女は、そんな少年に見ることができるものを与えた。
傷は象徴であり、記憶は糧であり、写真はオカズである。
――ヒカルは、自らの現状を明らかに楽しんでいる。嫌な記憶、戦争の爪痕から目を逸らすために、様々な種類の快楽(ヒカルの場合はオナニー)に溺れているわけではないのだ。第一、彼にはそもそも目を逸らすべき対象が無い。戦争にしても、ただ自分の身の回りで起きているだけのこと、という認識である。
少女の存在を想像しているだけで、彼は満足しているのだ。ここには居ない、自分の中にある理想の少女を幻視するだけで、欲望を吐き切っている。少女を自ら探そうとはしない理由がここにある。つまり、彼は、もう一度少女に会うことで、自分の中に築き上げた幻像を破壊したくなかったのだ。無論、その像の殆どが少女自身の行動によってもたらされているのは言うまでもないだろう。少女が意図的に自分の存在をヒカルの中へ固定しようとしたのかもしれない。
少年は、自己の内面に完結した世界を構築しているといってもいいだろう。
人は、そんな閉じた世界を「ハーレム」と呼ぶ。
……何だかまとまっていないような気もするが、まあいいや。
スタンリー・キューブリック監督作品「Full Metal Jacket」のオマージュであろうかとも勘ぐれるような部分がある。まず主人公が米軍の報道班に属していること。それから、冒頭でその主人公に、部隊の人間が敵兵の死体を見せびらかすこと。……偶然の一致かもしれないが。ただ、報道班員といってもカメラマン(「Full Metal Jacket」の方はどちらかといえば記者)だし、死体の描写もグロテスクという点が異なっている。
タイトルの u は、本来 u に ? の点がない部分が上にくっついたような字。探してみたのだが、ちょっと見つからなかった。ベトナム語だろうか? 作中で使用されている un, dewx, trois と、植民地であったことについてのほんの僅かだが言及されていたので、フランス語かもしれない。どうやら、ベトナムの地名らしい。が、Latin-1 レベルのアクセント文字では発見できなかった。……うーむ。謎だ。
と、常々そう思う今日この頃。
テスト週間に徹夜はつきもので、事実私もほぼ毎日のように徹夜で文字通り一夜漬けを試み、テストに向かう。
そして、徹夜とくれば当然問題になるのが、夜食。
夜食の定番といえば……そう。ラーメンである。
下宿生ならまだいい。いつでもガスコンロなり電気ポットなりを使える。だが、こちとら寮生である。
まず、捕食室にあるガスコンロ、オーブントースターの使用期限は、テスト週間中は延びるものの、それでも午前0時までである。よって、それまでに湯を沸かさなければ、ラーメンが食べられないという計算になる。
また、「持ち込み禁止物品」なるものも存在する。ラーメンに直接関係するものでいえば、電気ポットやホットプレート、電磁調理器、七輪など、あらゆる熱を自ら発生するタイプの物品が持ち込み禁止とされている。ライターも駄目。
つまりは午前0時までに湯を沸かして、あとはどうにかしろ、ということだ。
幸い、魔法瓶は持ち込んでよいことになっている。学生寮に入ってまず日課になることの一つが、湯を沸かすことだ。そしてそれを、各々が持ち込んだ魔法瓶へと移し変え、ラーメンを食べるにしろコーヒーを淹れるにしろ、その湯を用いる。
腹が減ったら夜食を食べる。その時間は不定なのが常だ。例えば、午前三時ごろになって胃が「ぐぅ」ということもある。
ここで便利なのがカップ麺だ。お湯さえ存在すれば、注いで待って食べるだけ。
しかしながら、そこは寮生。はっきり言ってお金のない人間の方が多い。
そんな貧乏人に、割高なカップ麺を買えというのはかなり酷だ。安売りしているときに買い込めればいいが、そういうブツに限って肝心のテスト週間中に切れてしまったりする。
かといって、袋麺を買えというのもまた無謀な話である。袋麺は火にかけなければならないからだ。ぐつぐつ煮込む……などという行為は、午前0時をまわった時点で不可能になる。それ以後が問題なのだ。
そこで、チキンラーメンの出番である。
チキンラーメンは、袋麺ながら煮込む必要がない。お湯をかけるだけで食べられるという、カップ麺と同じ調理法を用いることができる。しかも安い。一般的な袋麺と同程度か、それ以下の値で売られる。
そう。チキンラーメンは寮生の味方なのだ。安価で味も悪くなく、お湯だけで作れる寮生思いの一品。
次のテストも、恐らくお世話になるだろう。また太る……。
因みに、チキンラーメンのキャッチフレーズは以下のようなものだ。
「すぐおいしい、すごくおいしい」
だが、私(だけかもしれないが)達寮生は、これを次のように読み替える。
「すぐおいしい、すごくさみしい」
……言いえて妙だ。
文庫本だけなら、今現在何冊もっているだろうかと少し気になったので、簡単に数えてみた。
冊数 | |
---|---|
早川書房 | 113 |
東京創元社 | 33 |
サンリオ | 4 |
その他 | 93 |
合計 | 243 |
本棚のスペースが足りなくなるわけだ。ついこの前まで100冊ぐらいだろうと高をくくっていたが、その倍以上になっている。
やはり冊数トップはダントツで早川。そのうちのかなりの部分を神林長平とアイザック・アジモフの著作が占めている。
東京創元社のものは、大半がP・K・ディックの著作。サンリオは全部ディック。
その他のものには、所謂ライトノベル系のレーベルが含まれている。新潮、角川、メディアワークス、文芸春秋、岩波、ソニー、竹書房などだ。
今回数えたのは文庫本だけなので、ハードカバーや雑誌、ムックなどは除かれている。
……しかし、とある友人は文庫だけで300冊以上の蔵書を持つという。流石にそこまではいっていないが、選り好みしているというのもあるだろう。全部最低でも2回は読み返すし。
今は「太陽の汗」(神林長平 ハヤカワ文庫JA)を読んでいる真っ最中。前半はまだ SF 色が薄めの作品だが、主人公(?)の JH が段々と“現実”を見失っていく様は緊迫感抜群。後半も楽しみだ。
長かった。五日間連続は。
しかも、一番最後に暗記科目が来るとは。熱・統計力学は配布されたプリントに記されている教科書練習問題回答をそのまま暗記するだけで点が取れる。しかし、その分量がかなり多い。よって、暗記が大の苦手である私は苦労する羽目になる。こういう時、短期記憶力が良い人間を羨む。
私は何かを記憶する、ということが非常に苦手だ。それこそ本当に三歩歩けば忘れる鳥頭である。前日の昼食に何が出たか、ということなど、次の日の朝になれば忘れてしまう。一瞬前まで考えていたことを思い出せなくなるなどしょっちゅうだ。えらく揮発性の高いメモリを持った脳味噌だな、と自覚したのは小学生の頃だったように思う。当時は「メモリ」という概念など知らなかったが。
学校の授業でやった内容は簡単に忘れはしなかった。宿題をしっかりやっていたからだと思う。記憶の元栓を締めていたようなものだ。揮発するのを抑えていた。改めて思い出させることによって、バッファ(= 短期記憶)をフラッシュさせて、長期記憶に書き込んでいたのだろう。
今はもう、殆ど一夜漬けでテストを乗り越えているような有様だ。私の好きな講義は殆ど無くなって久しい。大嫌いな機械系、制御系の講義は、興味が微塵も沸かないし、教官や教授の話もちんぷんかんぷん。「もうこれはわかってるよね」というスタンスで話を進められるから、そもそもラプラス変換もフーリエ変換もまともに理解してない私に、線形動的システムの周波数伝達関数に関する問題など出されても困る。
……ここだけの話、その人の講義は聴いても板書された式を見ても全く理解できない。話はどんどん進むし、板書を消す順番も出鱈目で、つい先程書いた部分を即座に消してしまうことも日常茶飯事である。
そんな中、つい一昨日のことだ。件の「制御工学」テスト当日の朝、図書館でクラスメイトと共に最後の追い込みをかけていた。そのクラスメイトが書棚から制御理論に関する本を持ってきた。そして一緒に読んだ。
本の方が解りやすいってどういうことだ。
私は愕然とした。教授が一見筋道を立てて版書していると思われることでも、実際のところはかなり支離滅裂だったのだ。本として体裁を整えられている「考え方の順序」を読んだ方が、無駄なく整頓された筋道を提供してくれていたのだ。
静的な情報がどれだけ私の脳に適合しているか、それをまざまざと見せ付けられた瞬間だった。
そう。私は動的な情報を処理することが苦手なのだ。今回の出来事は、それを自覚させてくれた。何が大事かといえば、先程も述べた「宿題」の原理だ。反復できるか否かである。
授業中に与えられる情報は、全て動的なものだ。反復する間もなく次の情報が与えられる。板書にしても、見た目は静的だが、書かれる内容は常に変化する。
本やレジュメは静的なものだ。何度でも好きなだけ読み返すことができる。逃げ去ったりしない。
何かを理解する為に必要な「環境」を、ようやくこの年になって理解した。……遅いっつーの。