どんどん金が減っていく今日この頃。
「網状言論」「波状言論」は、完全に衝動買い。先に本屋で積まれていた「波状言論」を購入した。なかなかに濃い内容。全く咀嚼しきれていないので、何も書けない。ただ、現在の、特に活発に見えて流動的なメディアを包括する場合、その思想的な背景には、肉体的であるがゆえに精神的だと思い込まれがちな欲望に直結した消費行動が存在することは理解した……と思う。
「ユリイカ」はいつものように、特集が面白そうだから購入。案の定、マンガという表現形式に対する様々な視点を読むことができた。
「ひぐらし」三部作はようやく近所の書店に再入荷されたのでまとめて入手。どれも二巻構成で、それぞれ原作の前半・後半を表現するそうだ。鬼隠し編の「嘘だ!」シーンに込められた力の入れように感嘆し、綿流し編の赤面率の高さに苦笑いしつつ、祟殺し編の描写の丁寧さに一息ついてみる。……一番びっくりしたのは、やはり圭一の親父さんが描かれていることか。どこからどう見てもネジが三本ぐらいぶっ飛んだ「自称」芸術家というベッタベタ加減には笑いしかこみ上げてこなかった。お袋さんが目茶目茶普通(の外見)というのも確かに頷ける。原作では影薄いから……。
「ぱにぽに」は、とりあえず原作を読んでおこうと1巻を買ったのはいいが、どっぷりはまってしまった。何ていうか、どう考えても突っ込みどころ満載のキャラクターが登場するのに、いつもスルーされてしまうというまったりっぷりに、ある種の哀愁さえ感じる。……ベホイミ可哀想。
「蟲師」は……。えっと。アニメ観ないことには微妙。ぶっちゃけた話、内容の半分は本編の焼き直しなので、値段半分でいいから内容の半分だけ売ってくれという感じ。書き下ろしの話でもあればよかったのだが、それすらもない。期待はずれでゲンナリした。
「ローゼン」は雑誌を買っていないので、私にとって単行本が最新情報。つーか雛苺本。あと金糸雀。真紅様の影があまりにも薄い。確かに活躍はしているけれども、インパクトで見れば圧倒的に雛苺と金糸雀。翠星石は出番が少ない。
「神栖麗奈」二作は、概念を観念として固定してしまった場合にどのような現象が発生するか――を示したものではないかと思う。ファンタジーと普通小説を足してミステリで割ったような作品。純粋なフィクションでありながら、舞台背景が使い古されたものであるが故に違和感を拭えず、どこかに気持ち悪さが残る。……それを狙っているのだとは思うが。
先日の続き。
Warning 以降の文章は、ゲーム「ひぐらしのなく頃に」のネタばれを含んでいます。
このように、竜騎士07は感情移入という手法を巧みに用いて、視点(=肉体)的な俯瞰と思考(=精神)的な俯瞰を極限まで分離し、ズレを持たせることで謎を謎として深めることに成功している。無論、その為には手段を厭わない。
以上、色々述べてきたが、まだこの論考が未完成であるような気がしてならない。
機会があれば、また続きを書こうと思っている。
で、話題を変える。
同じひぐらしネタなのだが、こちらは小さなこと。でも、周囲の人間が気付いていなかったようなので少しメモしておく。
まずはこの疑問。「なぜ、悟史の買おうとした巨大ぬいぐるみは忽然と姿を消したのか」。
これ、結構すぐに推理できる事柄なのだ。それが同じものかどうかは定かでないものの、「大きさを強調されたぬいぐるみ」という共通点をもつものが既に登場していた。
そう。綿流しの夜、射的で見事圭一が仕留めた巨大ぬいぐるみのことだ。
つまり、こう考えれば妥当だ。「おもちゃ屋の主人(圭一のやってくる一年前なので、ボケたじいさんの方)は的屋のおやじに巨大ぬいぐるみを売却してしまった」と。
では次。今度のそれは、「皆殺し編」をやらなければ達することのできない推理。
「圭一の親父さんは、羽入を知覚していた」。
ソースは「解」シリーズ Tips の「雛見沢だった訳」。この文章、私の知人は梨花と沙都子のことだと思っていたらしい。だが、よく読むと様々なヒントが満載されている。二人とも髮が長くてとても美しい少女たちだった
という記述もそうだし、髮の短い子と長い子ならいる? ううん。多分違うと思うなぁ
という記述もそうだ。
何より、羽入は髮が長い。ダム闘争当時の沙都子は髮が長かったかどうか確認がとれていない。
それだけしか手がかりが無いので確定情報ではないが、少なくとも沙都子であることより説得力はあるだろう。
まあ、これらの事項は、もしかしたら既に本家の掲示板で議論されているのかもしれない。覗いたことがないから何とも言えないが。
延々続いたひぐらしシリーズも、とりあえず今回で打ち切り。あまりにも間が開きすぎたことと、別のことも書きたい欲求がある為。
あーあ。「ぱにぽにだっしゅ」の DVD 欲しー(近くの TSUTAYA には置いてないのだ)。と言ってお茶を濁してみる。
先日の続き。
「鬼隠し編」では圭一の恐怖、「綿流し編」は魅音への同情、「祟殺し編」は沙都子の境遇と、それぞれ不幸である確固たる理由が確立しており、ステップ1にて既に殆どの感情移入を終了している状態である読者に更なる没入を促す。
「暇潰し編」もまた同様である。ここでは、主人公である赤坂の家庭事情並びに梨花がおかれた状況がそれにあたる。
どういった観点から見放されているか(=孤立しているか)は物語によって差異があるものの、「主人公が極端な行動に出ようとする」というパターンは今のところ外伝的な「暇潰し編」を除き全ての話で原理的に一貫している。この極端な思考を2ちゃんねるでは KOOL と定義づけた。
KOOL になった主人公は、自分が冷静であると認識している。そしてそれは、一見したところ落ち着こうとしている、という文面によく表れている。
しかし実際は落ち着いておらず、主人公は概して明らかに興奮状態にある。そして KOOL な行動に出る。それは殺人・死体遺棄に代表される極端な問題排除だ。
連帯感は主人公の主観に引き摺り込まれることで発生する。その結果として、前述したように視点俯瞰の確保と思考俯瞰の抹消が発生する。
……続く。
先日の続き。
竜騎士07が読者に対し感情移入を強要する方法は、確かにディックの方法1並びに2を用いている。
しかし、1にあたる方法の前に、別のファクターが追加されている上、それによってディック法における1並びに2の順序が変化し、尚且つ3が存在しないものとなっている。
では、竜騎士07法その1から順に考察していく。
もうここからディック法とは異なっている。ディックは主人公の状況を、殆どの場合最悪にしてある。つまり、主人公は最初から不幸なのだ。
対して、竜騎士07は主人公に幸せな時間を存在させており、物語中でしっかりと語らせている。この手法は後の逆転劇に繋がるファクターとして重要であり、また感情移入を行わせる為の下地を構築する為に必要になってくる。特に、主人公達が外見上は(性格的な側面も含めて)あまり一般的とは言えない設定である為、「どこにでもいそう」と始めからはっきりとわかるディック世界の主人公達とは一線を画していることからも、「あらかじめしっかり語っておく」ことは、より読者にとって一般的な存在に近づける効果を発揮する。
そのための舞台装置として用いられるもののひとつが「部活」である。「こんな連中いるわけねーよ」というぐらいに極端なテンション、高いゲーム性とキャラクターの個性にあわせた戦略の構築、さらに勝敗により決する厳しい罰ゲームなどの要素を組み合わせ、そこへ更にスピーディーに読め、しかし量は多い文章を追加することで、内容の濃さを演出する。また、罰ゲームを下す側も実行する側にも、あえて陰鬱な雰囲気を排除することで、「幸福」の一つのかたちとして部活動を現出させることに成功している。
また、面白ければよしという風潮をつくりだしておくこと、更に部活そのものの特殊性をいかんなく発揮して、ありとあらゆることを部活とし、勝負ごととすることができる。実に汎用性が高い舞台装置が、こうして造られる。
そう。この段階での目的は、初期のうちにキャラクターに対する「魅力」を読者に対し与えてしまうことにある。そして、読者を「ひぐらし」の世界観に引き摺り込み、絡めとり、逃さないようにする。
この段階で、既に主観への没入をあらかた完了させてしまう。「俯瞰のようで主観」という状況は、確固たるものとして目に見えぬ状態で横たわるようになり、読者を翻弄する為の触手を伸ばし始める。前半部分をほぼ全て費す構成は、何とかして読者に了解させるんだという作者の心情を反映しているのだろう。
そうして物語は、変転を迎える。
無論、「幸せである時間」の描写は、物語が進むにつれてどんどん短くなっていく。「鬼隠し編」「綿流し編」「祟殺し編」において、物語の変転する瞬間が微妙に異なるのを見れば一目瞭然である。「祟殺し編」に至っては、祭りの前にまでズレ込んでいる。
この手法は物語を読ませる上でスピード感を出すために、助長性を無くすために重要だ。例えばディックの「虚空の眼」は、まさにその手法がいかんなく発揮されている好例である。詳細は大瀧氏による巻末解説に譲るとして、ここではスピーディさを助長するだけでなく、「どんどん不幸になっていく」という心理的効果も狙っていると私は感じたことを述べておく。
この、「どんどん不幸に」メソッドは、「解」シリーズにおいて変化を見せる。「目明し編」「罪滅し編」「皆殺し編」と続くに従い、それぞれ「鬼隠し編」「綿流し編」「祟殺し編」の舞台背景が明らかになっていくのだが、終わり方はバラバラといってもよく、「罪滅し編」に至ってはハッピーエンドではないかという気にさえなる。
だが、果たして「目明し編」や、それにも増して「皆殺し編」が不幸なのか? といわれると、少し違うのではないかという気さえする。それは、不幸を測る物差しを変えればおのずと見えてくる。
その物差しは、実のところ「皆殺し編」において明示されている。そう。梨花が言うように、「みんないっしょ」でなければならないのだ。圭一、礼奈、魅音、詩音、沙都子、そして梨花。全員が同時に存在していなければならない。
そう考えると、「解」シリーズで一番「不幸」な結末は「目明し編」であるといえよう。何しろ部活メンバーは殆ど退場してしまうのだから。残ったのは詩音(魅音)、礼奈、圭一の三人だけである。
次は「罪滅し編」だろう。大団円で終わったと思えても、実はその後に梨花が殺害されてしまう。全員というわけではない。
最後は「皆殺し編」。これはもう最悪と言うしかない部類に属する。しかし、退場するのは全員だ。つまり、「みんないっしょ」という観点から見れば、全員がいっしょであることに変わりはない。屁理屈だろうか?
つまるところ、見方によっては、「解」シリーズでは「どんどん幸福に」メソッドが適用されている、といえるわけだ。「皆殺し編」では、もしかしたら次は、という気にもさせられる。まだ最後の一編が残っている事実も、その期待を助長する。
……続く。
舞台背景夏なのに、今は冬真っ盛り状態。「ひぐらしのなく頃に 皆殺し編」、徹夜で綿流しの日まで読み終わった。
この作品を今まで通しで読んできてまず感じたことは、やはりその時主役を張っているキャラクターに対し徹底的に感情移入させようとする作者の思惑だろう。皆ではっちゃける部活動もそうだが、後半になりいつも訪れる怒涛の展開は、有無を言わさずその「主人公」の世界観(つまり主観)に引き摺り込み、視点は俯瞰なのにどうしてこうまで主人公に対し何らかの感情を抱かせるのだろうかという錯覚を起こさせる。
何故錯覚か? 当然だ。既に主観の世界へと誘われ、それにすら気付いておらず自らの立ち位置が俯瞰だと思い込んでいるからだ。ある意味ネタばれだが、「ひぐらし」にはこうした思考誘導が主人公に対し実に有効に作用している。無論、我々読者にもだ。視野を狭められ首を動かすことすら許されぬドライバーは、最早目の前に見える道を進むことしかできない。車線変更もできなければ右折左折も不可能。やがては行き止まりが訪れる。
本来、読者は気付かねばならない。自らが、実は俯瞰でも何でもなく、徹底的な思考誘導に満ちあふれたテキストを延々と一人称で読まなければならない状況にあることに。一人称は即ち俯瞰の喪失に他ならない。具体的には、他と自を隔てる境界が、単なる視覚的・空間的なものだけに留まらないということだ。つまり、そこには「肉体」、そして「思考」の存在がある。
「肉体」と「思考」は強烈な縛りだ。そこから逃れることは一人称に許されない。特に「思考」を完全に固定され、強い意志(しかしそれは意図的に操作されたもの)によってのみ次の行動を決定する各話の主人公と、我々はつき合わなければならない。
私は、同じように読者に対し徹底的な感情移入を要求――いや、強制している作家を知っている。フィリップ・K・ディックだ。彼もまた人間が人間であることは感情移入の有無であるという主張を自作に採り入れている。そうやって人間を定義したわけだ。
しかし、「ひぐらし」作者である竜騎士07とディックの感情移入論には決定的な差異がある。それは何か?
創元SF文庫版のディック作「死の迷路」で、訳者である山形浩生氏は次のようにディックの感情移入の根源を分析している。
(前略)ディックがなぜ傑出しているかといえば、それまでの「落伍者にも実は隠された才能があるのだ」というストーリー作りに対して、「落伍者は落伍者であるがゆえにエライ」という、自堕落といえばこれほど自堕落なものもないテーゼを恥ずかしげもなく持ち出してきて、しかも呆れたことにそれを読者に納得させてしまったという一点に尽きている。
- 「ぼくのネコが死んだからぼくは不幸だ」など卑近な撒き餌で同情を誘う。
- 「ゆえにぼくは(そしてそれに同情した読者も)世間に見放された落伍者だ」と自己憐憫を媒介に連帯感を強要。
- 「落伍者は落伍者であるがゆえにエライ」、よって「ぼくらはエライ」、と論理で押え込む。
このプロセスの1、2はよくあるナンパ師の手口で、ディックの独創ではない。(後略)
「死の迷路」訳者あとがき
つまるところ、ディックの感情移入はいかにして相手の女の子(=読者)をその気にさせるか、というところに収束する。あとは女の子の方から寄ってくるというわけだ。
しかし、竜騎士07のそれは少し異なる。
……続く。
ネットワークに接続できない実家は辛い。
去年は色々なことがあった。
……でも友人に頼んで30日の最低限欲しかったものだけは入手。
今年に入ってから神保町へふらりと出向き、ディックの関連品を品定めしていたら思わぬものが手に入った。
何とユリイカのディック特集がペアで置いてあった! 勿論即座に購入。しかも銀星倶楽部の特集号や「ニックとグリマング」、その他諸々も。しかし予算の関係上購入不可能だったので断念。当時定価980円のユリイカが、今となっては2100円。2倍以上ってどういうことだ。しかもその店、今は無きサンリオSF文庫版のディック作品が全部セットになって売られていた。こちらは40000円越え。ゼロがひとつ違う……。
店の人の話では、やはり今でもディックは根強い人気を持ち、関連品もコンスタントに売れているのだとか。今年の春、「スキャナー・ダークリー」が映画化され、公開されることになっている。またブームが訪れるのだろうか。そうなってほしい。個人的には「シミュラクラ」をもっと安く手に入れたいのだから……。