〆切は今日の13:00まで。英文の Abstruct を執筆中。
ようやくこぎつけたという感じ。何としてでも終わらせる。そうしなければ卒業できない。ようやくここまで来れたのだ。
ちなみに、昨日の発表はそれなりだった。緊張したものの言いたいことは全部言うことができた。減点されていたとしても許容範囲だろう。
昨日から今日にかけてもほとんど寝ていない。5本目の栄養ドリンクを開け、エスタロンモカを3錠一気飲みしてようやく意識を保っている。それでも、去年度の創造設計に比べればまだマシ。乗り切る自身は、ある。
あと少し……。
追記。全てが終わった。午後2時頃のできごと。っていうか提出期限を一時間もオーバーしましたよもう嫌だ。
まあ、これで何とかなりそうなのでよしとする。疲れた……。
現在(10:00)最後の追い込みをかけている途中。何度も何度もプレゼンテーションの練習をしている。発表に8分、質疑応答に2分。それが制限時間の全てだ。
ウチの研究室は他の研究室と比べて折れ線グラフや表といったものが少ない。実験的なことが少ないからである。ちなみに最終的な私の卒研タイトルは「Ordered Binary Decision Diagram の表示に関する研究」。理論背景の説明がプレゼンの大半を占めており、棒グラフや折れ線グラフが出てくる余地はない。その代わり、OBDD のグラフ(diagram)がたくさん出てくる。状態遷移図も7枚描いた。
以下に列挙するのは MagicPoint によるスライドを PNG に変換したもの(1024x768)。黒く塗りつぶしてある部分は……お察しください。
それでは、発表してくる。
さっきプレゼン資料先生に送った。……遅すぎ。
そしてまだ卒論が全部できていないという罠。ちなみに卒論は28日13:00まで。今日と明日は徹夜確定。
引越しの準備もしなければならない。ミカン箱3つに詰められるだけ詰めたのに、まだ本が本棚に残っている。あと2つは必要だろう。他にもプラケースに入った小説とマンガが大量にある。それに加えて生活雑貨が少々。
あー。まだ住むところも決まっていないのに。閉寮してしまう。
自分の蔵書を、覚えているものだけTakuの本棚としてリスト化してみた。趣味丸出し。
この前貰った一万円分の図書カードが、一ヶ月しないうちに残高ゼロ。先日次の本を買って残りの二千円ちょっとを使いきった。
「蟲師」では、今回初めて過去に登場したキャラクターが再登場する。狩房家の二人だ。短篇連作の体をとる作品ではあるものの、このプロットの導入で長編としての体裁もとれるように幅を広げた。以前からその気はあったものの、今回ようやく明示された格好。今後に期待。
「CLOTH ROAD」は「かみちゅ!」でも一緒に仕事をしていた二人が組んでいると知って、衝動買い。結果はまずまずのアタリ。プロットの急展開には何か裏がありそうだが、服、街、WAR-KING シーンを純粋に楽しめれば全く問題がない。主人公二人の劇的パワーアップという王道を踏襲している点に「ジャンプ」らしさのようなものを感じた(連載はウルトラジャンプ)。服にコンピュータを埋め込むという発想は、人体への直接インプラントよりマイルドな設定ではあるものの、基本的にサイバーパンクの延長線上に位置していると思う。
いい加減横に長くなったので、バナーをスクロール表示させる JavaScript オブジェクト Banner
を書いた。スタイルの調整含め全部で4時間ぐらいかかった。但し IE6 には未対応。Mozilla Firefox 1.5.0.1、Opera 8.5.2、Opera 9 TP2、Konqueror 3.5.1 にて動作を確認。おおむね希望通りの代物ができあがったといっていいだろう。
一番苦労したのがスクロールの実現部。これにはネガティブ margin を使用したが、#banner を直接ネガティブ margin で右から左へ移動させると、どうしても左側に配置したスクロール用ボタンに被ってしまう。clip を使う方法でもよい結果は得られなかった。
そこで、#banner の子要素である li をネガティブ margin で動かす方法を実装してみた。大体次のような前提条件があったからだ。
この2前提は、li 要素の合計幅が確定していることを示している。特に float を用いていることは重要だ。もし仮に li 要素を inline 要素として配置していたとしよう。確かに見た目は float の場合とほぼ同じである。ネガティブ margin を指定することもできる。しかし、li 終了タグの後に改行文字を入れている為、空白文字1文字分だけ画像と画像の間に隙間ができる。これがなかなかに厄介で、正確な横幅値を算出することができないのである。em 単位と px 単位の加算はできないからだ。
float を用いる方法なら、この空白文字は出現しない。よって、確実に img の幅 + margin-right 値が一つのバナーの持つ横幅であることが決定してくれるのである。
今回、久々にかなり更新間隔の早い(現時点で50ms)タイマ処理を実行するコードを書いたのだが、そこで顕著に現れたのが UA 毎の動的レンダリング処理能力に雲泥の差があるということ。前々からどこかで目にしていた話ではあるが、実感すると「何だよオイ」という気になってしまう。
Firefox で開発とデバッグを行い、Opera と Konqueror で動作の確認を行うスタイルで実装を行ったのだが、Opera と Konqueror が Firefox に比べて動的なレンダリングにかなりの CPU 時間を喰ってしまうのだ(その時は、GNOME システムモニタで全体の使用状況をモニタリングした)。一番酷いのが Opera で、まだマシなのが Konqueror。Firefox では CPU 時間をほとんど消費することなくサクサクと動いたのに。Opera に至っては100%にまで達していた。
何となく詳細な使用状況を調べたくなったので、実際に確認してみた。パソコンの環境は以下の通り。
Intel Pentium III 750MHz(実クロック 690MHz)
128MB
Vine Linux 3.2
連続スクロール処理中の CPU 時間使用状況は次の通り。
top
コマンドの更新間隔0.5秒で確認。小数点以下は切り捨てで、5秒間実行した場合(つまりプロット点数10)の平均値。
2% (X : 8%)
18% (X : 8%)
28% (X : 72%)
何と、Opera のプロセスそのものはたったの28%しか CPU 時間を消費していない(それでも他の2つに比べれば使いすぎである)。
しかし、GNOME システムモニタで観測したシステム全体としての CPU 時間使用率が、Opera の場合100%に達していたことは前述の通りである。では、どうして Opera のプロセスそのものは CPU 時間を28%しか消費していないのに、システム全体で見ると100%になっているのだろうか。
実は、お気づきの方もいるだろうが、括弧して X という項目も調べてある。X は勿論 X Window System のことだ。つまりは最終的な画面上への描写を司るプログラムである。
Firefox と Konqueror の項を見ていただきたい。両者とも、X を個別で見た場合、おおむね平均して8%程の CPU 時間を使っている。
ところが、Opera の項を見ると、X が72%もの CPU 時間を使用してしまっていることがわかる。この72%に Opera のプロセス自体が消費する28%を加算すれば、100%になるという寸法だったのだ。
しかも、この Opera の高負荷状態は Linux 版だけではなく Windows 版でも発生する。詳細は省くが、Athron XP 2500+ / 512MB / Windows XP Pro では25%の CPU 時間を使用している。
Firefox と Konqueror ではおおむね同じ値だったのに、何故 Opera では X の使用状況が変わってしまうのだろうか。今のところ原因は不明だが、JSSS のパーサに何らかの冗長なアルゴリズムが使われているのではないかという推論をたてることはできる。しかし、それでは X の CPU 時間に関する部分はどう説明すればよいのだろうか? Konqueror と Opera の UI に使われている技術が同一(Qt)であることを考えれば、Opera が X に直接何らかの働きかけをしている可能性を考えることができるものの、こちらもあくまで推論にしか過ぎず、確たる証拠は何もない。Qt の使い方如何では X に過負荷を強いることもあるのかもしれないが、それでは Windows の場合における CPU 時間使用率の高さを説明することができない。
このままでは実用できないと判断し、Opera には適用しないように UA 判別を噛ませてある。……どうにかならないものか。
先日の購入物。
「季刊エス」は「かみちゅ!」の記事があるときいて注文を出した。そうしたら、「イノセンス」の美術設定を担当した渡部隆氏へのインタビューが載っていて驚いた。
更に驚愕したのが、Dr Pepper の新しいキャラクターイラストを担当した形部一平という人物へのインタビュー記事。あのイラストは現在でも缶・ペットボトルに利用されている。何だかお得な買い物をしたようだ。
注文も出した。今週の半ばには届くらしい。
この間貰った一万円分の図書カードも、この調子だとすぐになくなるなあ……。お金、欲しい。
wmacpi
の導入AC / DC コンバータに挿すケーブルに問題がある。コネクタ部分の内部でもしかしたら断線しているのかもしれない。普通にケーブルを挿しただけでは通電しないのだ。そのせいで何度となく唐突に電源が落ちるという事態に陥っている。
しかも、まだ電力消費をモニタして自動でスリープなり何なりしてくれればいいのだが、生憎とバッテリそのものが寿命寸前で、三十分ももたない挙句にバッテリがまだ半分以上残っているという表示なのにも関わらず突然蓄電量がゼロになり、当然ながらソフトウェアが追従できるわけもなく、いつも異常終了してしまう。
ケーブルの問題は今度秋葉原に行った時中古のジャンクショップを漁って解決するとして、今問題にすべきなのは電源状態のモニタリング。WindowMaker を使っていると当然ながら Dock アプリでありそうなものだが、Vine Linux 3.2 では apt-cache search battery
としても wmapm
しか引っ掛からない。
私のパソコンは ACPI だっつーの。
そこでググってみたところ、ちゃんと wmacpi
が存在するとわかった。早速落として make
する。
あっさりとコンパイルに成功して、実行してみる。
ようやく念願の電源状態の表示が実現できた。……感慨深い。
横文字ばかりで仰々しい。
先日、このサイトの「Space」スタイルについて、友人に言われた。確か、「frame かとおもったらメニューのやつが上にオーバーラップしていてあれ?と思った」という趣旨のことだった。
確かにそうなのかもしれない、と今更ながら思った。frame を使うという前時代的な技では、「Space」スタイルと全く同じ体裁を実現することができない。
無理であることは、内容領域(#body
部分)をスクロールしたときに最も顕著だ。メニューアイテムのドロップシャドウの下にスクロールされてきた文字が重なり、立体感を演出することに成功している。先に述べた友人は、このことをまず指摘した上で「どうやってやったんだ?」と質問をしてきた。それが目的だったのだから。
やっていることは至ってシンプルだが、考え出すと奥が深くて非常に面白いことになるのが CSS の特色であると私は思う。事実、前述の効果を生み出すには少なくとも以下の事項について知っている必要がある(無論、CSS の基礎知識は知っておかねばならない)。
特に text-indent にマイナス値を指定して、文字を閲覧領域外へ追いやる方法は、シンプルかつ強力で実に有用である(アクセシビリティに関する問題を孕むという欠点もある)。以前、私は独自に編み出した、指定するプロパティ数がかなり多い上に調整が面倒で、テキスト選択によるスクロールが発生する場合がある方法を用いていた。しかも、必ずブロック要素とその内部に何らかの要素が存在している必要があった(text-indent 法は事実上ブロック要素が1つあればいい)。無論、テキストそのものを閲覧領域外へ押しやることに変わりはなく、アクセシビリティ的な問題は同様についてまわる。極めてコストパフォーマンスの悪い方法だった。
とはいえ、text-indent 法そのものも、プロパティの意味を考えればまさに想定外といえる利用方法だ。まさに「裏技」と呼ぶべき方法であると思う。
CSS Level3 が勧告され、実装がきちんとするようになれば、border に画像を用いることができるようになる。そうすれば、もっと文字サイズに対してリキッドで、応用力の高いメニューアイテムを実装することができるようになる。
あと何年かかるだろう。……取り敢えず、長めに10年は見積もっておこう。
サントリーが発売中の炭酸ボンベを飲んでみた。
結論。そこそこパンチが効いているがすっきり飲める。
そういえば、ついこの間もキリンが「キリンレモンブラック」なるものを販売していた。簡単に言えば「キリンレモン」にガラナをぶち込んだだけ。それでも「キリンレモン」の特徴的な酸味がしっかり残っていて、かつガラナの織りなすキリッとした香りがいい具合に適合していた。ペプシコーラが駄目な人間には飲めない代物だが、そもそもコカコーラに刺激がなさすぎるのだ。
前述のように、少し前にはキリンから、そして今はサントリーから「ガラナ系」飲料が相次いで販売されている。ガラナは今、飲料メーカの中の人にとってブームなのだろうか?
とはいえ、先駆者である「コアップガラナ」諸氏に比べると、そのイメージは180度異なる。「コアップガラナ」は「上品で香り豊か」なのだ。
対して前述2品目は「粗野で刺激的」。この差はどこから生まれるのだろう。同じ系列の香り(ガラナ)を使っているというのに。
「炭酸ボンベ」は名前からして刺激を与えることが念頭に置かれている。確かに飲み口はピリッとした香りと炭酸のハーモニー。だが、一旦口の中に入れてしまえば後味は比較的スッキリとしている。
あっという間に消えそうなイロモノ飲料なのかもしれない。だが、それなりに個性を持ち、まさしくB級飲料と呼ぶにふさわしいものとして、記録に残すことも必要だろう。
良い飲料に巡りあえたときというのは、何と幸せなことか。
読み手にとって、最低限自分が今読んでいる文章はどのような人間によって書かれたものかは知りたいことらしいという言説をどこかで読んだ気がするので、About に少々の情報と「本当に訪問者が知りたい20の質問」というものを書いてみた。
私にとってはそういうことはなく、確かに信憑性についてクリティカルな場合は必要なのかもしれないが、それ程でもない場合はあまり気にしないのが本音である。
「土曜日の実験室 詩と批評とあと何か」(西島大介 INFAS パブリケーションズ)を読む。
全三部構成になっており、I、II、IIIとわかれている。
Iは批評的性格の強い、特集や別冊に載せられた作品群。
IIは文字媒体。エッセイ。
IIIはフリーペーパーやパンフレット、雑誌などに載った作品群+書き下ろし。詩的な要素が多い。
詩も批評もやった。だが他に何かある――それを突き詰めようとして、実験に実験を重ねた後にあるもの。それがほんのりと、しかしあからさまではなく載っているような本だ。最後の書き下ろし短編マンガ以外は、その軌跡である。常に不足を胸に抱えてそれらを書き、また描いていたのだろう。
不足は空白である。そして、Iに載っているマンガの大半には「埋めようとされた空白」「埋められた空白」がある、と私は考えた。ページをパラパラと捲り、コマを一つずつ追っていくと、不意に行き着くその領域。ふわっ、と自由落下に放り込まれたような感覚に陥る。
もしかしたら、それこそが「何か」なのだろうか。
埋めようとされた空白は、それを埋めようと試み、突き詰めすぎて、結果的に何もなくなってしまったかのような空白領域を指す。20-21ページ、28-29ページ、48-49ページ、66ページのそれが該当する。
対して、埋められた空白は、それを埋めようとしようがしまいが、ふと思わぬところから喪失された何かがほんの少しだけ埋められた、しかし空白であると感じられるような領域を指す。36-37ページ、58-59ページ、80-81ページ、84-85ページのそれが該当する。
そのどちらもが大切なものであるのは間違いない。本質的な行き止まりのような埋めようとされた空白と、分岐点であるともいえる埋められた空白。それは決して諦めではなく、しかし絶望でもない。
「満たされない」欲求の穴埋めをする行為(空白を埋めようとする行為)――それは人間なら誰でもすることだ。人間は(この世界は?)必ず欠落を持っている。それを完璧に埋めようとして失敗した例を滑稽に描き出したのが「エヴァンゲリオン」だといえる。また、欠けた部分の代替物を捜し求め、やがてそれが自身に起こった事象を探求し、整理する行為そのものに落ち着いた作家がフィリップ・K・ディックである。
「埋めようとされた空白」というものは、うまく機能することもあれば、しないこともある。失敗することの方が多いともいえるだろう。だが、成功することもあるし、その時現れた空白の喪失(忘却の喪失?)は、かなり確固たるものだ。だが、粘りがない事も多い。ほんの少しの理論武装で、粉々に砕かれる可能性だってある。
「埋められた空白」は、自覚的に訪れることがまずありえない。何らかの内的・外的要因がふとした拍子に入り込む。確固、という言葉すら不確定な状況なのだが、何故か粘っこさだけはあり、ちょっとやそっとでは崩れない。
さて、こうした状況を踏まえた上で、私は「何か」がどういったものなのかをほんの少しだけ垣間見たような気がした。それを如実に表した絵があるからだ。
200-201ページのそれだ。
表紙にもなっているその絵は、「埋めようとされた空白」「埋められた空白」の両方を兼ね備えているのである。両者が混在し、しかし反発することなく在り続ける状況。
だから「もういいんだ」と作者は告げる。それは、ようやく見つけた(わかった)からだ。両方を自分が持っていることに。持ちうることに。
……とまあ勝手に色々述べてみたのだが、はっきり言って私の文章は説明・表現不足のような気がしてならない。いつか加筆したいとは思うが、卒研がなぁ。
評論本と言うものは、読んでいて「ああ、こういう認識もあるんだな」と新しい視点をもたらしてくれる。逆に、その視点だけを絶対視してしまうと概念選択の固定化を招いてしまうので、諸刃の剣だということもできる。
ただ、読まないよりは読んだ方が蓄積となる。以下、購入リスト。
一応全部読んだので、論考はまたいつか。
少し古いネタだが、Opera 9 の TP2 がついにリリースされた。早速インストールしてレンダリングを確かめてみる。とりあえず、このサイトは大丈夫だった。
個人的には opera:config
とロケーションバーに打ち込むと、Gecko の about:config
と同じように詳細な設定が可能になる点に驚いた。試しに打ってみたらたまたまヒットしたような感覚。HTTP コネクションの数のようなディープな設定も Firefox よろしく簡単に行えるようになっており、しかも Opera の方はジャンル別に分けられたメニュー形式になっている。
もう少し使い込んでみれば、また新たな発見があるかもしれない。
随分と唐突だが。
森永乳業が販売している牛乳プリンがある。このプリンは結構好きで、昔からよく食べている。
だが、それこそ小学生の頃はあまり好きではなかったのだ。いや、明確に嫌いだった。
初めて食べたのはいつだったか覚えてはいないが、その時の気持ちははっきりと記憶に残っている。「臭いがきつくて全部食べられたもんじゃない」。
実際のところ、この牛乳プリン、たしかに牛乳が入ってはいるものの、かなり香料の匂いが強く、更にその香料が到底牛乳の香りとは思えないもの。当時の私は頭痛まで誘発したその臭いにただただ愕然とし、「こんなもの二度と喰うか」と誓ったものだった。
しかし、状況は一変する。
中学生時代のある日、母が何となしに牛乳プリンを買ってきた。当時、私は焼きプリンが好きだったので、おやつには結構プリンが出ていた。だがその日、いつもの焼きプリンは売り切れで、代わりに買ってきたのが何を隠そう森永の牛乳プリンだった。
当初、私は躊躇した。これは昔、頭痛を引き起こした問題だらけの代物だと覚えていたからだ。だが食べないのも勿体ない。当時、小学生時代は生臭さに耐えられなくて食べられなかった蟹がすっかり好物に転じていたという背景もあって、「年月が経てば味覚も変わる」ことを実感していた私は、とりあえずフタを開け真っ白なそれにスプーンをつき立てた。そのまま口に運ぶ。
うまかった。
そしてそのうまさは、親父が京都土産に買ってきてくれた高級和三盆のようなしっとりとなめらかで後に残らないそれでもなく、新鮮な生シラスを山葵でいただいた時のようなそれでもない、全く別種の「うまさ」だった。
私は気づいた。その本質的な部分に。
はっきり言えば、ドクターペッパーの香りに通じるものがあったのだ。当時の私はすでにドクターペッパーの虜で、あの荒々しくも繊細で、しかも強烈な香りと同じ遺伝子を包含していたのだ。口の中で舌を使いすり潰し、鼻の方へと空気を抜けばあら不思議。どこまでも安っぽくチープな香りであるはずなのに、それは一瞬にしてかけがえのないものになる。
一般的な「美味いもの」とは異なる、本質的にはチープなのだけれども確かに脳が欲し、震えたつ「うまいもの」。私はそれをB級食品と呼ぶ。森永の牛乳プリンは、そんな「B級食品」第二号となった(勿論第一号はドクターペッパー)。
今では飲料を中心に、ロッテのシナモンガム、とある中華料理店の杏仁豆腐、コアップガラナ、マウンテンデュー、ルートビアとそのラインナップも増えた。無論、それだけが絶対なわけではなく、味覚音痴と言われることもない。ただ、脳の反応する刺激の範囲が微妙に違うのだろう。
この文章を書きながらも、牛乳プリンを口に入れ、ドクターペッパー飲み、ひとときの幸せを文字通り噛み締めている。……しかしあまり周囲には理解されない。そもそもドクターペッパーの味を皆理解してくれないのだ。試しに友人等に飲ませたところ、現在撃墜率は100%をキープし続けている。実に勿体ない。学校のイベントで罰ゲームとしてドクターペッパーをジョッキで飲ませるという案が出たらしいが、もし実現されていれば私はわざとそれを飲みに行くだろう。
ああ、沖縄に行きたいなぁ。ルートビアをジョッキで飲むために。
コミック版「かみちゅ! 1」(鳴子ハナハル メディアワークス)を読む。こっちはこっちでなかなかに凄い。
まず目立つのが、アニメでの欲求不満(?)をここぞとばかりに解消していること。例えば、ぱんつ。しかしあからさまな部分は少なめ。ほんのちょっとしたところにさりげなくというパターンが多い。一話は別問題だが。
あとは衣服。祀の趣味が微妙に良くなっている(?)し、神の国に行く時のゆりえの格好が体操服ときた(当然ブルマ & ネームを標準装備)。更に水着に至っては「旧型」スク水。……あまりにもベタすぎる。それが当時の標準なのは、確かにそうなのだろうが。
一番顕著なのが光恵と祀のバスト。光恵に至っては、明らかに中学二年とは思えない程のボリュームである。回を経る毎にサイズが上乗せされてゆくのもお約束で……。
芸の細かさも光っている。一番「へー」と思ったのは、五話で祀が小さな弓を引くところ。「離れ」の後に「弓返り」しているのだ。いち弓引きとしてちょっと感心。もしやと思ってアニメを観直してみると、どっこいこちらもきちんと弓が返っている。みこならともかく、弓道部でもない祀が「弓返り」というテクニックを持っていること自体に驚きもしたが、逆に言えばテクニックだけで本当の「射」はできないのかもしれないなぁとも感じた(そんなことができる人間の方が少ないのは確かだが)。祀の運動神経がいいという設定を裏付けるものなのかもしれない。
惜しむらくは三話の八島様が読んでいる雑誌。direction
が rtl
でなく ltr
になっているのだ。四話では rtl
になっているところをみると、気づいて直したのか。因みにアニメでは縦書きだった。
さて、見出しのネタを最後に検証する。
Warning 以降の文章は、漫画「かみちゅ!」のネタばれを含んでいます。
第七話「星の花束」は、イノ・シカ・チョウトリオの初出演話。アニメのとんでもないお願いではなく、逆の路線を敢えて進んでいるようだ。神社の絵馬に書かれた願いをかなえようというのが主たる目的。
で、この話は結局めでたしめでたしで終わるが、どうして最後にあんなシーンが存在しているのか、ぶっちゃけた話わからなかった人もいるのではなかろうか。かくいう私も一読ではわからず、二読目でようやく理解した。
実はコレ、織姫と彦星の話なのである。
まずヒントとなるのが、何といっても話数。「七」である。そして、ゆりえ様と一緒に恋人探しをする女性は、「去年の七月に別れて一年ぶりになるけど」と告げている。無論、ゆりえ様によってその日が既に八月であることを突っ込まれているのだが、それはそれ。
更には八島様、そしてイノシカチョウ、町のもののけたち諸々が全部見えていることも大きなポイント。
また、「父に内緒で」という台詞も以下同文。
綺麗な布地に「お互い離れ離れでもいつも一緒にいられるように」という約束。
細かいところを見れば、最後、天の川へ帰った後、きちんとスカーフが消え失せている。
極めつけは、女性並びに男性の苗字だろう。「織田」と「星野」。まんまである。
故に結論。「女性には織姫が、男性には彦星が、それぞれ入っていた」。
……。まあ、そういうことなんだろうなぁ。
今回は第二の DVD オリジナル(11話「恋は行方不明」)がまず見ものだった。
Warning 以降の文章は、アニメ「かみちゅ!」のネタばれを含んでいます。
何しろ逃避行。逃避行。全編に渡りこっぱずかしい状況が続いて、もう赤面しながら見入ってしまった。そのほぼ全てがベッタベタな展開なのも、まさに「かみちゅ!」ならではというべきか。作画に力が入っているような気がするのも、恐らく気のせいではないだろう。
章吉の、ひねくれているように見えてめちゃめちゃまっすぐなところと、みこの、ただのいい子のように見えてしっかり毒を含んでいるところが、最後まですれ違ってしまう……。
ああ。章吉が報われない。
章吉はみこが、みこは八島様が、八島様は祀が――というパーフェクトなシフト具合にやきもきするしかないのがやるせない。同じ男として、章吉も八島様も憎めないのだが、しかしあまりにも八島様がダメなのには「くっはー」と言うしかない。
個人的には、一橋家と三枝家の親が全然心配していない(一橋家に至っては完全許容)というのがもう、理解ありすぎて逆に苦笑い。確かに、7話(「太陽の恋人たち」)を観ている限り、それも当然かと。祀のおやじさんも昔あんなだったし。……で、どこをどうしたらあんな綺麗な奥さん引っ掛けられるのか。謎だ。
12話は……何しろコメンタリが凄まじい。あらゆる「細かさ」に突っ込みを入れつつそれを楽しむ芸人たちの姿は、それ自体が滑稽であった。それ以上はコメントのしようがない。