契約完了に伴う回線工事が完了し、本日16:30をもってインターネットへの常時接続可能環境が自宅に整備された。
いやはや、これでネットカフェに行って散財しなくてもよくなった。
回線はケーブル TV 線と兼用。固定電話を入れていない上、コンピュータにチューナカードぶっ挿して TV 観ているので都合がいい。ただ、そのせいで既にケーブル類で混沌としているデスクトップ裏が更に凄いことになってしまった。……きちんとケーブルを束ねて整理してもこれだ。
契約は 30M タイプ。実測は最高 15M、最悪 3M 出ればいいかと思っていたら、BNR スピードテストというツールで測ったところ18.68Mbpsも出ていることが判明。これには驚愕。道理で前なら1分かかった Mozilla Thunderbird 1.5.2 のダウンロードが数秒で済むはずだ。
早速デスクトップに Vine Linux 3.2 を入れるとしよう。Windows とおさらばする為に。
今や旧式言語であるが、適度なメンテナンスと原始的な設計(シンプルともいう)が功を奏して未だに使われ続けているC言語。社内技術研修で文字列をいじる機会を与えられたので、結構様々なノウハウを学習する機会を得た。無論それらは本やネット上で調べたもの。
Cで ASCII 文字を扱うことは容易い。char
型があるからだ。だが文字列となると話が変わってくる。途端にポインタと配列と動的メモリ空間の話が登場する。それに、バッファオーバーフローもだ。その辺の話は IPA ISEC セキュア・プログラミング講座なるサイトの解説が詳しい。私もちょくちょく参照した。
また、「プログラミング作法」も役に立った。scanf
系の関数による文字列スキャンを行う際、バッファオーバーフローを防ぐために sprintf
によって書式文字列を自動的に生成させ、それを用いるとよいとのこと。以下例コード。
enum { NFMT = 10, /* フォーマット長 */ NBUF = 256 /* バッファ長 */ }; FILE* fp = NULL; char* filename = "test.txt"; char fmt[NFMT]; /* フォーマット文字列 */ char buf[NBUF]; /* バッファ */ if ((fp = fopen(filename)) == NULL) { fprintf(stderr, "fopen(\"%s\") failed: %s", strerror(errno)); exit(0); } memset(fmt, '\0', sizeof(fmt) / sizeof(fmt[0])); /* 初期化 */ memset(buf, '\0', sizeof(buf) / sizeof(buf[0])); sprintf(fmt, "%%%ds", NBUF); fscanf(fp, fmt, buf); /* 続く */
そもそも scanf
なんか使うなよという話もある。例えば %d
を入力しなければならないのに文字列を入力すると、プログラムが暴走するからだ。fgets
を用いればこの問題は解決する。数値を得たければ strtol
、strtoul
、strtod
、atoi
、atol
、atof
などを用いればよい。無論、どちらにせよバッファオーバーフローについて考えなければならない。
でも面倒だから Perl で正規表現使いたいなぁ……。
会社の新人歓迎会がつい先程まであった。無論新人である私もそれに参加したのは言うまでもないだろう。
今、当然ながらアルコールが血中を漂っている状態でこの文章を書いている。マージャン組とそうでない組に何となく分かれたので、そうでない組へひっそりと入りバラバラになったあとこうしているという按配。
疲れた。というよりアルコールはあまり得意な方ではないのがわかっている。パッチテストはもちろん赤くなる。テンションを上げようとすればすぐ酔うし、そうでなくても飲み続けているうちに眠くなる。結局テンションが下がる。
昔、一度だけ酷い目にあうまで飲んだことがある。「韓国焼酎ジンロ」をボトル半分ぐらい飲んでしまったのだ。流石に急性アルコール中毒らしき症状が発生した。頭痛、眩暈、嘔吐、眠気。一度に襲ってきたそれらにすべて対処したうえで、何とかアルコールを追っ払い帰宅することに成功した。恐らく滅茶苦茶にアルコール臭かっただろうが、親は何も言わなかった。……それ以来、無理酒は避けて生きている。
私はそれほどアルコールを摂取したいという欲望がない。ビールなどの味を楽しみたい時はあるが、アルコールの存在はむしろ厄介といえるものだ。すぐに脳髄へ作用するそれは、正常な思考を阻害し、血行を極端に向上させるために血管が痛みを訴えることもある。日本酒を大体一合飲んでほろ酔い、二合飲むと眠くなって寝てしまう。そして深い眠りに就く。翌朝起きられなくて困る。
ならドクターペッパーを飲んでいたほうが以下略。
……あまり体育会系の雰囲気がない職場でよかった。まったくもって。
西島大介の最新単行本、「アトモスフィア2」を読んだ。一ヶ月前に発売された「アトモスフィア」を前編とするなら、こちらは後編にあたる。
いつも通り、意図の臭いがプンプンする本になっている。
どういうオチを持ってくるのかと思えば、きちんと「考えた」上でのふざけた展開を持ってきた。感覚的要素も多分に含まれてはいるのだが、それより前に頭の中にあったもの――指向――が許容値限界ギリギリまで詰まっている。
Warning 以降の文章は、「アトモスフィア」「アトモスフィア2」のネタばれを含んでいます。
最後まで引っ張ってきた、「世界を観る視点を固定する手段」をついに手放した「わたし」。最早そこには「赦す」というあからさまな放棄は存在しない。手は変えずに品を変え、延々とふざけてきたそもそもの原因は自分自身。きっとそこに意味はない。自分のせい、というものもない。あるのは原因と結果、それから外部という一番客観という名の幻想を抱かせることができる次元から覗いた、その世界たちの姿。見方を変えれば世界の数も、形も、境界すらも定かでなくなる。
無限増殖を続けた結果、自分という存在がありとあらゆる所に偏在するようになった。まるで八百万の神々――ディックならヴァリスと呼ぶだろうか――だ。とはいうものの、それを殺す(= 否定する)こともできるし、生かしておく(= 肯定する)こともできる。ただどちらにせよ、「わたし」はその状態そのものに意味を見出していない。世界にすら意味を見出せない。その世界もまた、確かに意味などないのだから。そこに在るものに意味があるだろうか?
傍点ではなく、純粋な黒点がルビで振られる分身の名詞。その黒点が持つ意味は、ただ識別するためだけのものではない。一番最後、二次元の世界が擬似的な三次元を獲得し、やがて擬似的な一次元に落ち着くそれが、全てを語っている。それに全てを語らせている、と言い換えてもよいだろう。
そう。黒点は世界。違う角度から観た、ありとあらゆる平行世界。ひとつひとつが全て別の世界を指している。それこそ、World 1-1 から World 2-9 まで……勿論それ以上。うねり、欠け、整列するそれらの姿は、とても淡々と描かれている。
データベースから様々な既存要素を引っ張り出してきて、マンガという glue 言語で接着し、その上を悪ふざけで包み、その下にひとつの妄想的なヴィジョンを詰め込む。そうしてできあがった作品。
明確な意図が西島氏の特徴といえば特徴。「凹村戦争」「世界の終わりの魔法使い」「土曜日の実験室 詩と批評とあと何か」「ディエンビエンフー」「アトモスフィア」「アトモスフィア2」と順に読んでも、それは脈々と受け継がれ続けている。フィーリングではなく、あくまで言語的なものとして脳内にあるそれを、手段としてのマンガで表現する作家だと認識している。
それがタカノ綾氏とは違うところだ。タカノ氏は、言語化不可能なもの、非常に難しいものを画という手段を用いて表現する。
今度は「世界の終わりの魔法使い」の続きを執筆中らしい。……さてどうなることやら。
その絵のあまりの素晴らしさに一発で惚れ込んだマンガ、「少女セクト」の続編である「少女セクト2」(玄鉄絢 コアマガジン)を購入した。
強いて言うなら「丁寧な造りの百合物語」。実も蓋もない言い方をするならエロマンガ。連載されていた雑誌はコミックメガストア。
認知のきっかけは bbspink の半角二次元板。……あまり深くは訊くな。
しかし、確かにエロシーンは豊富なのだが、物語がしっかりしている上に設定が極めて細かく、小技も効いている世にも珍しいタイプの代物。また、百合ップルができるまでの過程、できた後の過程を緻密に描く手腕もまた素晴らしいが、何より SEX シーンがあってもなくてもよいというエロゲにありそうな状況に陥ることを拒否し、必然的に生ずる場合は SEX シーンとなる、読んでいて全く違和感のないシチュエーションの構築という大技も成功している。いうなれば、バランスが素晴らしいのだ。
よく考えてみると、造りの細かさ、設定の深さ、しっかりした物語性諸々は、同じ漫画家である士郎正宗氏とかなり似ている。更には女性の肉体をリアル指向で綺麗に描くこと、百合の美しさを表現することができることもまた共通。
私は「何度読み返しても面白い」作品が好きだし、どんな作品であっても必ず二度は読み返す。それに耐えうるものだけを購入している。一度読んだだけで全てがわかってしまうようなものは、立ち読みでもしてしまえばそれで終わりだからだ。意味がない。
「少女セクト2」では、予想を裏切らない展開 + 裏切られる展開 + おまけ + エピローグに、私はただ悶絶するしかなかった。もうネタバレするのがもったいないのでプロットについては何も書かない。
著者である玄鉄絢氏の過去の商業作品(「DANDY:LION」)も読んでみたいと思ったが、生憎と絶版。仕方がないので今度神保町にでも行って探してみようかと思う。同人作品もあるので、それも……となると、凄く苦労する気がする。現に、ディックの版元品切れものだけでえらく苦労しているのだから。
以下、細かい点。
その他、自作からのスピンオフキャラ(把握できない……)等々。
Happy Hacking Keyboard (HHK) Professional を所有するという、私の夢のひとつが、ついに現実のものとなった。
しかも、HHK Pro 2 が出て、初代はもう出荷されないということで、秋葉原の「USER'S SIDE」という店では何と税込み19740円まで値下げされていた。素晴らしい。ひと昔前までは25000円ぐらいしたのに。即座に購入したのは言うまでもないだろう。
モデルは無刻印の墨。白は実際に使用すると少しの汚れが目立って萎える上、逆に埃が見えにくくなって掃除をサボりがちになるし、刻印も最近要らないなと思うようになってきた(どうせブラインドタッチだと手元なんか見ないし)ため。
家に帰り、キーに手を置いて、今まさに至高の瞬間を味わっている。静電容量式のキーは叩くだけで幸せなレスポンスを返してくれる。キーを叩くことにストレスを感じることはまずない私なのだが、しかしこのキーボードを使ってしまうとそれまで叩いていたものは一体何だったのかと憤慨すら覚えるようになる。だったら東プレのキーボードでもいいじゃないかと言われそうだが、勿論キータッチだけならそれもひとつの選択肢だ。問題は、キーレイアウト・大きさに文句のつけようのない代物が、東プレにはないことだ。
何よりキーレイアウトは重要だ。キータッチ云々以前に、使い心地を左右する。
以前、私は JIS 配列のそれを用いていた。はっきり言えば日本で一般的などこにでもあるタイプ。しかし、せっかくだから使ってみるかと HHK Lite 2 を購入した時に US 配列のそれにしてみた。以来、プログラミングの際非常にストレスなくキーが打てるとあって敢えて US 配列を選ぶことにしている。卒研室でも片隅に転がっていた唯一の US 配列キーボードを使った。プログラミング言語を設計する際、なるべく打ちやすいキーを選んだのだろうか。意図的としかいいようのない程に、US 配列のキーボードで打ちやすいようにできている。
また、A の横に Ctrl が存在することは必須事項だ。Emacs や xyzzy を使っている人間として、Ctrl がそこにないと左手の小指がつりそうになる。Enter だって、一般的なキーボードの馬鹿でかいあれは必要ない。縦幅は通常のキーと同じで一向に構わない。Enter の上にある Del ないし BackSpace だって、より指の届きやすいところにあったほうが好ましい(Ctrl+d と Ctrl+h という手もあるが……)。特に私のように指が短い人間にとって、こうした「届きやすさ」は重要だ。より少ない労力で必要なことを行いたい……そんな欲望を忠実に実現してくれる。東プレのキーボードも随分店頭で触ってきたが、いまいちしっくりとこなかった。在るべき場所に在ってくれない……そんな感じ。
更に、大きさも重要だ。私のデスクトップ――といっても現実世界のそれ――は、あまり広い方ではない。むしろ狭い。だから、小さいキーボードであればあるほどいい。かといって利便性やら何やらが低下しても困る。
その点、HHK は凄い。普段全く使わないテンキーがまず存在しないし、Ins などのこれまた使わないキーもない。十字キーだって、Pro ではカット。Lite 2 でも邪魔にならない場所にある。まったくもって素晴らしい。必要なキーを、必要なだけ、必要な場所に配置してある。
唯一の欠点はバックスラッシュのキー位置。スラッシュの右にあってくれるといいのだが、そこには右 Shift が。そんなことより、右 Shift の横にある Fn をどけて Shift をそっちへ追いやり、空いたスペースにバックスラッシュを入れて欲しい。私は左の ◇ を Fn にしている。あまり使わないからだ。もしどうしても別にするのであれば、左 Shift の下にでも置いておけばいい。……それはそれで、見栄えが非常に悪くなるのが難点。
全体で見れば今までで一番のキーボード。「高級文具」としての使命は、きっちり果たしているといっていいだろう。
これからもよろしく。HHK。
いわゆる A's ではない方の、「一期」と呼ばれる「魔法少女リリカルなのは」をとりあえず DVD 5巻13話全て借りて観たという話。
随分とまたディープな話題を突っ込んだものだとほとほと感心したというのが正直な感想。毎回ころころ変わる作画もある意味見どころの一つ。
このアニメ、原作は「とらいあんぐるハート」(とらハ)というエロゲシリーズの一作。最近では「Fate Stay Night」もそうだし、「うたわれるもの」もそう。前者はノベル、後者は RPG。「魔法少女リリカルなのは」も、元は「とらいあんぐるハート3 リリカルおもちゃ箱」にあるミニシナリオが一人歩きしはじめたという按配。やったことないけど。
アニメの脚本も、原作を手がけた都築真紀という人が担当している。
アニメの基本ストーリー自体は、無難というかそれなりにありきたり。日常生活があって、唐突な出逢いがあり、ライバルがいて、黒幕がいて。
実際は、全然ありきたりではない。非常に芯の硬い、テーマ性をうまく表現することに成功した、またとない代物である。
Warning 以降の文章は、アニメ「魔法少女リリカルなのは」のネタばれを含んでいます。
第12話でのこと。最終的にプレシアがフェイトに与えたのは、純粋な「拒絶」だった。助ける(= 許容する)という新たな次元に到達したフェイトに対し、プレシアは何も変わらず、ただその許容を拒む。最後には、自分の、自分による、自分のための人形を抱え、夢の世界(= 非現実)へと旅立って(= 逃げ去って)いった。
完全なるハッピーエンドではなく、しかしバッドエンドというわけでもない。母親(= 自らを縛る枷)から図らずも開放され、と同時に責任という名の義務が生まれた(= 大人に近づいた)フェイトが、自らの存在そのものを真っ先に許容してくれた初めての他人(= なのは)に対し、自らもまたなのはの存在を許容したところで幕が下ろされる。
要は、「肯定」と「否定」の物語である。
なのはとフェイトの在り方は、当初完全に正反対であった。なのはは自分の在り方そのものを肯定し、その前提に従って行動を起こす。その結果が魔法少女としてのキャリアを歩むことの選択であり、フェイトとの出逢いに繋がっていく。
対するフェイトは、母親に認めてもらう(肯定される)ことを追い求めることでしか自分の在り方を肯定できない。言い換えれば、常に現状の自分を否定し続けているのである。母親に認められていない自分は自分でないという枷。その正体は何てことはない、しかし根の深い自己否定なのである。
それが、なのはという強烈な肯定主義者により、段々と変化していく。何しろ、母親からしか得られないと思っていた自己の存在肯定を、なのはという他人が行ったのである。その時点で、既に母という存在からの離脱が始まっていたといってもいいだろう。
無論、なのはとて無闇矢鱈にフェイトの存在を肯定したわけではない。そこに至るまでの過程は長く、最終的には決闘という形に落ち着く。決闘とは、相手の存在を真っ向から否定する行為であり、しかし相手の存在を認めなければ成立しないという相反する事象を併せ持つ両義的な概念である。戦争や闘争のような、多対多の否定合戦ならいざ知らず、決闘は一対一、必ず相手の存在を認識しなければならない。フェイトとの最終対決の際、なのはがユーノに対して告げた内容が更にそれを印象付ける。邪魔をしないでくれ、これは自分とフェイトとの決闘なのだから、と。この時点では、最早フェイト自身もなのはという存在を完全に認知し、その上で戦いに臨んでいる。
名前、つまりその個人を特定する要素もまた重要な役割を演じている。なのははまず、何よりも自己紹介をしたがる。それは自分という存在を相手に認知させるといういう意味で非常に効果的であるし、能率的でもある。言葉は何らかの物理状態として存在をとらえるツールとして極めて有用なのだ。
話を戻す。かくしてなのはは勝利し、フェイトは敗北した。ここでなのはが海に沈んだフェイトを放置するならば、それは決闘という形式を用いた完全なるフェイトの存在否定で幕を下ろす。しかしなのははフェイトを助け、その存在を肯定した。生きていてもよいのだと。
その後、プレシアによる完全なるアイデンティティ否定の一幕があったところで、フェイトは一時人形と化す。それは自分の全てを否定されたからだ。ただの罵倒だけでなく、存在そのものの根底をもゆるがす事実があった。
しかしフェイトは蘇った。それは発見したからだった。自らの存在を、自ら認めてもよいのだと。更には、認めてくれる人間がいることを。
クロノは言った。過去を否定し、それを改変することは不可能なのだと。過去は固定されているのだと。つまりクロノはプレシアが否定した世界を否定することで、肯定という状況を作り出している。それは論理という名のオブラートに包まれた、視聴者へのメッセージなのだろう。
最後まで否定しかしなかったプレシアは、ついに虚数空間(= 全否定世界)へと落ちてゆく。そもそも過去を否定したかった彼女にとって、それは大きな獲得であり、誤算でもある。確かに自らの存在・世界の存在を否定することで虚数空間は生まれた。アリシアの過去はそこにあるのだと信じて。
第12話で、最終的にプレシアとなのはないしフェイトとの大々的なバトルがあるかと期待する人間は多いだろう。現に私もそうだった。
だが、予想は完全に裏切られた。なのはもフェイトも、相手にしたのは魔力で動く機械人形だけ。そこには、人形に固執するプレシアの心理が見え隠れしている。フェイトに対しても娘という目ではなく完全にモノ、人形、ただの物質という扱いをしている。鞭を振りかざし虐待を加え続けるその姿は、欠陥品に癇癪を起こす姿そのものだ。自分の利益になることを起こす、便利な道具というわけである。プレシアはしかしそんな道具にとても満足できず、無謀で身勝手な理想(= 妄想)を強制し、自らのものにしようとする。
フェイトは道具と呼ぶにはあまりにも人間として必要十分な条件を満たしていると、視聴者が捉えるよう描かれている。ディックの言を借りるならば、感情移入できるならば人間であり、でなければシミュラクラ(= アンドロイド = 機械)である。すると、フェイトこそ人間であり、プレシアはシミュラクラであるという論理が成立する。
ただ、プレシアとて完全なる機械というわけでもない。彼女の過去はあまりにも悲惨である。禁忌の実験、事故、消失。その全てがトラウマとなり、負の力となって、プレシアの精神を切り裂いた。結果があの状態である。自業自得といってしまえばそれまでだが、払った代償はあまりにも大きすぎる。結局彼女は世界と決別することで何もかもを清算しようとした。その過程で様々なものを生み出し、壊し、多大なる影響を及ぼした。許されることではないが、許さなければならない。
ここで、ようやく話が最初に戻る。フェイトは、前述の状況を踏まえたうえで尚、プレシアを許そうとしたのだ。プレシアの拒否は、最悪にして最大の結論であり、もはや決断と呼ぶことはできない。流れに身を任せ、考えることすら放棄している。許せたのに、許せなかった。フェイトにはその事実が延々と残り続ける羽目になる。
以上、一期について、特に最終話近辺を足掛かりに論説を続けてきた。結論は……13話そのものだ。互いを認めることにより、自らを認め、全てが始まる。フェイトの決意そのものが、最終的な提示として我々の前に横たわった。
多分この次は、「A's」について DVD 3巻までの内容を少し検証する形になると思う。自宅にネット環境がまだないため、どうなるかはわからないが。
復刊されていたとは知っていたが、どうしてか昔書店に注文したところ「そんなものはないですよ」と言われて不思議に思っていた、フィリップ・K・ディックの日本独自短編集「ウォー・ゲーム」をひょんなことから入手した。
それは、近所に見つけた中規模の書店でのできごと。
初めて入ったとき、ここはいい所だ、と思った。
本棚の間はかなり狭く、神保町の古書店と同レベル。棚の高さもかなり高い。さすがに天井には届いていないが。あと、文学と芸術の蔵書が多い。かなりコアなものまで置いてある。しっかりと「ユリイカ」の水木しげる特集を関連の棚に配備しているようなところだ。ふと見れば、西島大介氏の単行本群が全て揃っていたりもする。マンガもあったが、大判やマイナー出版社系のものが、名がそこそこ知られてる出版社のものよりも陳列棚の位置にしろスペースにしろ大きい。……これから贔屓にしよう。
「ウォー・ゲーム」はまだ読んでいない。これは初期作品の短編集であり、ハヤカワのディックとしては唯一、文庫の白背から出ている「地図にない街」の訳者が編纂したものだ(だからよく見過ごされがちになるらしい)。訳者は仁賀克雄。いち早くディックの作品を訳し、短編集「地図にない街」として日本に紹介した人物として知られる。ただ、その嗜好は“初期短編”にのみ集中しているので、後期のものはその他の短編集に頼ることとなる。
これからじっくり読んでいこう。……だが、ツンデレツンドク状態のものが2つになってしまった。
アニメ「ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編 その弐」を観る。
気になった点がいくつか。
Warning 以降の文章は、アニメ「ひぐらしのなく頃に」、同人ゲーム「ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編」のネタばれを含んでいます。
まずは富竹が圭一へ連続怪死についての講釈をする場面で、眼鏡をずりあげる仕草。……眼鏡かけてないように見えた。その前まではかけてなかっただろうか。録画しておくんだった。
次。「嘘だ!」があまり迫力なかった件について。……声優の限界だろうか。演出もあまり力入ってなかった(特に何かの強調をしていたわけでもない)し、作画も通常モードとあまり変わらない出来栄え。何というか、拍子抜け。だからといって過剰すぎる演出も禁物の場面だと思う。それこそ、レナの顔をどアップにして形相を凄いものにして、というありきたりすぎるものは NG ではなかろうか。そうすると何もできないか。素人考えじゃ駄目だ。
それにしてもペースが速い。もう鬼隠し編も折り返しが終わり、レナに聴かれたところまできた。全26話で現在2話まで終了。仮に一編3話構成として、「鬼隠し」「綿流し」「祟殺し」「暇潰し」で合計12話。「解」に入り、「目明し」「罪滅し」「皆殺し」「祭囃し」で合計12話。総合計24話。……ぴったりなのだが、個人的には鬼隠し編がその参で終わるとは思えない。終わらせるのだろうか。もしかしたら「解」まで入らず、独自ストーリーを挟むのかもしれないが、そうすると謎だけ提示してはい終わりになってしまう。
話は変わって、「ひぐらし」の前にやっている「ひまわりっ!」。これがまた非常に残念な番組になっている。
素人目に見ても、ストーリーは今のところ(バカっぽくて)面白い。作画も綺麗。声もほとんどオッケー。ついでにいえばキャラクターデザインは個人的に絵柄が好きな okama 氏。個人的には楽しみにしてたんだよ。色々と。
主人公であるひまわりの声がすべてをぶち壊すまでは。
……あまりにも声優がひどすぎる。他の声優陣が問題ないので、余計に際立って聴こえる。もう棒読み舌足らずは当たり前。それが要求される役ならいざ知らず、明朗快活元気娘の役なのに、台詞回しは下手だわ感情は篭っていないわパクあわせもズレてるわで、もう散々。聞けば本職は声優ではないらしい。
だが、声優でないからといって必ずしも駄目だというわけではない。現に、「かみちゅ!」のゆりえ様役だった MAKO 氏は、本職が音楽グループのボーカルなのである。しかし彼女は舛成監督に「これしかない!」と言わしめるだけのものを持っていた。声の質である。そういえば「蟲師」のギンコ役である中野裕斗氏も本業は俳優だそうだ。声優をやるのは初めてだそうで(DVD1巻特典映像インタビュー参照)、色々と戸惑ったのだとか。しかし多少棒読みの部分もあったものの、話数をこなすごとに段々改善されているし、何より声が万人受けするもの。
ひまわり役(もう名前すら覚える気にならん)には、ひまわり役である理由が全くない。あまりにも致命的である。演技がどうであれ、役の求める声の質に適合するのであれば、まだ許される面もあるだろう。
ひまわり役は違う。低めで少しハスキーがかっている、舌足らず(というより呂律が全然まわっていない)声。明るさとは程遠い、何というか、もう30近いような独身女性の雰囲気。せめて前回よりはよくなっているだろうと思って聴いてみると、全然反省の色がない演技。
やる気ねーだろ。絶対。少なくともやる気があるような演技すらできていない。
私が色々と偉そうに言っているのは確かだ。それは認める。「お前なんぞに演技の何がわかる」という罵倒も甘んじて受けよう。
私はそういう批判を受けたとしても、このひまわり役にだけは我慢ならない。声の質も、演技も、何もかもがお門違いの人間が声を当てているのだ。まだ「ハウルの動く城」でハウル役をやっていた木村拓也の方がマシだ。台詞棒読みだったとはいえ、声そのものに違和感はあまりなかったから。
いっそのこと、ひまわりの台詞だけ字幕にしてもらえないだろうか。別の声優なり俳優なりに声をあててもらってもいい。聴く価値のない音を聞かされること程、腹の立つものはない。
渋谷のパルコ・パート3の7階、パルコミュージアムで開かれているタカノ綾氏の個展、「都会犬(。v・)/」へ行ってきた。
土曜日だからかそれほど人も多くなく(無論街中は凄いものだが)、じっくりと作品を鑑賞することができた。コンセプトやら本人のプロフィールやらは kaikaikiki を見てもらえばいい。
まあ何だ。歯切れがよかった。
凝縮と開放を織り交ぜた作品群は、段々と狭い宇宙から広い宇宙へと変貌していく。途中に長々と横たわる個展テーマの一つ「都会」の絵画群は、ノイズという名の活動をよく表現していた。以前も「言葉にするのが難しい類の情報」と述べた、まさにそのままの絵画群。
24日まで開催しているので、まだ間に合う。行って損はない……と思う。
帰りがけに、画集「トーキョー スペース ダイアリー」(タカノ綾 早川書房)を購入。S-F マガジンに連載されていた「飛ばされていく 行き先」シリーズが、全てではないものの(24篇中12篇)収録されていたためだ。無論、それだけが理由ではない。……他のコミックや画集も欲しかったが、金がないんだよ。うん。
また、今月末から来月にかけては散財が決定済みだからという問題もある。助けて……。
コストパフォーマンスを考えて、sknet の Monster TV V を購入。しめて5780円。あまり高額なものを買っても仕方がないし、第一金がない。安い TV を購入して家電スペースを六畳の部屋に増やすよりは、パソコンのモニタひとつで何でもやってしまう方がすっきりしていて性にあっている。
都内だけあって、秋葉原までかなり近い。気軽に行ける距離であり、電車賃である。先週の土曜日に行ったのだが、これまた人が沢山いた。平日に行ったこともあるのだが、あの余裕のある状況が嘘のようだ。駅前なぞ人が溢れている。
どこぞのメイドカフェ(イメクラともいう)の呼び子らしきコスプレイヤーもまた五人ぐらいいて、前とは違うなぁとつくづく思い知らされる。前というのも、つい二年ほど前の話だ。あの当時も少しはいたような気もするが、今のように大々的ではなかった。
個人的には、どうにもあのメイド服の生地が好きになれない。非現実的なのっぺりとした色合いとでもいうのか。人間の部分がそれと非常に相性が悪い。いや、かといってメイドそのものが嫌いなわけじゃない。データベースのいち要素(属性)としてのメイドという存在には、確かに「萌え」という肉体的感覚を自覚する(とってつけたような語り口はご愛嬌)。そういえば同行した友人はいつものようにこうのたまっていた。「三次元に興味はない」。……つい頷いてしまう自分がいるのもまた事実。
だが、かといって「二次元だけに興味がある」というわけではない。何というか。それぞれの事項には、それぞれの適所があるというべきか。それは完全に主観で決められてしまう、硬く脆弱な世界。機械屋のいうところの、粘りがないというやつだろうか。
ずいぶん前の話だが、神保町へ出向いた時、ついに新潮文庫から出版されるも現在版元品切れ状態である「悪夢機械」「永久戦争」の2つを入手することに成功した。以前、「模造記憶」は購入してあったので、これで全てが出揃ったことになる。
新潮文庫から出版されていたこれら3冊は、全て翻訳家の浅倉久志氏によって編まれた日本独自の短編集。中には以前に購入した「S-F マガジン」や「ユリイカ」に掲載されていた作品もある。それらも含め、早速「永久戦争」収録の「変数人間」以外は(再)読了した。現在「変数人間」を読んでいる途中。
話は変わって……。「S-F マガジン」の5月号を読んでいると、タカノ綾氏が渋谷のパルコミュージアムで「都会犬(。v・)/」という個展を4月7日から開催していることが載っていた。最近よく見るなぁと思っていたアーティストの一人である。村上隆氏のグループに属しているということを知った時も驚いたものだった。
彼女が表紙・扉絵を担当した本である「からくりアンモラル」(森奈津子 早川書房)は、タイトルにつられて買った本だったのだが、いざ本屋の本棚から引っ張り出し、表紙を眺めてびっくり。えらくエロティックな少女が二人、ツルツルのロボットと戯れている。人間をかなり独特にデフォルメしてある少女たちの容貌は、否応なく私へ語りかけてきた。……言葉にするのが難しい類の情報を。
私は最近、彼女の絵は言葉にすることが難しい「それ」を、表現した結果なのではないかと思っている。ただ……何といってよいのかわからないのだ。それは私の語彙が少ないからであるという根本的な理由も指摘されるであろうが、しかしそれを排してもなお同様の状態におかれたままであることに違いはないだろう。
もしかしたら、様々な作品を見ているうちに閃きが生まれるかもしれない。それを求めて、行ってみよう。
かの有名なC言語のバイブルというべき本、「プログラミング言語C 第二版」(カーナハン/リッチー著 共立出版)が職場に置いてなかったため、自分のものを持っていった。
Cの総合辞典のようなものはあるにはあったが、それは本当に辞書然としたもので、プログラマがプログラマの為に書いたものではない。関数の意味は調べられるが、ではそれをどのように使えばよいかという、慣用句まで載っているわけではない。勿論、コード自身が「ここはこうなんだよ」と語りかけてくることもない。文章の意味が理解できたときに、思わず微笑んでしまうような類の有用性もない。
確かに「プログラミング言語C」はわかりにくいところもある。文体も所々おかしい(翻訳のせいだ、という話を聞いたことがあるが……)。しかし、何よりその中身とコードが語りかけてくる。著者の言いたいことが、ある意味で極めてストレートに書き記されている。だからこれはバイブルでありうるし、何よりCを設計した張本人二人が書いている。読むたびに有益な情報を見出せる。
褒め言葉とわざとらしい信奉者然とした文体は飽きたのでこのくらいにしておいて。そう。職場にそんなバイブルがなかったんだよという話である。
バイブル云々の前に、「プログラミング言語C」はリファレンスとしても有用である。これも前々から様々な人間によって指摘されてきたことだ。高専時代のプログラミング担当教員(私にとっての師匠……だが当の本人にとってはあまり嬉しくないだろう。出来が悪い学生ですみません)もそう述べていたし、私自身その通りだと思う。索引がしっかりしていること、付録Bの標準ライブラリ解説がめちゃめちゃ重宝することだけでもおなかいっぱいなのに、付録Aとして ANSI C 規格仕様書の要約まで載っている。至れり尽くせりで大きさはB5サイズ、価格も2500円程度。
……今度、書類を出して会社用のものを一冊買ってもらおうかしらん。まあ企業常駐が多いから、本社の人間しかまともに見れないのだけれど。
よく思い直してみると、そのプログラミング言語を設計した人が書いた本は、良著である場合が多い。といっても私が読んだことがある・持っているものは3言語しかないのだけれど。3言語とはすなわち、C、C++、Perl のことだ。
C は割愛するとして、C++ の生みの親であるストロウストップ氏が書いた本は、まず何と言ってもリファレンスとして重宝する。中身もぎっしり。ただ問題なのは入門として書かれていないこと、紙が破れやすいこと、そして何よりソースコードのフォントが Courier ではなく筆記体であることだ。本人は「その方がいいんだよ」と言っているものの、ごめんなさい。私にとっては見にくいことこの上ない。
Perl はそのボリュームがまず凄まじい。数人がかりで書き上げただけのことはある。勿論中身も申し分なく、標準モジュールの解説も簡潔だが十分。Howdy, World からセキュリティ、コンパイラ、Perl 文化史、慣用句を含むよい Perl プログラムの解説など、これ一冊あれば Perl の基礎は十分である。ラリー・ウォールの趣味に偏った例題もまた苦笑を誘う。正規表現の例題で Frodo となんちゃら(失念)を置換するってどういうことやねん。趣味をはっちゃけた自己紹介で、「少女革命ウテナ」好きなんだとカミングアウトしてどうすんねん。……狙ってるんだとは思うけど。
あーしんど。
ようやく近所の TSUTAYA で「トップをねらえ2!」の5がレンタルから返ってきていたので、早速借りて、観る。
Warning 以降の文章は、OVA「トップをねらえ!」、「トップをねらえ2! 1~5」のネタばれを含んでいます。
GAINAX がゴーを出した企画なのだから、良くも悪くも何かあると思ったら。やってくれたよ色々と。
フラタニティの強制収用に始まり、全トップレスの入院(拘留)という事態にまで発展。……これも、ノノにとっては幻滅として映ったのだろうか。人類が、持っていた力を放棄するという意味合いにしかとれないからだ。それは、もっと高性能なおもちゃを手に入れたからに他ならない。バスターマシン7号という。
「大人になる」ということは、そうたやすい話ではない。「子供のままでいる」ことも同様だが、人間はいつか嫌が応にも大人にならなければならない時がくる。いつまでもおもちゃをいじくり回し、閉じた殻の中で戯れているだけでは、大人になれるわけもない。かといって、いつまでも子供のままでいることもできない。何故なら、力というものは常に外から加わるものだからだ。最終的にどうなるかは自明だろう。……存在の否定、即ち死である。
ニコラはアガリという局面(力)を受けて、強制的に大人となるよう仕向けられた。反動は彼の精神を汚染した。結果、彼は重圧に潰され、その捌け口として、バスターマシンを選んだ。7号、即ちノノを。また、人間型であるノノを女として見た。自分を受諾してほしいという、身勝手極まりない欲望をぶつける対象として。ノノはそういう意味で二面性を持っていたわけだ。あとはお決まりの自己否定。ついに彼は自分で自分(と周囲)を否定してしまった。
双子もまた、アガリを拒否し、自らの欲望と新たなる駒(おもちゃ)を手に入れる為に、変動重力源を揺さぶり起こした。そこでまた、迫ってきたのは力だ。結果、二人は共に力の餌食となった。彼女らの存在は、真っ向から否定された。
カシオは、アガリを認めたがらなかった。そして彼に襲い掛かったのは、限りない絶望。バスターマシンが朽ち果て、もはや存在しないという、途方もない虚無。だが彼は、大人になることを決意した、数少ない人間の一人である。彼は、自分が嫌だと思うことを拒否するのではなく、我慢するようになっていた。
チコもまた、数少ない大人への階段を踏み出すことに成功した一人である。不可能であると思い込んでいたことを、諦めていたことを、他ならぬノノに指摘され、それから彼女は変わった。
「2」に限らず、存在の否定は「トップをねらえ!」でも大きくクローズアップされた事項であった。何しろ、宇宙怪獣(変動重力源)そのものが人類という存在を否定するための存在なのだから。対して人類はどうしたか? 真っ向から戦った。戦うしかなかった。でなければ存在を否定されてしまうから。必死に、命を賭けて。
だが、「トップをねらえ2!」の人類は違った。安寧の中でぬくぬくと生を享受し、宇宙怪獣(バスター軍団)にトップレスをあてがって、永遠にでも続けられると思っていたおもちゃ遊びで自己を全肯定していた。宇宙怪獣を破壊することが、トップレスの中ではノルマ化され、日常となり、命の危険もあまりない。トップレスは撃墜数で自己の優劣を決める始末。
いつまでも子供でいようとする人類、それが「2」の時代に生きる人間だ。かつてはトップレスという使い捨ての電池を、腕によりをかけて作ったおもちゃであるバスターマシンにセットして。今は、オールインワンタイプのバスターマシン7号に、変動重力源の破壊を依頼し、傍から援護射撃を行うことで、ちっぽけなプライドと得体の知れない敵に対抗する。馬鹿馬鹿しい話である。結局、人類は誰も本気で宇宙怪獣なり変動重力源なりに向き合ってこなかったのだ。外からの力に、対抗してこなかったのだ。
そのツケは、最後に廻ってきた。
「いっしょに星になろう、ノノ」というラルクの言葉もまた、いつまでも子供でいようとするラルク、そのおもちゃであるディスヌフ、そしてノノという構図が生み出すもの。……そこには、死に対する考察も、重みもない。ただあるのは心臓の鼓動が早くなったことを興奮(ワクワクする)と表現しただけの、ラルクが見せた浅はかさだけだ。
だから、ノノは出奔した。いや、そうでなくても姿をくらましただろう。宇宙艦隊の指令までもが、本質的にはラルクと同じだったのだから。彼がノノを見る目は、不自然なほど子供っぽく、きらきらと輝いていた。最後の希望、というものではなく、素晴らしい兵器、という羨望の眼差しだ。そういう演出もまた心憎い。つまりは彼もまた子供だったということ。無論、彼だけではない。人類全体が、そんな途方もない軽さを抱えてしまっている。
今、まさに人類は「存在の完全否定」を実現する存在に再度直面した。それに対抗できると思われていた、バスターマシン7号は既にない。そもそも7号だけでは歯がたたなかった。更に、フラタニティも事実上の解散状態。宇宙艦隊は烏合の衆。客観的に見れば、滅びて当然の現状――。
次で最終話となる「トップをねらえ2!」。どっちのエンドに転がったとしても、この物語は完結することができるにはできる。絶望を謳うか、希望を描くか。しばらく先まで、ワクワクしないで待っていることにしよう。……ああ。そもそも待っていること自体が否定なのか。そうすると、かなり面倒な構造をこの作品は構築したことになる。「待つこと自体が子供であり、しかし待たねば作品は出ない」という、パラドクスを含んだ構造を。
うーむ。技術研修とは一体どんなことをやるのだろうか。言語はCだと聞いているが。一ヶ月間、何が行われるのだろう。
業務がデバイス組込系なので、それに類するものもきっと後のほうで学習することになるのだろう。チューンナップひとつとっても奥が深いこの業界。そういう点には期待が膨らむ。
今日はプロバイダと回線探し。あまり高額なのは駄目なので、多分 ADSL 回線。安いところがないか探したが、どこも結構似たりよったり。気が滅入る。
そういえば会社から課題を出されていた。はやくやらないと。
どうなっとるんじゃ! とは言わなかったですよ。ええ。
うかれた気分で昨日会社に初出社したら、「君、誰?」とのひとこと。
見るなりその言葉はないでしょう。ちょっと。
てっとり早く転職――もう解雇されちゃったから、「再就職」――口を探した方がいいのかしらん?
もっとも、会社だって会社だ。解雇通知を送ったというのが、労働基準法に抵触する期間内。確か二ヶ月前に通知しないといけないはずだ。
エエかげんにせい。
イイ話は、やはりどこにも転がっていないということか。身にしみてよくわかった気がする。
プー太郎になったという事実は曲げられない。……そもそも曲げられるのだろうか?
リクルートスーツ姿に身を包み、夏のクソ暑い中、悶えながら会社訪問をした時が懐かしい。
ルールを守らなかったのだろうか。私は。それとも、会社の都合だろうか。後日、詳しい理由を郵送するとか何とか言ってたような気がする。
フゥ、という溜息が止まらない。
ウワ。今思い至ったけど。親に何て言ったらいいんだ。……親父に殺されるかも。ちょ、ちょっと待て。それだけはまずい。勘当されるだけならまだいいのだろうか。
ルパン三世のように、いっそのこと盗みにでも入ってやろうか。重大な機密情報を盗むなり何なり。
でも……これでよかったのかもしれない。そんなことをするような会社に、私が就職したこと自体、間違いだったのだろう。
すっきりしたことはした。再就職先をどうするかが問題だが……それはおいおい考える。
本当にありがとうございました。
Warning 一応、今日は、ね。
追記。勿論エイプリルフールネタ。一日過ぎてからネタばらし用強調をマークアップ。……んなことしなくてもわかるか。