既に夏コミの季節である。数々のサイトには日付・位置情報が掲載され、しかも今年はオンラインで応募することができるようになったこと、発表も早くなったことから、既に当落が完全に把握できる状態にまでなっている。ネットワークの恩恵というやつだろう。
日付・位置情報(例えば「もえじら組」なら「8/13 東テ14a」)の控えをとっておくことは基本中の基本である。だが、それがまた面倒なのも確かだ。いちいち物理現実にメモをとっておくと後で面倒だし、数が多くなって間引かなければならなくなると URI を参照して再吟味、ということになる。
そこで私が使っているツールが Google Notebook である。これは GMail アカウントを持っているなら誰でも使うことができる、個人用「ノート」サービスだ[1]。無限に追加可能なノートブック(Notebook)の下に章(Section)を設け、ノート(Note)を追加する。ノートに書いたテキストは意味・体裁情報を付与された状態で保存される。強強調、強調、フォント色、フォントファミリ、フォントサイズ、そしてハイパーリンクを自由に使用することができる。
例えば「コミケ70情報」というノートブックを新規作成し、その中に今夏のコミケ情報を記述する。好きな分類(ジャンル、日付など)を章として設け、最後に位置情報、詳細、サイトへのハイパーリンクをノートに記す。
だが、サイト上で Google Notebook を使うだけでは、ツールそのものの真価を発揮することができない。少なくとも、コミケ情報を蒐集することに関しては利便性が低い。なぜなら、確かにサイトへのハイパーリンクを含めたノートを簡単にとることはできるが、そもそもそのハイパーリンク自体を自らの手でいちいち書いてやらねばならないからだ。コピー & ペーストするのも面倒だ。
そこで Google 純正の Google Notebook 用 Mozilla Firefox 拡張機能 Google Notebook の出番となる(以後「GNE」と呼称、フル機能サイト版は「GN」と呼称)。
GNE は、GN と違い Mozilla Firefox の拡張機能としてそのインタフェイスを提供する。GNE 経由で書き込まれたノートは、Google のサーバへ非同期通信にて送られる。だから GN を開いてみても、直前に GNE から書き込んだデータを参照することができる。タスクバー上に配置されたアイコンを選択すれば、インタフェイスが姿を見せる。
コミケ情報蒐集を行うにあたり、GNE にしかない機能で最も重要なのは「Include a link to」である。「Note」ボタンをクリックすると現れる編集画面下にさりげなく配置されたそのオプションチェックボックスは、チェックを入れるとタスクバー上から GNE を起動した時点でアクティブになっているタブの開いている URI をノートに埋め込んでくれる。つまり手動でハイパーリンクを書いてやる必要がない。
コミケ情報を載せているサイトがあれば、早速「Open Notebook」してノートをとるだけで、ふと再度参照したくなっても自動的に書かれたハイパーリンクを選択するだけでサイトを参照することができる。ちょっとした機能ではあるが、利便性は格段に向上する。……そういうツールは大好きだ。
まあ、つまりアレだ。夏が待ちきれねーぞと。つまりはそういうわけで。
日曜の「リリカルマジカル」行こうかなぁ……。しかし財布の中身が。昨日も「S-F マガジン」の8月号を買ってしまったし、広江礼威氏の単行本群やらまじぽかの DVD BOX をつい衝動買いしてしまった。残業手当が嘘のように消えていく。
具体的には当サイトの Blog 専用オブジェクトとして Blog
を定義し、その中にメソッド Blog.sortSections
として実装した。Array
オブジェクトに sort
メソッドがあるのだから、それを使えばいいだけの話。ソースコードは blog.js
。ライセンスは GPL2。Mozilla Firefox 2.0 Alpha 3 (Bon Echo) / Opera 9.0 / MSIE6 で動作確認。
Blog.sortSections
メソッドは、section クラスが付与された全 div 要素を集めた配列へ Array.sort
メソッドを実行するだけの wrapper だといえる。与える条件関数も、当然 Array.sort
の仕様に従うものならば何でもよい。しかし今回は特に日付によるソートを実行したいので、Blog オブジェクトに Blog.byDateUpper
/ byDateLower
という無名関数を返すメソッドを実装した。わざわざ無名関数を返させているのは、内部で Blog.getDateObj
メソッドを呼び出すために this
による参照を使っているためだ。Array.sort
へ与えた関数のスコープ内における this
値は、Blog
のインスタンスではなくなってしまう。そこでクロージャのお出ましとなる。
実際にソートを実行するには「昇順」「降順」アンカーをクリックないしフォーカスしてボタン押下すればいい。
暇ができたらきちんとした形で当 Blog に実装する予定。
一日を撮り溜めていたアニメと「まじぽか」DVD 鑑賞に費やしただけ。これこそ真の休日だ。……月曜のことを考えると憂鬱になるが。
読んでいない本も多く、これらは全てネタにすることができない。その他造りかけのプログラムに関しても同様。Vista のフォント(Meiryo)を試してみたことやサイトスタイルの微調整をしたことも別にとりたてて書くほどのことじゃない。
ああ。早く土曜にならねーかなー。
ある書店にたまたま入り、書籍を物色していると、哲学関連書籍の棚に「弓と禅」(オイゲン・へリゲル 福村出版)が置かれていた。学生時代に弓道をやっていた身としては(今でも時間さえあればやりたい……)この一冊を看過するわけにもいかず、早速購入と相成った。まだ読んではいない。
日本で「弓と禅」を買う人間は、私と同じような弓道に接したことがある人間が多いのかもしれない。無論それだけではないだろう。だが、弓道連盟の発行している機関誌「弓道」に載るコラムや、「現代弓道講座」(雄山閣出版 絶版?)で紹介されていたように記憶している。ドイツ人が書いた本とあってか、かなり知名度は高いようだ。
「現代弓道講座」も、実は欲しい本のひとつである。歴史、論考、各種論文、技術講座、流派別作法など、ありとあらゆる弓道に関する情報が網羅されているといってよい本だ。それも、全てがただの精神論に特化しているわけではない。実際のところ、弓道はかなり合理性を重視し、歴史的経緯から儀礼的要素もふんだんに盛り込まれてはいるが、しかしそれもが全て合理性に帰着するという一貫性を持っている。だが、この全7巻 BOX は現在絶版となっているようだ。なぜか学生時代、学校の弓道場にそれが無造作に置かれていた。……今にして思えば、ちゃんと全て読んでおくんだった。量が量なので、3巻までぐらいしか読めていなかった気がする。多分神保町にはあるだろう。今度探してみる。
ついにきた。「錬金3級 まじかる?ぽかーん」の BOX が。早速鑑賞……といきたいが、時間があまりないので日曜までとっておく。
個人的に、今旬である(つまりリアルタイムで鑑賞している)アニメのうちで注目しているもののひとつが、この「まじぽか」である。あまりのバカっぷりに笑いが止まらない。キャラクター造形のあざとさには、呆れという状態をすっ飛ばさせるだけのノリがある。テンポのよいギャグを追求するためだろう。30分2話構成をとっているのも効果的である。オープニングの雰囲気並びに曲と内容があまり噛み合っていないのも笑いのポイント。綺麗といえるほどバカアニメに徹した娯楽作に仕上がっている。
注目作は他にもある。例えば「BLACK LAGOON」。やけにクオリティの高い作画が、レヴィというキャラクターに原作には少々欠け気味の「凄味」を与えており、淡々と進む話の流れが逆に落ち着かない感覚を与える。豊口めぐみ氏(レヴィ)の、紫煙で潰れた感じが出ている声もそうだが、何より磯部勉氏(ダッチ)の声がハマり役である。……どこぞの青二才忍者もどきとはえらい違いだ。
「涼宮ハルヒの憂鬱」はもはや言う必要性すらないので省略。
DVD を揃えたいものとしてはこの三作か。今日は他にも「Ergo Proxy」二巻を借りてきた。併せて鑑賞予定。
今週末は忙しい……。いい意味で。
ついにリリースされた「魔法少女リリカルなのは A's 6巻」を観た。これでまた DVD 6巻全13話を全て鑑賞したことになる。
Warning 以降の文章は、アニメ「魔法少女リリカルなのは A's」のネタばれを含んでいます。
既に前回「肯定」「否定」をキーワードとし、根本にあるテーマ性については言語化を終了している。「魔法少女リリカルなのは A's」(以後「A's」)もまた、一貫してその流れの中にあることは、作品の初期時点から既に明白であった。例えばそれはヴォルケンリッターの騎士、ベルカ式魔法体系という存在そのものが、既に「対人戦闘」=「一対一」を想定した存在であり概念であるということからも窺い知ることができる。
即ち「存在の許容」(= 肯定)をあらかじめバックグラウンドとしてもち、かつ戦闘により相手を殺害(= 否定)するのではなく、あくまでも目的達成のための道具――リンカーコア――を蒐集するだけという淡白さこそが、真に初期段階におけるヴォルケンリッター側の精神的強さを決定づけていた。デバイス(肉体)面での強さもまた、根本にある対人戦闘という前提が強烈に作用した結果生まれた「カードリッジシステム」という完成形による。
後に、なのはとフェイトのインテリジェントデバイス(つまりレイジングハートとバルディッシュ)にも組み込まれることとなったカードリッジシステムは、そのデバイスにかける負荷があまりにも強いこともあって、本来ならば繊細といわれる彼ら(敢えてそう呼ぼう)に実装すべきものではなかった。だが、彼らはそれを望み、手に入れ、結果として新しい「名前」を手にした。……ここでも「名前」というキーワードが登場する。名前を呼ぶ、という行為は、その名前を持つ/持たされた存在を、呼び手側が許容したということに他ならない。故に、エイミーの解説を聴いたはずのなのはとフェイトが、それでもなお「新しい名前」を呼んだことは留意すべきである。新しい名前を持ち、新しい存在へとシフトした「レイジングハート・エクセリオン」と「バルディッシュ・ザンバー」を二人が許容したということだ。
同様に、例えばなのはがボロボロになったレイジングハート(旧形態)を用いてディバインバスターを発射しようとした時。また、危険だからやめろとエイミーに念を押されたはずのエクセリオンモードを展開した時。レイジングハートはどの場合においても自分のことを「信じて」くれという類の発言をしている。自分はなのはを信じるから、と。なのははそれに完全に応えている。ご都合主義であることは否めないが、しかし二者の「信頼」関係を表現するには最もベタでありベターでもある方法だ。
こうした場面は枚挙に暇がない。シグナムとフェイトのバトルシーン全編もそうであるし、なのはとヴィータのそれも、最後の最後でヴィータがきちんとなのはの名前を言えるようになるという寓話が強調の役目を果たしている。最終的に、防御プログラムを各個人名乗りながら(これもまたあからさまな演出である)撃破しようと試みる始末である。そんな中でもとりわけ言及しなければならないのは、A's 第三の主人公、八神はやての偉業である。
八神はやては、唐突に「闇の書」の主となってしまう。同時に、守護騎士四名の主たる責も課せられる。
だが、はやてはそんな状況下においても、決して現実から目を背けることはしなかった。あるがままに、彼らの存在を受け入れた。そしてその上で、他人に迷惑をかけることは駄目であるとして本と騎士の力を行使し自らの不自由な体を回復させようとはせず、ただ守護騎士並びに魔道書と静かに暮らすことを望んだ。それは、現在自らが置かれている肉体的・精神的そして運命的状況を、全て受け入れているということに他ならない。力を行使することは肉体的現実の否定、力を拒絶することは運命的現実の否定、錯乱することは精神的現実の否定へと、それぞれ繋がる。肯定という前提を済ませた上で自らの決断を下している八神はやては、まさしくアニメ「リリカルなのは」という世界をなのはとは別の側面から直視した際の到達点である。物語終盤、ヴォルケンリッターの騎士たちが偽なのは・偽フェイトによって次々とリンカーコアを闇の書に吸収させられ、消滅してしまった後。悲しみという深い深い落とし穴の中でただ眠りという安寧に陥るのではなく、そこからはたと目覚めのベルを鳴らし、「闇の書」マスタープログラムに「それはあかん」と告げたことからも、その一貫性が失われていないことが窺える。
また、同場面において、はやてはプログラムに名前を与えた。……ここは驚くべき場面である。なのはですら、フェイトというあらかじめつけられた名前を認め、呼んだだけなのに対し、はやてはそもそも呼ぶべき名前すら忘却の彼方へと消えてしまっているプログラムに、名前をつけるという大仕事を成したのである。存在の肯定ではなく、より高度な、存在の「発生」――はやてが行った行為は、より厳しい言葉で置き換えれば「創造」であった。続編としての到達点にふさわしい、クリエイターの誕生である。同時に、「闇の書」――いや、リィンフォース――を管制する管理者[1]となった。
以上、二期について、総括的かつ限定的な断片を用いて論説を続けてきた。結論を述べよう。前作の「リリカルなのは」が最終的には「肯定による規定」へと行き着いた。対して今回の「A's」は、最終的に「創造による肯定」に行き着いている[2]。「創造者」となりし八神はやての名に、「神」という字が存在するのは、むしろ必然なのかもしれない。
物語後半の、どうしてもご都合主義になってしまうプロットが前作よりもテンポを含めて悪くなっているのが気になった。同様に、作画のレベルも13話ではさすがにまともだったが、12話は比べてみるとかなり酷いのが浮き彫りになっている。
また、物語の中心的存在も、なのはからはやてへシフトしている点を強調しておこう。無論、物語の筋としてはなのはが主役であるのは言うまでもない。だが、思想的な主役はどちらかといえばはやてになっている。……その代償としてフェイトの影が薄い。トラウマの追体験並びに克服という大仕事(すなわち消滅による肯定)を終えたにも関わらず、である。それも仕方のないことなのであろうか。
IE6 以下な人には関係ない話。一番大きな変更は、:before ないし :after 擬似要素を用いて角丸を表現したことだろう。アイデアは Updatelog にも記したとおり、mozilla.org のスタイルからいただいた。ただ、実装そのものに関しては同じようにしているか確かめていない。もしかしたら同じ考えなのかもしれないし、違うのかもしれない。
それにしても擬似要素を使うのは盲点だった。よくよく考えれば、:before と :after を使うだけで、制限はあるもののスタイル平面を1から3にすることができる。すばらしい。IE6 なんかどーでもいい場合にはうってつけの方法である。
私はまず、:before に display : block
を適用し、background-image
に角丸画像を仕込んだ。そして height
を角丸画像の px に指定し、ネガティブ margin-bottom
/ margin-top
により引き下げ・引き上げることで元の鞘に収めた。結果は「Paper」をごろうじろ。基本的に以前と見た目は全く変わらないが、その分表現の自由度が極端に増している。おかげで h1 に EOF の背景画像を適用できるようになった。更には、ページ終端近くにあるバナー部のスタイルをそこそこ修正することもできるようになった。以前は角丸を #banner の背景画像で実現していたのだが、#copyright にその責務を負わせることで #banner が完全にスタイルの呪縛から開放された。……どこまでも便利な方法である。
但し、この方法も万能ではない。当然だが block 要素にすると水平方向のスタイルしかいじれない上に、これまた当然だが :before は要素前、:after は要素後にへばりつく形となる。つまり垂直方向の自由度がない。無論、仕様上 position は使えない。float も駄目(だったはず)。一番使い勝手がよい block 要素として用いるパターンが多いだろう。content に画像を指定すれば、角丸を content、水平方向を background-image に任せられるかもしれない。それはまだ未確認。
この方法を使えば、「Space」のメニューも大幅な改善が期待できる。
だが、メニューは一番厄介で、難しくて、そして愛おしい。下手に手を加えればユーザビリティが悪化し、逆にアクセシビリティが悪化することもある。段落その他はある程度セオリーに従えばよいとしても、メニューをあまりにも単調なものにしてしまうと、デザインの個性そのものが埋没する。それははるか昔、まだ EOF が学校のイントラネットにしか公開していなかった時期に試行錯誤して得た経験論であり、また他人に言われたこともある現実論である。
かといって、突飛すぎるインタフェイスでも利用者はついてこない。明確に「メニューである」と認識させるデザインが必要なのだ。カンチガイしてるデザイナーが(敢えて長音符をつけている)見せびらかす、自己満足のではないものが必要なのだ。
言ってしまえば「独自性」と「普遍性」のトレードオフ。どちらが出すぎても駄目であり、かといって均等でも駄目である。ほんの少し崩れたバランスの、しかしギリギリ踏みとどまっているような危うい位置。それが真の狙い目となる。
今の「Space」「Paper」のメニューは、そういう意味ではデザイン重視側に身を傾けている代物だ。そもそもマイナス text-indent を用いている時点でアクセシビリティに難がある。しかし音声で読み上げる分には問題ない。……難しいところだ。かといって本当に味も素っ気もなくすれば、ユーザビリティに難が出る。
変更を加える時は、時に大胆に、しかし十分に下積みを行うことが大事――それが5年以上の歳月から学び取った、サイトデザインにおける基本的な姿勢だったと言い終わって今日はこれまで。……続くかは不明。
フィリップ・K・ディックの直筆文字があまりにも汚いことは有名な話である。本人ですらもはや涙もろくもなければ感傷的でもない。綴り字の力はあいかわらずお粗末なものだが
(「我が生涯の弁明」P55)とのたまうぐらいだ[1]。
そんな手書き原稿が含まれている「釈義」を活字に起こした編者の努力には恐れ入る。が、せめて図も同様にどうにかしておいてほしかった。この上なく読みにくいそれは、「パズルを解いてみろ」といわんばかりである。……そういう意図があろうがなかろうが、図に記された文字が読めないのは致命的なので、少し時間を費やして「翻訳」してみることにした。
「フィリップ・K・ディック 我が生涯の弁明」には様々なディック直筆の図が掲載されている。その中の一つに、「ヴァリス」と他の自作小説との関連性について示したものがある。P332の図04がそれだ。さすがにディックによる注釈は活字に直したらしく、きちんと日本語訳もされていたのだが、肝心の図内文字が元のままである。一念発起して(ネタ作りも兼ねて)体裁を整えたのが次の図である。ついでに注釈邦訳も引用しておく。
世界が現実のものではなく、ユービックがそうであり、ユービックがロゴス・YHWH であることは、『ユービック』において完全に明らかである。『ヴァリス』におけるヴァリスも同様である。
『ヴァリス』は10冊のメタ小説の暗号解読書であり、いつかそのように読まれることだろう。そして『ヴァリス』はグノーシス主義・マニ教をあつかっているが、ひそかに聖母教会をあつかってもいる。
「フィリップ・K・ディック わが生涯の弁明」
気が向いたらまたやるつもり。
このことによって、わたしがなおも綴り字の力が弱い理由も説明づけられる。綴り字の力は天性のものではないと述べている(実に短絡的だ)。
名前は伏せる。当文書は mixi というインターネットの部分集合に存在(依存?)しているわけではない。
不老不死にしてもらう。永遠の地獄に落ちることを意味するが、まあそれはそれで。
私へバトンを回した人物の意見に同じ。……ヤツにはきっとコアがある。あるに違いない。
全くぴちぴちギャルに興味のない上、ハゲてない亀仙人の若かりし頃。別人だよというツッコミはなしで。
そんなことしてる暇あったら寝てる。時間くれ。
微妙にズレてるから、該当なし。
チチ。かかあ天下の家庭は中続きするというそうな。
「ラオウのことを笑おうよ」
やめてラオウ様これはジョークですよジョ ふじこ
瞬間移動。地球上のどこにでも住むことができるなんて……素晴らしい。通勤時間もかからんし。
カリン様 レベルです
戦闘力は約200です。
戦闘力
やりたい人どーぞ。いなかったら打ち止めで。
今日は久しぶりに神保町へと足を運び、いつものようにディック関連の書籍を物色していた。相変わらず「シミュラクラ」はどこにもないし、創元版の「死の迷路」もない。ただ、今日こそはという意気込みで以下の三冊を購入。
しめて一万円を超えたのは仕方のないこと。全てが80年代の発行である上に、それほど大量に刷られているわけでもない。版元品切れ・絶版当たり前。それ以前に、サンリオは出版から手を引いている(倒産と同じ)。
ざっと目を通した感じ、「あぶく」と「悪夢」はかなり良い情報源となりそうだ。ディックの作品ではないものの(掲載短編はどれも既読)、その分析は様々な思考過程が存在することを提示してくれる。それがあまりにも荒唐無稽であろうとも。
しかし「SF の本」はどうやら期待外れだったようだ。内容が厚さ同様に薄そうなものばかり。唯一の救いは日本人5人による対談だが、対談にしてはあまりにも量が少ない。……しっかり読んでもゲンナリしそうな予感がする。
通勤時間の暇潰しはこれで確保できた。もう一度「ヴァリス」「聖なる侵入」「ティモシー・アーチャーの転生」「アルベマス」を読もうと思うようにもなっている。しばらくはディック漬けの日々になりそうだ。
本を整理していてふと目に留まった、付箋紙が大量につけられた本。といった説明だけでおなかいっぱいになる人もいるやもしれない。それこそ「フィリップ・K・ディック 我が生涯の弁明」(フィリップ・K・ディック著 ロランス・スーティン編 大瀧啓裕訳 アスペクト)だった。学生時代に購入し、いそいそと(テスト期間中に)寮の自室で読んでいたことを思い出しながら、再読することにした。通勤時間に脳味噌をそれなりに回転させるにはもってこいの本である。
フィリップ・K・ディックは、1974年の2月から3月にかけて(しばしば 2-3-74 と略記される)、本人曰く「神秘体験」を経験したとされる。それが、ディックの転機となった。以後八年間に渡り、その命が尽きるまで、彼はその後も発生したとされる神秘体験について膨大な量の論考をしたためた。「釈義」と呼ぶに至る文書群である。
「我が生涯の弁明」(原題 "IN PURSUIT OF VALIS":「VALIS を求めて」)は、「釈義」をロランス・スーティンが一旦バラバラにし、それなりに似通った芯を持つ文章を年代順に繋ぎ合わせ、章立てた抜粋集である。よって「我が生涯の弁明」は「釈義」の部分集合であり、再編集版(?)である。そもそもディックの SF 作品自体がよく「つぎはぎだらけ」と称されるガジェットの集合から構成されること、また「釈義」自体が様々な哲学思想や宗教思想からとってきた概念を「神秘体験」という glue 言語で接合したものだと考えれば、あながち不当な切り貼りともいえない。
「釈義」は、ディックの中に堆積していた「現実」への考察が、 2-3-74 という転機によって一気に表面化した結果である。例えば、現時点における我々が存在する世界は「黒き鉄の牢獄」と「棕櫚の園」というふたつの世界が投射する情報(現実)が織り成すホログラムである、という認識(世界観)を挙げることができる。……というより「黒き鉄の牢獄」並びに「棕櫚の園」は結果として生じる現実の姿であり、それを投影する大本には別の概念が割り当てられているというのが私の理解である。
根底にはふたつの本質、すなわち「真」ならびに「偽」が居座っている。それらが互いに互いの世界を投影するために、世界は真偽が入り乱れている。ディックは哲学・宗教が生み出した概念を多用している。
例えば「キリスト」「エリヤ」「ゼウス」「ザグレウス」「ディオニュソス」などは「不死なるもの」=「プラスマテ」という集合の元である。「不死なるもの」は「真」の部分集合であるとされている。更に「真」=「光」=「上なる領域」=「上なるもの」(テュアナのアポロニウスによる)=「パルメニデスの形態 I」=「双子のうち健やかな方」=「超越宇宙 I」=「ノンモ」である。
まだざっと挙げただけ(しかも「真」の面だけ)であって、「聖なる侵入」、「ティモシー・アーチャーの転生」、「アルベマス」を全て包含してしまえば、更に同義語または微妙に意味が違ううえに相互作用が発生し、複雑きわまりない相関図が発生してしまうことになる。更に「偽」の方面も加えれば更に膨大なものとなる。私には、今のところ整理している余裕も時間も思考力もない。ただ、ディックは「偽」すなわち「帝国」(「闇」)が照射する情報が我々の現実を構成するホログラムとして現出していると考えており、そのホログラム像、世界を覆いつくしているかのように見える(実際には世界という概念を形作る情報そのもの)こそが「黒き鉄の牢獄(BIP)」であるという情報だけは申し添えておく。
……とまあ中途半端極まりないところで今日はおしまい。続くかどうかは謎。
久しぶりに Mozilla Firefox へ導入している拡張機能の数を数えてみたら、昔の基準では考えられない21個という状態になっていた(DOM Inspector 含む)。貧弱ノートでしかインターネットへ接続することができなかった時代に比べれば、何という贅沢だろう。
今日は疲れていることもあって、それらを列挙することでお茶を濁したいと思う。ちなみに昇順ソート。
れっきと知れた2ちゃんねるブラウザ化拡張。こいつの利点は、何といっても通常のブラウジングをしている最中にスレへのリンクがあってもウィンドウ一枚の中で完結してくれるところ。
Cookie を通常受け付けない設定にしている私にとって、どうしても必要となる場面でサッと切替可能なこの拡張は非常に有用。いくつか存在するバリエーションのうちで、最もシンプルかつ利便性が高いステータスバー常駐タイプを選択した。
ぐぐる先生を文字通りカスタマイズしてくれる上に、クリック追跡を削除してくれる。強迫観念に襲われがちな人向け。
これがないとやってられない。ユーザスタイルシートで他者のサイトをいじる際には必須。
embed 要素に指定されたアイテムをダウンロードする機構を提供してくれる。あれば色々と便利。
ダウンロードマネージャはうざったいのでこいつのコンパクトモードで代用。しっかりプログレスバーになっているのが嬉しい。
天気予報を見る手間を省いてくれる。当らないことも……。
2ch の巡回はこれで決まり。数えたら登録スレ数が100超えてた。……更新チェッカがないと絶対観きれない。
ぐぐる先生に情報がだだもれになるものの、それでもいいような情報を登録しておくには有用。URI に関連付けてくれるのが何ともぐぐるらしい。ただ、正規の Web ページ版より機能が限定されているため、たまにソートする時は本家を開いてやらねばならないのが玉に瑕。
Windows の Firefox 限定。たまーに使う。
使用頻度は低いものの、あればとても便利なもの。顔文字系のスレでは重宝する。
つまりは mixi のあしあと機能を利用したえげつないカウンタをブロックする拡張機能。そんなことするヤツはもうアホかと。
どうしてか余分な機能までくっついた All-in-One Gestures の方が有名になっているものの、そのマウスジェスチャの元はこの子だという話。純粋にマウスジェスチャだけを実装してくれる。もうこれ無しでは生きられない。
これもあるとかなり便利。sage デフォルトは当たり前。というか、わざと age たことがない。
もはや説明不要のフィードリーダ。膨大な情報を蒐集する手間を省いてくれる。必需品。
もうこれなしには生きられない。
私はとにかくページをスクラップしてしまう方だ。あとでじっくり読むのもそうだが、コンテンツはいつ消えるかわからない。儚い情報をいかに繋ぎとめておくかが大事だと思う。
昔は Tabbrowser Preferences を使っていたが……コンピュータの性能が上がるとこちらの方が有用。というよりこれがないと Firefox デフォルト機能はあまりにも貧弱。必需を通り越して、もはや必然。
2ch のスレは bbs2chreader にお任せするとして、一般的なサイトで h 抜きがあるとこれがとても役に立つ。こういう「ちょっとした便利さ」がとても効率を上げるのに役立っている。
これもちょっとした便利さの部類に入るだろう。.mht 形式のファイルを通常の html として読めるようにしてくれる。アイコンが結構好き。ふたばはあまり行かないので、「赤福」は入れていないが、こっちもこっちでアイコンがまた素晴らしい。最近 95 姐さんの絵がねえなあ。よもぎ氏よ(誰
まあたまに使うぐらい。UA 切替で大丈夫なバカサイトにはうってつけ。やーいバーカバーカ。
思ったより使っていないけれども、あればあったで便利。でもぶっちゃけた話 CSS 編集機能はいらない。……私には、GNU Emacs / xyzzy があるから。
列挙完了……にけっこう時間がかかった。もう駄目だ。寝る。リンクを張る気力もない。
いちいちマウス操作でこの Blog やら何やらをアップロードしなければならないというのは非常に面倒だったので、cFTP を導入してみることにした。要は ftp
コマンドのインタフェイス。
早速起動してみると、全てのバッファ表示がクリアされ、cFTP が起動する。これはこれで問題がある。マニュアルを別バッファに表示させつつ cFTP をいじるには、起動してから再度別バッファを表示させなければならない。だが、それを除けば動作そのものは及第点。かなり使いやすい。当然のごとく付与されている GNU Readline 風のコンソール操作や補完に好印象。これでまたひとつ、マウスに手を伸ばす機会が減ってくれた。
今日は、就寝01:00、起床15:30。……起きたらもう空が暗い。それでも目の下の隈がとれない。今日は早めに寝よう。そうしないと、翌日が辛い。
先日、本屋に立ち寄った際偶然見つけた「微睡みのセフィロト」(冲方丁 徳間デュアル文庫)を読んだ。
ノヴェラ(中編)なのでかなりサクサクと読み進んだ感覚。物語的には、バランス配分を問題解決より人物描写に振り分けているため、事件解決のオチはかなりやっつけ気味。確かに考え方としては成る程というものなのだが、いかんせん作者のやる気が感じられない部分となっている。こんなやつ(黒幕)のことはどーでもいーやといった具合。
その代わり、人物描写・思考過程にページ数が割かれている。ただ、短くまとめなければならない分、削れるところは削り、合理化されているのは認められるし、そこはとてもうまくできている。無論、先に述べた事件解決近辺のテンポは酷い。
問題は、ラファエルを罵倒したパットと、罵倒されたラファエル自身である。
まだ一回しか読んでいないので明言は避けるが、パットがラファエルをかなり悪どい部類に属する方法で貶めたシーンの後、ふっ、とふっきれて現場へ戻ってくる。それを特に何を言うまでもなく迎えるパット。……できすぎている。
それもこれも、二人とも感応者(フォース)だから(しかもラファエルに至っては名前自体が神がかっている)……という説明でいいのだろうか。他人を理解し、自分をも理解して、立ち位置を決して誤らない。人間が自身で造り上げた「社会」という構造の中において、これほど完璧に、しかし目立つことこの上ない状態はない。だから迫害されるともいえる。ここはもう一度読み直そう。少なくとも、そう思わせてくれる本であったのは確かだ。
冲方氏は自ら度々言及しているように、「たまご」をよくモチーフにする。「マルドゥック・スクランブル」に至ってはタイトルにまで関連用語が出現する始末である。その起源は本人曰く、「天使のたまご」(押井守・監督)であるという[1][2]。それは「微睡みのセフィロト」でもいやらしいほど意図的に用いられている。ハンプティ・ダンプティがその例だ。
外国暮らしが長かったせいか、言葉遊びを多用することも多い。先に挙げた感応者がいい例だ。ルビで「フォース」とつけられたそれは、四番目の意であり、無論「力(force)」の意でもある。……あまりにも多いため、私が一人で拾い上げるのは困難だ。それはもう誰かがやっていそうなものである。巻末付録の用語集も、あまりあてにならない。ただ、背景として用いられる単語・用語は物語に水平線を与えるための道具としてだけ使われている。それを追求しても、結局戻ってくるのは虚無の臭いだけだろうか。
ちなみに、冲方丁は映画「立喰師列伝」(押井守・監督)に「ドラクエ窃盗団」の一員として出演している。「立喰師、かく語りき」(押井守 徳間書店)にはごく最近の押井守×冲方丁対談が収録されている。興味があればどーぞ。内容は「歴史と根拠についての相違」を軸に、「(漠然とした)世界(と呼ばれるもの)の捉え方」を語っているという感じ。馴れ合い然とした雰囲気が嫌いなら読まない方が吉。しかし二人の間にはこれでもかというぐらいの溝があり(歴史についての認識ではない)、それがどの程度の影響範囲を持っているか確認することには有用。
久しぶりに xyzzy のメンテナンスをした。といっても、GNU Emacs キーバインドへの変更と rv-region の導入を行っただけ。素直に Meadow を使ってもいいのだが、xyzzy にも捨てがたい魅力がある。Gresreg、窓 native、Common Lisp サブセット。手をかければかけるほど応えてくれる包容力は、他の窓環境にあるエディタにはほとんど見られない。あるとすれば、サクラエディタぐらいだろうか? いや、あれもあれで限界があるのだろう。PPA と WSH ……括弧は少なくて済むか。
エディタを使っていて、全くマウスに手を伸ばさないで済むことが、これほどまでに幸せなのだと感じるようになったのはつい最近の話だ。前まではそれが当たり前だった。
しかし、今は違う。
職場では Emacs が使えない。秀丸だけだ。そして秀丸は、前にも述べたように貧弱である。必然的に、マウスに手を伸ばさなければならない場面が出てくる。XKeymacs の加護もない。……窓での XKeymacs の偉大さは、計り知れないものだ。お世辞抜きでそう思う。あれがなければ C-v や C-x の世界に逆戻りしてしまう。だが、それでも C-f すると大抵の場合検索窓が出る。あの窓がうざったくて仕方がない。誰か、私にミニバッファの愛の手を。
今日はひとまず rv-region の話をしておく。GNU Emacs 21 では、transient-mark-mode
を t
にすれば、リージョン範囲を反転表示させることができる。しかし、xyzzy にはネイティブで組み込まれていない。だが、そこはしっかり Lisp の血をその身に宿しているだけのことはある。rv-region という拡張 Lisp を用いれば、xyzzy でもリージョンを反転表示させることができるようになる。設定その他は配布ページとファイルのコメントを読めばいい。
rv-region の何が嬉しいかと言えば、例えば C-h してバッファ内の全テキストをマークし、M-C-\ でオートインデントをかましたい時だ。全マークが見た目にわかりやすくなると、M-C-\ を実行してよいものかどうか区別することができる。
もう寝るか。……金曜も死なない程度に仕事しよう。
バナーの数が多くなると表示スペースをとり、それがデザイン全体に悪影響を及ぼすならば改善の余地がある。そこで以前は「スクロールで誤魔化す」というアプローチを取ることにしたのだが、それは JavaScript を用いた強引なものだった。実装も放りっぱなしで手をつけず、しかも微妙。改良しようとしたがいい案も浮かばない。そこで「スクロール」を捨て、あえて CSS だけを用いて「ポップアップ」風に余分なバナーを表示するギミックを実装してみることにした。「more ▲」となっているのがそれ。まだスタイル「Space」限定。
但し、どうしても a 要素以外で :hover 擬似クラスを使わざるを得ないため、IE6 は完全無視(そもそも子選択子や隣接選択子、content 属性を使っている時点で無理)。無論、IE6 に対応するために behavior 経由で JavaScript を用いる可能性はある。……切り分けしなくて済む上に楽なんだもの。IE7 ではうまくいくんだろうか。見てないから何ともいえない。……そんなにトリッキーな実装はしていないから、多分大丈夫なはず。該当ファイルは structure.css
。
最近、サイト巡回だけで時間がとられる。帰ってくる時間も遅い。こうして文章を書く暇もあまりない。いやお前サイトの順回数を減らせよという意見は却下しないが、私にとって「情報の蒐集」は快楽なのだ。その件についてはいずれ機会があれば記録する。
前回はかなり脱線したので、話を本筋にもどすことにする。
Warning 以降の内容はアニメ「Ergo Proxy」のネタばれを含んでいます。
また、この作品は DVD 1巻の時点においては鈴木謙介の言葉を借りるなら「監視国家」と呼ばれるものを描いているものとして認識することができる。「カーニヴァル化する社会」(鈴木謙介 講談社現代新書)では、監視国家を集中的な権力が個人の身体を監視するようなもの
と定義している。但し、現代社会における「監視」はかなりニュアンスが異なっており、鈴木が監視社会とするそれは遍在するデータベースが主体
であり私たち自身がその監視を望み、支えているもの
と定義している。
例を挙げるなら、リルがイギーによって警告を受ける場面だろう。公式サイトの設定解説によると、イギーその他のオートレイヴは、例外を除き全てが「総体」と呼ばれるものに接続されている。そこから発せられた警告、と捉えるのが自然だ。ご丁寧なことに、非常に機械的な音声でメッセージは発せられる。そこには、「総体」というよくわからないモノに監視される「人」の姿がある。オーウェルの「一九八四年」と同じ構図だ。
ただ、気になるのは公式サイトのキーワードに管理社会
、巨大なドーム状の都市国家
という語句があることだ。物語が進むと、実は「監視国家」ではなく「監視社会」であることがわかるのかもしれない。無論、現状では「監視国家」である。ドーム状の都市国家
を「ゲイテッド・コミュニティ」と読み替えれば多少なりとも変わってくるのかもしれない。だが現時点では情報が足りない。
次に、「人間的」「非人間的(= シミュラクラ)」という区別が存在することを述べておこう。シミュラクラとはフィリップ・K・ディックの意味における「人間ではないもの」である。例えばその指針は「感情移入」であったり「優しさ」であったりする。
以前も述べたように、リルとイギーを対比させればわかりやすい。リルはほとんど感情を表に出さず、出したとしても微々たるものであり、非常に機械的(= シミュラクラ)である。対するイギーはなぜかオカマ言葉で会話をし、感情的起伏のようなものがはっきりわかるようになっている。「あなたをつくります」(フィリップ・K・ディック 創元SF文庫)におけるプリスとシミュラクラたちの構図とよく似ている。ただ、先にも触れたがリルも感情を全く表に出さないわけではないし、イギーにも非常に機械的な要素がある。比率の問題である。true か false かではなく、どちらかといえばどっちよりかというレベル。その点に注意しなければならない。結局はリルを人間として描こうとする思惑を見ることができるからだ。感情を必要としない
社会ではあるが、「感情が存在しない」社会ではないのだ。少し考えれば、「必要としないならば、必要になってくる」物語構成になるであろうと予想がつく。
そこで「例外」が現れる。ビンセントである。「移民」であるこの男は感情の比率が高く、このビンセントのペアたるオートレイヴ、ドロシーは感情の比率が低くなっている。
次回、があれば続く。
WOWOW で放映されていたが故に観ることの敵わなかったアニメ「Ergo Proxy」の DVD 第1巻がリリースされ、幸運にも近くの TSUTAYA に入荷していたので観てみることにした。26分なら何とか時間をとることができたというのもあるし、何より私の大好物である SF 仕立て。
Warning 以降の内容はアニメ「Ergo Proxy」のネタばれを含んでいます。
所感は「既にモジュールとして存在しうる数々のネタを include するところまでは終わった。さてこれからどうするんだ」というものだった。言いかえれば、SF 界では昔からかなり自覚的であったデータベースとしてのネタを、完全に自覚的な状態で結合しているということだ。
背景設定は、言ってしまえば「完全であると妄信している不完全な世界」である。そこに「ロボット」(robot = robota = 労働)たる「オートレイヴ」(スペル不明 slave? lave? それとも rave?)が絡む。更には全体的な状態として人間は感情を必要としない
とされ、逆にオートレイヴはかなり感情らしきものを表現することができている。主人公(?)リル・メイヤー(re-l MAYER)とイギー(IGGY)の対比が非常にわかりやすい。また、他の登場人物の中にもほぼ例外なくペア関係が存在しており、ひとつを除いてほぼ同じ状況にあるといえる。
オートレイヴの AI に感染して「自我」という概念を生むと言われるウィルス・プログラムの名称が「コギト」というのもまたあからさまである。Cogito すなわちコギトは有名すぎるほど有名なラテン語の単語であり、「私は思う」という意味をもつ。デカルトの命題(コギト命題)を知らない者はいないだろう。このコギト命題は大乗仏教にいうところの唯識とかなり密接に関わる。
コギト命題は、自分という存在の意識のみが事実であり、自分という存在や世界が虚偽であったとしても真であるとする命題である。
唯識は、識を除く全ての(事物的)存在は自己という存在の識心によって造られた仮初であるとする概念である。
両者が決定的に違うのは、「心」の位置づけである。唯識における心はすなわち阿頼耶識である。阿頼耶識は種子を対象世界の諸法とし、熏習によって再び種子とされる。そこで形成される種子は、保持時間が刹那であり、それが持続する。
私はコンピュータにおける圧縮・解凍アルゴリズムが頭に浮かんだ。即ち、種子という情報(データ構造)は阿頼耶識というソフトウェア(アルゴリズム)によって対象世界の諸法(データ構造)へと解凍され、再び阿頼耶識によって種子に圧縮される。そのサイクルの所要時間は刹那であり、保持時間も刹那である。これが無限ループになっている。
時間がないので次回に続く。……続くのか?続いた。