ふと「GUNSLINGER GIRL」(相田裕 メディアワークス)を全巻(7巻)まとめ買いして、三回ほど読み返した。読み返すに値する作品である。一般的に汚いと呼ばれる部分も、何一つ隠さずただあるがままに提示される(無論、制限もあるが、それを手段として利用してもいる)。読者の目に否応なく入ってくる事実は、善であるか悪であるかという論議に果てが見えないことを暗示する。
一貫したその姿勢は、タイトルにも如実に反映されている。gunslinger は「殺し屋」の意である。故に「GUNSLINGER GIRL」は直訳すれば「殺し屋少女」となる。殺人鬼でも暗殺者でもない。ましてや正義のヒーローでもない。ただの殺し屋なのだ。命令を受け、ターゲットを確実に殺害する。殺害するだけではなく、捕縛することもあるが、基本的に「彼女」らは殺すことを基本とする。
「girl」という単語にも注目すべきだろう。単行本7巻時点までに、男性型の実験体は一体も存在していない。常に女性型の、それも肉体年齢としては「少女」に分類される年代のそれが一貫して描かれる。年齢層こそバラバラで、6巻からは若干高年齢のタイプも登場したが、基本的に未成年である。一体何故そういう設定なのか? ……マーケティング戦略(すなわち需要と供給、願望と欲望の接続)もあるだろうが、それ以外のなにかが見え隠れしているという印象がある。
もう少し突っ込んで考えてみても、面白いことになりそうだ。
セカンドディスクに Vine Linux を入れて(結局そうした)LILO をファーストディスクの MBR にインストールしたところ見事に失敗。LILO が起動せず、結局 Windows XP ディスクの回復コンソールから fixmbr
を実行・上書きして Windows は起動できるようにした。どうやらセカンドディスク認識で失敗しているようだ。
現在解決案はふたつ。ひとつは HOWTO に従って LILO をインストールしなおす方法。そしてもうひとつが、GRUB を Windows 側からインストールする方法だ。将来性を考えると GRUB でどうにかする方がよいのかもしれない。無論、セカンドディスク側の MBR にも LILO なり GRUB なりを入れておけば、更にディスク単体でブート可能な便利物になる。しかしもう休みも終わり。やるなら次の週末か、盆休みになる。
新しくどの Linux ディストリビューションを入れようかと悩んでいる次第。とりあえずパーティションは切った。あとは選ぶだけ。
今のところの候補は以下の三つ。
今は Plamo にしようかなと考え中。Fedora も捨てがたいし、金のかからない新しい物好きでもあるから、導入したいという考えはある。Vine は昔から使っているから……。
……とりあえず何かひとつ入れてみて試験運用してみる。問題解決はそれからだ。最低限、快適な Emacs / pLaTeX / Mozilla Firefox / Gaim 環境が構築できればよい。どうしようか。
なぜか終了時にエラーで落ちる上、IME ON/OFF が使えないというとんでもない状況に陥っていた、ノートパソコン買った時についてきた Microsoft Bookshelf Basic 3.0 を問題なく使う方法のメモ。
BS3.exe
の「互換性」タブで次の設定を行う。
そうしたら無事に問題の症状は解決した。……元が古い代物だからあわせてやればいいだけのことだった。
canna のデフォルトキーバインドは結構考えられていると思う。Emacs 使いなら尚更。変換性能の悪さはどうしようもないが、今のところは問題ない。そんなこんなで Windows 環境の MSIME 2002 (8.1.4202.0) キーバインドをいじって canna 風にしてみた。性能としては canna よりよいから、それなりに使いやすくなった。
意外と Microsoft のソフトウェアは設定が全て GUI 経由でインタフェイスも最悪であるため非常に面倒であるという欠陥を持ち合わせているものの、キーバインド設定はそこそこ自由度があるものがある。Developer Studio がそうだし、MSIME もそうだ。今の職場は自由にソフトウェアをインストールできない環境であるため、少しでもマウスに手を伸ばす面倒を減らすためにそれらを活用している。
キーバインド設定のような、膨大なパターンが生まれる設定項目は設定ファイルを用いた方法で管理した方が断然有利である。Emacs が典型例だ。自由という名を欲しい侭にしているキーバインド設定は、「不精」という名の素晴らしい本質を見事に浮き上がらせる。下手なダイアログより、シンプルなファイルの方が無難かつ的確なことを示唆する例だといえる。無論 Emacs とて完璧ではない。実装されている GUI 風設定項目は使いにくいし、設定ファイルによる設定とて変数や関数の名前を知らなければ設定のしようがない。
とにかく……まともにキーバインドも設定できない挙句インタフェイスもメタメタな秀丸はとことん駄目だってことで(またそれか)。
早速鑑賞。……実は2話をまだ観れていなかったのだ。そうすると、1話・2話はロックと影山の対比構造が組み込まれ、双方の影をじっくりとあぶりだすことに成功している点が浮き彫りとなってくる。ロックにはアドレナリンを、影山には哀愁をそれぞれ付与することにより、汚い仕事には自覚を、見せかけの輝かしさには失笑を誘うようになっている。全体的にどこかのんびりとした展開にも、戦略的条件付けと、ただ全てを詰め込もうとはしない製作者サイドの意思が包含されている。
セカンドシーズン製作もどうやら決まってる模様。話としてはまとまったが全体としては尻切れトンボに終わったこのアニメも、収束への足がかりを得たようだ。双子編と日本編をやればだいぶ話数としては稼げるうえに、原作も脂がのって非常によい出来栄えとなっている。嫌が応にも期待してしまうというものだ。
以下蛇足。そういえば、今日ポストを覗いたら、エホ○の証人のチラシが入っていた。ざっと読んだが、全く何も書かれていない代物だったため廃棄。笑いの種にはできるが、会話の種にはできない。つまらない。
今日終わらせる予定だった仕事が終わらなかった。……延びる一方だ。しかし蜘蛛の糸は垂れてきている。あとはそれを掴めるかどうか。明日に期待しよう。
今日も 21:30 まで仕事。今の現場は 22:00 前には必ず建物外へ出なければならないので、まだ救われているといえばいえる。つまり、徹夜でどうにかしろということがないからだ。無論、それも客観的にみればおかしな話である。八時間労働が基本であるはずだからだ。しかし日本は隷属構造が確実に存在しており、しかし誰もそれを指摘しない。指摘しようとすれば記憶が蘇るからなのかもしれない。全共闘時代の。
今週中に片付けなければならない仕事が、まだ四件残っている。そのうち一件は今日やっていたことだ。明日はそれともう一軒を並列処理し、更に一件終わったら残り二つを同時に進行させなければ到底間に合わない。いや、したとしても間に合わない。暇な時間は存在しない。
そういえば、友人のなかには二ヶ月以上研修をやっていたそうだ。私にはそのれがうらやましい。しっかり基本からレクチャーしてくれるからだ。今の現場では T.T という名目でその場その場で教えられていく状況。それは何より情報が断片的にしか入ってこないことを意味し、つまりは再構築の時間が必要になるということだ。まだ毎日ニュースサイトやらブログやらを100以上見続けて情報の取捨選択をしているだけ、自然と鍛えられてはいる。
何でも屋――それが私の役目。ひとつのことに特化せず、あらゆる仕事をできるようになること。求められているのはそれだ。皮肉じゃないか。学生時代は専門馬鹿と教師に言われたにもかかわらず。……まだ一年も経っていないが、当時は今思えばかなり疲れていた。精神的に――何かがおかしかった。あれは、特化ではない。ただの、放棄だった。
家は単なる寝床。食事は全て社員食堂。睡眠時間は平均4時間。今はそんな生活をしている。それだけでもおなかいっぱいなのだから、もっと酷いところに就職していたらと思うと背筋が冷たくなる。
転職……しかし世の中は甘くない。誰か私のようなボンクラを雇ってくれるのだろうか? プログラミングができるといっても、大したレベルじゃないのはわかっている。サイト構築が云々といったって、サーバ運用をしたことなんかありゃしない。せいぜい .htaccess をいじったぐらいだ。最近じゃ CSS もろくにいじっていない。デザインにも古臭さが出ているのに。本が好きだとはいえ、冊数的には少数派だ。
考えれば考えるほどマイナス要因しか出てこない。しかしプラス要因をアピールしなければならないことはわかっている。さてどうするか。
一応だが、とりあえずまだ転職する気はない。まだ、今のところは。
今日は久々によく寝た。就寝 01:00、起床 14:00。……疲れてるのだろうか。そいでもって、ここ数日の通勤時間と休み時間に「アルファ系衛星の氏族たち」(フィリップ・K・ディック 創元 SF 文庫)を再読していた。ちなみに「神山健治・東浩紀の対談に見る、「攻殻機動隊 S.A.C.」製作プロセスを含んだ独占的ソフトウェアとの類似点」の続きは中止。……あまり良いアイデアというか、執筆プロセスが浮かばないため。
「アルファ系衛星の氏族たち」は、結局のところ自分を貶める存在を消去したい男、チャック・リッタースドーフの物語である。無論、その存在とは妻であったメアリーのことだ。チャックはメアリーをシミュラクラによって殺そうとするが、結局それもできず、離婚金を支払うために兼業しようとして失敗する(させられる)。が、驚くべきことに、最後の最後で二人はよりを戻すのである。ここまでくると、一見ハッピーエンドのように思える。……ただし、その時既にメアリーは自らがデップ(憂鬱症)であることを自覚していた。それは、自らが病んでいないと思い込むことによって抑圧されてきたものが全て取り払われたことを意味する。メアリーの枷は外された。
つまるところ、チャックは結局何もできずに自分の立場を悪くした挙句、破滅への扉がまさに開かれようとしているところで、物語は終わっている。もしチャックがメアリーにも精神分析をやらせなければ、もう少し違った結果になっただろう。だがメアリーは自らの本性を知った。そして自らの知識で理解した。結果として、「アルファ系衛星の氏族たち」はその後のディックの生活を暗示しているかのような、陰鬱きわまりない作品になった。
ディックのとった立場は一貫している。即ち、自らとリッタースドーフをシンクロ状態にあったことだ。あまりにもありきたりで平凡きわまりない男に。物語序盤、こいつが主人公ではないかと思わせたペア族のガブリアル・ベインズがいつしか影の薄い男となり、最終的にはメアリーにボコボコにされて退場することとなった背景には、そういった強い感情移入がある。ベインズはディックの分身になりきれなかった。確かにディックには様々な強迫観念があった。それを形にしたのがベインズだともいえる。しかし、当のディック本人はスペシャルになろうとして失敗した男だ。それを延々と求め続けた最終到達点が「ヴァリス」「聖なる侵入」「ティモシー・アーチャーの転生」とするならば、おのずと答えは見えてくる。救済されたいということは、望んでいるということ。望むことはすなわち足りていないこと。……ディックは足りないと思ったものを、小説という媒体を介して取得しようとした。何が足りなかったのか? 「差異」だ。他人との、世界との差異。自分は超越しているんだという、権威であるという、ひとつの野望。あまりにも違いすぎていて排除される存在のいち形態が精神疾患者であるとディックは考えた。だから自らもそれになろうとした。小説の中で。しかし結局、感情移入能力の高さゆえに、ディックはベインズと同一化した。結果的に「アルファ系衛星の氏族たち」はディックの現実を如実に反映した陰鬱なものとなった。その状況を打破しようと本気で考えるのは、ずいぶんと後のことになる。
今日は昨日のネタをお休みして、弾力氏の「ウェブページを作る人に8の質問」に回答してみる。
xyzzy の gresreg
と Emacs の tags-query-replace
。
GIMP / Inkscape / Photoshop 6。
なし。色は16進数で理解するものだ。
なし。
Emacs では nXML mode を使っているので目に見えてわかる。
たまに W3C の Validator や Another HTML-lint にかける。
xyzzy なら cFTP。Emacs なら ftp。
Windows 環境で作業するとき、PNG のチャンクをいじるために TweakPNG を使っている。Photoshop の吐くおかしな gAMA チャンク値を編集したり、WinIE6 用に32bit PNG なら bKGD チャンクを入れるために使う。最近はその前に GIMP で再加工するなり再保存するなりしてファイルサイズ減少 & bKGD チャンク挿入を行っている。ただ、gAMA は 0.45455 でなく 0.45454 のまま変更されないので、きちんと 0.45455 に直している。Linux では GIMP と Inkscape しか使わないので問題なし。
Perl も重要だ。makerss.pl というスクリプトを自前で作った。Windows なら ActivePerl が必須となる。面倒極まりない置換を行わせたい時に、やはり gresreg
や tags-query-replace
では力不足になる。その時も Perl は役に立つ。
Windows の「文字コード表」も意外と役に立つ。ふと数値文字参照(文字参照)を行いたくなったときに便利だ。
あとは何と言っても Mozilla Firefox / Opera / Konqueror が必要になる。おまけで WinIE6。特に Konqueror は Mac OS X 搭載の Safari と大本は同じ(KHTML)である。閲覧チェックに用いる。
Mozilla Firefox Extension の Web Developer 日本語版もたまに使う。
意外と使っているソフトが少ないのに驚いた。それだけ別のことにいろいろ使っているというわけか。
昨日の文面は中途半端な部分とあからさまにおかしな部分があった。それを訂正するとともに、話を進める。尚、本稿の目的は「類似」を示すだけであって、それが善か悪かを決定するものではない。あくまでもひとつのヴィジョンを横たえるだけである。
完全に一致するものは、ない。だが、よく似ているものならある。独占的ソフトウェアだ。
そもそも「独占的ソフトウェア」とは何か。FSF は以下のように定義している。
- 独占的(Proprietary)ソフトウェア
独占的(プロプライエタリ)ソフトウェアは、フリーでもなければ疑似フリーでもないソフトウェアのことです。その利用、再頒布、改変は禁止されているか、許可を得ることが必要とされているか、あるいは厳しい制限が課せられていて自由にそうすることが事実上できなくなっています。
(後略)
つまり「いじろうとしてもできない」状況にある、ということだ。
もう眠いので多分だが続く。
久しぶりに「ユリイカ 2005年10月号 特集*攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」を読み返した。その中に「アニメは「この世界」へと繋がっている」と題された神山健治(監督)と東浩紀(聞き手)の対談で、少し考えさせられたことがあった。メモとしてここに残しておく。
神山(以降敬称略)は次のような発言をしている。以後特筆なき限り、引用は全て前述「ユリイカ」による。
たまに2ちゃんの書き込みとかを見てたんですけど、面白いことを思いつく人っていますよね。ただ、そういう人間がプロになってこない。現場を見ていても、いまクリエイト行為よりは、消費行為のほうがエレガントになってしまっているのかもしれないと思っちゃうんですよ。極端な言い方をすると、いまほど消費者に対してプロの方が頭悪く見えていることはないんじゃないかと。数人で創ったものを数万人がみるわけだから、数人がどんなに強度を高めても相対的には負けてしまう。
P61
私はこれが、Eric S. Raymond が「伽藍とバザール」で指摘する、8. ベータテスタと共同開発者の基盤さえ十分大きければ、ほとんどすべての問題はすぐに見つけだされて、その直し方もだれかにはすぐわかるはず
である状況と似通っているものと考える。但し、神山にとって2ちゃんねるの住人は、「ベータテスタ」や「共同開発者」ではない。と同時に、2ちゃんねるの住人も、自らを「ベータテスタ」や「共同開発者」だとは思っていない。そこには、「開発プロセス」の違いが横たわっているからだ。
ここで勘違いしてはならないのは、今対象としているソフトウェアにおける「ソースコード」、すなわち「設計図」は、アニメの場合「設定」や「プロット」といった要素――煎じ詰めれば「シナリオ(脚本)」――を示すという点だ。アニメとして形を得た、「映像」や「音声」はソースコードとみなしてはいない。確かに、それらも大本はアニメータの原画や動画(ないしそれらを処理した電子データ)であったり、声優の音声であったりする。しかし、それらを製作するためにはシナリオがなければならない。たとえ脚本がなくとも、個々のデータとしての設定やプロットは存在する。いずれにせよ、本稿が現在議論の対象としているのは、ソフトウェアにおける「ソースコード」とアニメにおける「シナリオ」である。そして、どちらもプログラミング言語と自然言語の違いはあれど「言語」で表現されることには違いなく、文面そのものを容易に他者と共有可能である。
また、ソフトウェアとアニメの性質差を理解しておかなければならない。
前述のように、ソースコードとシナリオは本質的には「設計図」である。この視点から、ソフトウェアの関連概念を、シナリオに当てはめることが可能となる。そこから、神山のいう数人で創ったもの
は、どういったプロセスで開発されたものなのかが見えてくる。だが、現在ソフトウェア側に存在する概念と完全に一致するものはない。
例えば、FSF のいう「独占的ソフトウェア」というわけでもない。それは、よく槍玉に挙げられてしまう Microsoft と同じようにアニメを「開発」しているということだ。シナリオ集や設定集が販売されることもある現状を見れば、それほど
シナリオを作成するにあたって、設定やプロットを煮詰める作業(言うなれば設計とコーディング)を、全て数人の製作スタッフだけで行う。そして、出来上がったシナリオを製作チームに渡す。製作チームはコンパイラのようなものだ。文字として記述されたシナリオを、絵や音声といった形で出力する。そしてそれがアニメとなる。
シナリオ作成に外部からの意見を取り入れる機構が存在していない時点で、既に独占的状態である。例えばアニメを実際に視聴していた人間が、ここに矛盾があるから直した方がよいのではないか、という意見を製作者に伝えることができない。
続く……かも。続く。
久々の三連休は、体を休めるのに丁度いい。ついでに溜め込んでいた録画を全部観たり、買い物に出かけたり。OS を再インストールしたり。
うちの WinXP がやたら調子が悪かったので、そろそろ再インストールをしようと思っていたが、時間がなくてずるずると延びてしまっていた。それもこれまで。ようやく nLite で削りに削った XP SP2 をインストール。今はようやく環境整備が 50% ほど完了したので、こうして書いている次第。
……よし。もう少しで全部終わる。がんばろう。
友人たちと会うことになっていて、秋葉原へと行った。総勢6名の大所帯。色々と……まあ、仲間内でしか言えないようなネタを話題としつつ、久々に濃い会話を交えた。全員が異なる道を歩み、異なる場所へ住むようになっても、交流があることはとても大事なんだなとつくづく実感させられる一日だった。
ついでに細々と買うものがあったので、それらを購入。落ち合う時間と場所を決めておいて皆好きなように散策する時間となり、私は早速「Spread Firefox in 秋葉原」をこの目で見るべくポイントへと向かった。
少し時間が遅かったためか、駅前でそれらしい人を発見することはできなかった。そこで「中央通りと神田明神通りの交差点周辺」に出向いてみたら、もじら組の法被を着た人がいるではないか。早速「すいません、それください」と声をかけて CD + ステッカー + ビラの入った袋を貰った。……えー、もし後ろから声をかけられて、そいつが重そうな缶の大量に入った白いビニール袋を持っていたならば、それが私です。傍には Firefox 帽子を被った人もいて、ついでにその人からも同じものを貰った(保存用)。噂のメイド衣装の人間は、ついぞ見かけなかった。タイミングが悪かったようだ。
何で缶入り袋を持っていたかといえば、FOODS SHOP WATABE (私の HN とは関係ない……念のため)でルートビア、チェリーコーク、ダイエットドクターペッパーなどを購入したから。かなり良い品揃えの上に、値段も110円程度。ちょくちょくお世話になっている。問題は、荷物が増えてえらく持ち運びに苦労すること。外出時にリュックやバックを持ち歩くのが大嫌いな私は、袋を手に提げる他ない。
15日、22日のイベントはどうするか検討中。運がよければ行けるだろう。その前に仕事が忙しくなっている。疲れて寝過ごす可能性が高い……。
初回限定版がまだ 7&Y にあったので注文。届いたので早速聴いてみた。
編集しすぎだ!
とはいえ、面白いから許せる範囲。しかし、非常に聴きにくいことこの上ないコメンタリや大河せっちゅ語小説など、CD オンリーの音が存在しているのはまだいいが、個人的にはラジオ本放送も全部収録して欲しかった。最初から聴いてたわけじゃないから。
で、初回特典って何かなーと微妙に期待しながらケースを開けたんだよ。
ペラ一枚たぁどういうことだ。
どこぞの WEB アニメスタイルのインタビューで倉田センセが言ってた意味、ようやく解りましたよ……。ネタまみれの一枚なのがせめてもの救い。CD だけあってこれが精一杯なのだろうか。定価も変えられないから仕方ないのかもしれない。
にしても、斎藤千和は爽やかにイロイロな意味でバカだな(褒め言葉)。
ふと prototype.js のことが気になってぐぐる先生に問い合わせてみたら、prototype.js v1.4.0 の使い方というページを発見。早速流し読みしてみた。
確かに便利なライブラリだ。個人的には双方向循環連結リストを実装してほしいものだが、それは自前でやることにする。
ひとつ気になった点がある。ソースそのものではなくて、そのライセンスについてだ。prototype.js 1.4.0 には次のような記述しかない。
* Prototype is freely distributable under the terms of an MIT-style license.
prototype.js 1.4.0
Prototype は MIT スタイルライセンスの定める条件の下において自由に配布することができる。
つまり、prototype.js 1.4.0 は「MIT スタイルのライセンス」を使っているということになる。では、ここで「MIT スタイルのライセンス」とは一体何のことなのか。FSF GNU プロジェクトの解説によると、「X11 のライセンス」が「MIT ライセンス」と呼ばれることがあるそうだ。MIT は今までこれ以外にも様々なソフトウェア向けライセンスを使って
きたので、こういった用語を使うと誤解を招く恐れがあ
るとのこと。prototype.js 1.4.0 のライセンスに関しては、もう少し明確な定義づけが必要になるのかもしれない。RMS の苦い経験は、知っておいても損はないだろう。GNU GPL 登場前夜という記事も参考になる。
ソフトウェアにライセンスを付与することは、そのソフトウェアを守ることに繋がる。明確に「自由ソフトウェア」であることを望むのであれば、パブリックドメインにするか、ライセンスをつけなければならない。自由ソフトウェアとは、FSF の定義する「フリーソフトウェア」のことである。
法律というのは自然言語という性質の悪い曖昧な部分が多すぎる言語で書かれたアルゴリズムであり、データ構造だが、うまく使ってやればある程度意図した出力を得ることができる。GNU GPL 2 もそのひとつといえる。法律なんて面倒だ云々というのであれば、逆にその恩恵を受けることはできない。Perl を知らずして拡張正規表現の恩恵を受けられないのと同じである(無論、他の言語でもいい)。会社に入る前書かされた誓約書にある、ソフトウェア著作権に関する項目を理解できるか否かも、そうした「知識」の有無に関わってくる重大な問題だ。日本国著作権法第十五条に絡んだその誓約書に、私は「食うために仕方なく」印を押した。
……最近何だか体がだるい。疲れてるなぁ。
参考までに、日本国著作権法第十五条を引用する。
第十五条 法人その他使用者(以下この条において「法人等」という。)の発意に基づきその法人等の業務に従事する者が職務上作成する著作物(プログラムの著作物を除く。)で、その法人等が自己の著作の名義の下に公表するものの著作者は、その作成の時における契約、勤務規則その他に別段の定めがない限り、その法人等とする。
2 法人等の発意に基づきその法人等の業務に従事する者が職務上作成するプログラムの著作物の著作者は、その作成の時における契約、勤務規則その他に別段の定めがない限り、その法人等とする。
追記。イロイロ書いたが、アーカイブ版の方を覗いたら LICENSE
というファイルがあった。……早とちりしたことを深くお詫びします。
しかし私はセキュアなソフトウェアというものに興味がある。「セキュアプログラミング――失敗から学ぶ設計・実装・運用・管理」(Mark G. Graff / Kenneth R. van Wyk オライリー・ジャパン)を読んでつくづくそう感じた。
「セキュアプログラミング」には、具体的な例があまり載せられていない。せいぜい C のコードが2ページ程である。だが、その他を占める文章が提示する「考え方」が、確かに的を得ていることもまた事実だ。第一、前提条件として具体的なソース例を挙げないと明記されている。しかしプログラマであることを自覚している人間なら、少なくとも一読はしておく価値がある。私が学生時代に触れていた「形式手法」についても軽く触れられている(が、それだけだ)。とはいえ、どちらかといえば、いわゆる SE やプロジェクトリーダのような人間をターゲットとしている感がある。原著を読んでいないので何ともいえないが、説教臭い面が多々あるのは仕方ないのかもしれない。
バッファオーバーフローは、最も単純で、最も根が深く、そして最も厄介なセキュリティホールであることは周知の事実である。当然それは、バッファ長を一切管理しない言語ならどれでも発生する可能性がある。無論、きちんとガベージコレクトを行う言語でも、インタプリタやコンパイラのバグによる可能性を捨てきることはできない。しかし、C や C++ に代表される、全ての責任をプログラマが負う言語がよく使われているのが現実である。
C は確かにパワフルだ。高級言語に対して、低級言語と言われることがあるだけはある。それは、アセンブリ言語を触ったことがあるのなら、おのずと体でわかるはずだ。ああ、似ているな、と。いちいちレジスタに値を代入して add して云々というわずらわしさを開放してくれるが、メモリ空間へのアクセスがかなり直感的に行える上、ポインタという概念を使いこなせてしまえば、計算可能性という側面から計算不可能であることが証明されている問題以外は形はどうあれ書けてしまうのだから始末が悪い。
だが、人間がありとあらゆる機械の面倒を見なければならないのは、はっきり言って面倒だ。そんな場合は、資源と手間のトレードオフが始まる。あるファイルから全ての文字列を行ごとに配列へ格納する処理など、Perl だったら三行で書ける。
open my $in, "<", "test.txt" or die "can't open file '$in': $!"; my @lines = <$in>; close $in or die "can't close file '$in': $!";
C の場合は……次回へ続く。
バックアップアーカイブがあるディレクトリを整理していたら、当サイトの初期データを発見した。折角なので公開してみたいと思う。今にしてみれば稚拙で無用に煩雑なマークアップとデザインではあるが、そのコンセプトは一貫して変わっていない。因みに文書の一部に色々な意味で公開できない文面が存在していたため削除してある。ファイルの更新日時が新しくなってしまっているのはそのため。ご容赦を。
まだ学内イントラネットにしか存在しなかったあの頃。CSS を知り、標準準拠という概念を知って間もなかった頃。私は、とあるサイトを製作し続けていた。当サイト EOF は、当初前述の「とあるサイト」から派生した、サブサイトとして生を受けた。CSS は、製作中であった「とあるサイト」のものを流用しただけだった。そんなサブでしかなかった存在が、いつしか一人歩きするようになり、学内イントラネットに公開され、そしてついにより広いフィールドにデビューした。
命名にはそれほど悩まなかった。親元サイトの末尾にくっついて歩く、しかしそれがなければ成り行かない存在。故に、ファイル終端、EOF。
当初から文章を列挙していく形式を想定していた。が、まだメニューと呼ばれるものもなく、section という class 属性名すら持たない div 要素が存在しているだけだった。CSS も細かくモジュール化されてはいるが、無用な分け方だ。今の状態になるのに、このあとおよそ2年ほどの月日を要する。
変わっているものもあれば、変わっていないものもある。メインアクセントカラーがそれだ。今でこそ #339900
であるが、当時は #336600
だった。文字には使用していなかったので、少し暗めの設定にしたのだろう。同時に、その当時使っていたエディタ(TeraPad)の EOF 表示が緑色だったことに影響を受けてもいる。それに、私自身、緑色が好きだった。保存されている全てのデータを見ている時間はないが、かいつまんで眺めてみても、その流れは一貫している。 #336600
ないし #339900
は、EOF というサイトのアイデンティティでもあるのだ。
思い起こせば、HTML に触れてから足掛け6年目に突入している。その間には様々なことがあった。またその流れを書いてもいいやもしれない。テーブルレイアウトに frame 要素をがしがし使っていたはるか昔は、汚点であるとともに忘れてはならない戒めの記憶でもある。
それがあるからこそ、今もなおこうしてキーボードと向かい合っていられるのだと、そう思う。
#copyright の a 要素に title 属性を付け加えたり、mailto であることがわかるようにアイコンを加えた。裏側ではメディアタイプに関するちょっとした修正を加えてある。IE6 が @import のメディアタイプ指定をサポートしていないので、いちいち各ファイルのスタイル指定を @media ブロックに入れていたのだが、気が変わって綺麗さっぱりやめることに。どうせ通常スタイルと IE 専用スタイルにわけてあるのだから、通常スタイルの方で IE にゴマを擂ることもないじゃないかという発想。IE には IE のやり方をさせればいい。ただし、他に影響が出ない範囲で。
蛇足。明日のリリカルマジカルは諦めることにした。どうせ7日に秋葉原へ出向く予定なので、そこでチェック済みのところだけ新刊があれば買えばいい。よく考えれば、明日はハルヒのオンリーも被っている。両方チェックしている人には苦渋の選択なのだろうか。とりあえず私は夏コミまで待つが。アニメがあのオチで完結するまでは、下手に動かないほうが得策だろう。