ようやく昨日買ってきて、現在進行中。予約で早々に入手していた友人曰く、「今までとは違う。やってみりゃわかるよ」とのことだったので、何のことやらと思っていたら、見事にその通りだった。一筋縄ではいかないというか、最後までよくやってくれるというか。
ネタばれというわけでもないのであえて何も警告しないが、「ひぐらしのなく頃に 祭囃編」はプロローグ(?)が終了すると「かけら紡ぎ」という作業に入る。それは、全部で50ある新規情報ばかりの「解」断片を適切な順番で紡ぐことができたならば、その暁には「理想とする未来」が待っている、ただし失敗すれば何らかの「理想ではない未来」が待っているというルールが課せられた「ゲーム」だ。
ゲームであることを最大限に追及するなら、確かにこの演出はかなり妥当であるといえる。ただ提示するだけでは何にもならない。かけら(断片)の存在を自覚した上で、それをどうするべきかをプレイヤーの手に委ねる。理想はひとつだが、そこに辿り着くには意図を理解しなければならない。
そこには、断片を断片としてのみ消費するプレイヤーの存在を「それでもいいよ」と肯定した上で、「だがそれでは何も生まない」と突き放す冷淡さが秘められている。その断片にしても、明示されている50個だけでは理解もままならない。それまでの「ひぐらしのなく頃に」で言及されてきた情報を取捨選択した上で、初めて50の断片と向き合うことができる。故に、それまでの情報を反芻する必要に迫られる。こう考えれば、50というのは見かけの数でしかなく、更にその裏にはデータベースとそのレコード(SQL におけるデータの単位)が控えているといってよい。50の断片はそれらを総括するための、いわば glue(糊)レコードであり、それ以上でもそれ以下でもない。
つまるところ、竜騎士07は「与えるものはすべて与えた、あとは自分でクリエイトしろ」と言っているのだ。言い換えれば、「ひぐらしのなく頃に」という作品(情報)を通じて最終的な到達地点を「理想とする未来」とし、それを実現する為のお膳立てだけを整えた、ということになる。無論、最終的な理想そのものもまた意図されていることに変わりはないが、そこに辿り着くためにはゲームという名の創造行為を経なければならない。既に「解」シリーズ「目明し編」「罪滅し編」「皆殺し編」ではいくつかの筋道が行き着く先を提示した。if の世界をいくつか公開することで、それは理想には行き着かないんだよとプレイヤーに念を押し、ではプレイヤーはどうすればよいかについてヒントのみ提示する。それは見事に成功し、「目明し編」「罪滅し編」「皆殺し編」は完全ではない「解」としてただ情報伝達の機能のみ発揮している。
乱暴に括ってしまうなら、これまでに発表された「ひぐらしのなく頃に」という作品の目的は、読者(プレイヤー)の脳というデータベースへ INSERT INTO
(レコード挿入) や UPDATE ... SET
(レコード更新)、DELETE FROM
(レコード削除) を行っているに過ぎないと言ってしまえる。更には、合間に挟まれる「部活」という名の掛け合い漫才によって脳のコリをほぐそうとまでしている。「掛け合い漫才」自体も現在では既にデータベースのいちレコードでしかないことを考えれば、それも当然初期状態では登録される。そんな「掛け合い漫才」は、それが存在する日常をずっと続けていきたいという欲望を喚起させることを目的とする。当然データベースに登録されるが、それ以上の価値をも持つ。竜騎士07はこうしたモデルにかなり自覚的であった可能性がある。
もしかしたら続くかも。
Mozilla Firefox の 3.0、コードネーム Minefield の Trunk (2005-08-25) を使ってみる。いわゆるナイトリービルド。
前よりレンダリングはよくなっていると思う。当サイトのドロップキャップ文字もきちんと表示してたし。ただ、スクロールにまだちらつき(残像?)がある。動的な処理が苦手なのだろうか(cairo の影響?)。CPU 時間も結構とられるようなので、2.0 Beta 1 と比較して常用は諦める。まあ、まだ 2.0 もベータ段階なのだから、気が早いといえばそうなるのだろう。ただ、まだアルファにすら至っていない状態であの品質に至れることは凄い。思えばまだ Phoenix と呼ばれていた 0.5 の時代。そこから私は常用しはじめたのだが、当時はリリース版よりナイトリービルドの方が安定していて常用に耐えた――そういう時期だった。
そもそも Nightly を常用しようとするなって? それは言わないお約束。
Nature Made のマルチビタミンとアミノ酸、それにエビオス錠。以前はアミノ酸の代わりにポポンSだったが、親父に「アミノ酸、効果出るよ」と勧められてチェンジしてみる。結果はそこそこ。具体的には、午前中のだるさが少しだけ軽くなった。私はどうも午前中という時間帯に弱いらしい。やる気が全然でない。朝飯を食べるのは当然として、それでもそこはかとないだるさが体内にある。単なるプラシーボ(偽薬)効果なのかもしれないが。カフェイン錠剤(エスタロンモカ)の摂取は当然というか必然。
最近食物繊維が足りていない気がする。……明日はサラダでも喰うか。
以下、TSUTAYA で借りてまだ観ていないもののリスト。
そして今日届いたもの。
……今日明日と週末で全部観る。あと「ひぐらし」の TV 録画も結構たまっているから、それもとなると時間がない。むぅ。
つまりは通勤時に携帯電話が元々持ってる FM ラジオ機能を使ってニュースやら何やらを聴きつつ、昼休みには100均で買った椅子寝用の首にまとわりつかせるタイプのクッションを使いそこそこ快適な昼寝ライフを満喫していると。
携帯電話についてる FM ラジオも、流れている楽曲なんかは割とどうでもよくて、ただ音を流して騒音に上塗りしている感覚。DJ のお喋りを聴いて暇を潰してもいい。通勤途中にうたた寝しても、そこそこ大きめの音量でラジオを流し続ければ少しの間だけ完全睡眠を妨害できる。以前、熟睡して乗り過ごした経験があるため、これは非常に重要なことだ。
昨日書いた便利グッズというのが、昼休みに使っている首巻き(?)タイプの枕。浮き輪のように空気を入れて使う。タオル地コーティングがされているので肌触りも悪くない。オフィスチェアが少しばかりリクライニングできるタイプなので、それを限界まで倒して昼寝。これがまた結構仕事の効率アップに繋がる。ストン、と熟睡に持っていかれると少々厄介だが、浅めの眠りを保持できていれば、寝ないよりはマシだ。
100均グッズの話が出たので、少し広げてみる。結構使えるものが置いてあって重宝している。例えばコミケに行った時持っていった折り畳み式三脚椅子(始発電車組にとってなくてはならない代物)やクッション、バッグに入れて使ったプラスチック製書類ケースなども100均のものだ。特に書類ケースに代表されるプラスチック製品は、ごみ箱やペンケースといったものもあるからそれなりに有用。小物になるほどコストの面から強度も出てくるので、大物より小物を買った方が得。5年ほど前(寮生時代)に買った磁石つきの小物かご(?)も現役で、冷蔵庫の側面にへばりついて簡易ペン立てとして機能している。フックと磁石製品もよく買う。あと、飲料の面でも近所の100均にはマウンテンデューの「瓶入り」が置いてあって、これもまたよく買っている。あと台所用使い捨てクリーナとか。
あと、今日は「ぱにらじだっしゅ! DJCD 第3巻」が届いた。「Let's ぱにライフ!」をマジでやるとは思っていなかったので、正式に収録されると聞いたときは正直驚いたものだった。聴いてみると……良くも悪くもぱにらじクオリティ。何ていうか、ゲーム云々以前に、それをプレイしている人々がダメなのかもしれない。
ぱにらじ本放送が、実は本来24回で終了するはずが、8回延長されて32回になったんだよという話もあった。第33回(HR という位置づけ)の8月21日本放送は、一応締めくくろうとはしているのだが、どうにもあのぱにらじ特有ともいうべきグダグダ感がにじみ出ていて、短いながらとても面白かった。
明日も仕事早めに終わらせて、とっとと帰ろう。幸いまだ忙しい状況にない。今週はこんなまったり時間で終わってくれるといいな。だがそういう時に限って予想外の割り込み作業が入ってくるわけで……。ううむ。
いやー奥さん。:before や :after 擬似要素を使った、負値の text-indent による背景画像実装ではない、リキッドデザインで文字部はありのままのテキストを使いるそれを実装中なわけですよ。……ものすごく面倒だということに今更気づいたが。
画像を作成するのも、それを実装するのも結構手間がかかる作業。ちまちまと時間を見つけてやっている。
目下、content に img を指定する手法まで動員して何とかしようと画策中。まだ表には出せない完成度。ちくしょういつになったら。
最近、睡眠三時間でもいいんじゃないか? と非常に不健康な思考パターンをとるようになってきた私の脳。実際に睡眠三時間ぐらい。でも通勤時と昼休みは必ずうとうとしてる。……ああそうだ。便利グッズを見つけたんだった。その話はまた今度。
ARTIFACT@ハテナ系経由で、LO という雑誌を知る。所謂成年向けロリ漫画雑誌なのだが、この表紙のデザインは純粋に感心したというか、センスがあると思った。DTP に関しては素人の私だが、バックナンバーの表紙を眺めても、一貫したデザイン方針、シンプルながら密度のある、絵を全く殺していないスタイルに脱帽(Web サイトは駄目だが)。
最近、自分のやりたいことと仕事が全く一致していないことにやり場のない感覚を覚える。……諦めたくないなぁ。もっとよく考えてみるか。
色々買いすぎて財布の中身が。
「ライトノベルを書く!」は、対談がなかなか面白そうだったので購入。神山健二に冲方丁、東浩紀、大槻ケンヂ、劇団ひとり、佐藤大、イシイジロウなどなど。大槻ケンヂに関しては、寮生時代に友人の居室で「新興宗教オモイデ教」を読んだことがあったため名前を知っていた。「美少女ゲームの臨界点」で高橋龍也が「オモイデ教」から発想を膨らませた結果「雫」のシナリオが完成したという事実を知ったことも記憶に新しい(「ライトノベルを書く!」P203 脚注4にも記載がある)。純粋に読み物として面白い一冊になっていると思う。
明日から仕事か……。くそ。憂鬱だ。
ローカルにある自サイトのファイルには適用せず、http(s) 経由で取得したファイルのみ強制的に自分の好みのフォントに変えるにはどーすればいいかをちょっと工数かけて考えて、ユーザスタイルシートとして実装してみた。以下コード。@-moz-document
使っているので Gecko 1.8.0 以上必須。
@-moz-document url-prefix("http") { * { font-family : sans-serif !important; } pre, samp, input[type="text"], input[type="password"], input[type="file"], input > *, textarea, textarea > * { font-family : monospace !important; } code, var, kbd { font-family : "Courier New", "Courier", monospace !important; } }
明らかにモニタ上では視認しにくい serif 体フォントを使っているサイトや、以前の当サイトのように強制的に MS Gothic を適用するサイトなどに有効だったりする[1]。Windows 環境では現在のところ Serif に IPA P明朝(ビットマップフォント除去)、Sans-serif にメイリオ、Monospace に M+1M+IPAG という構成。だがどうにも M+1M+IPAG がメイリオほど綺麗には表示されないのが悩みどころ。
やはり Linux に全面移行すべきか……。
今日は近所のデニーズでコーヒーばかり頼みながら、波状言論の「美少女ゲームの臨界点」(以後「臨界点」)を読んでいた。そもそも私は本数的にはあまりやっていないため、掲載されたゲームのうちでやったことのあるものは少ない。故に下地となるデータが自分の中にあまりなく、中途半端な前提条件を背負ったまま読み進んだわけだが、それでも得るところはあった。再認識と了解という形で。
まず再認識したのは、美少女ゲームは確かに多種多様な桃源郷の実現に成功したこと、そして動脈硬化を起こしたことだ。元々欲望の充足手段としてその存在が在った美少女ゲームは、いつしかその比重が肉体面ではなく精神面が重視されるように錯覚されることとなった。「臨界点」では『雫』を取り上げてボーダーラインを引き、主に「『雫』以後」の文脈で話を進行させている。その流れでよく取り上げられている『White Album』は、本当の意味で精神面の重要視が行われてしまい、結果として大きな反発を招いたのではないかと推論できる。
そして了解したのは、時代の経過に従って、欲望の方向性がポストモダンという時代ではなく、プレモダンという時代へ回帰したという認識が存在するという点だ。主な比較対象が『Fate/stay night』(?)であり、私はプレイしたことがないため何ともいえない。同じ TYPE-MOON が渡辺製作所と共同で開発した格闘ゲーム「Melty Blood」シリーズが一切触れられていない点が少々気になった。
情報量が多いため咀嚼の時間が必要だと考える。とりあえず今日はこのぐらいで。
以下はこれまでの話とは別に、今日の購入リスト。
まだ「ゲド戦記」は観ていない。どうも観る気がしないのだ。ル=グウィンの作品も全く読んだことがないわけだし……。今度買ってみよう。
追記。誤字修正。「Fate Stay Night」→「Fate/stay night」、「渡邉」→「渡辺」。
率直に言って、あまりにも一般的(とはいうもののかなり理想化されてはいる)高校生活の描写に全く感情移入することができなかった。アニメーションとしての出来はよかったし、使い古されご都合主義だが物語に芯を与えることには成功しているタイムパラドクスも、あまり疑似科学論に至るほど露出していない(つまり理論の振りかざしが最小限)バランスの良さがあった(これ以上はネタバレ)。あまりにも甘酸っぱい物語とその幕引きに悶々とした後に映画館を出た後の余韻は少し晴れやかでもあった。
普通の、という曖昧模糊とした尺度を用いるのは口惜しいが、そうとしか表現しようがない描写が多々ある作中世界、主人公、取り巻きのどれもが、観客に感情移入を要請してくる構成は見事だとは思う。しかしそれは、あくまでもおいでおいでと手招きしている程度のものでしかなく、半ば強制的に、何が何でもシンクロさせようとはしていないし、そうなってもいない。だからこそ位相が微妙に異なった人間とは直行するしかなくなる。私が感じた違和感は、そこにあった。
確かに「人間」(つまり恋愛模様)を描写している部分は、自分自身が人間社会という情報構造の中で年月を重ね、教育を受けてきたという共通のバックボーンから連想が表面化し、結果的に感情移入へと繋がる。日本という国家、エリアから一歩も外に出たこともなければ、外からきたわけでもなく、人間という名の生物が生存する区域にずっと居続けた私のような存在なら、全く問題なく共通の認識に接続することができるというだけの話である。
だがもっと限定された領域に関してはどうだろう。確かに商店街や川沿いの堤防といったものは、それが存在しない区域に住む人間には共通でない。だが似たような景色はどこかに転がっているし、自分から見に行くことも容易だ。究極的には、別段写真を見て知った気になれば、月面で生活していようと問題ないのである。
しかし、「学校」だけは全く別のパラダイムが働いてしまう。そこには「所属」する以外に体験の方法がない。つまり所属しなければ想像するしかない。日本国社会が提供する人生のうちで確実に通ることになる道ではあるが、それも中学校までだ。高校からは確実に分岐が始まる。多数の人間がほぼ同一の選択肢を選ぶことになるのだが、無論そうではない人間も存在する。例えば就職する人間もいるだろう。海外に行くという道もある。だが先程「多数」と形容した数の人間は、高校進学を選択する。
私はどうなのか? 私はある意味で高校進学を選択した人間である。だが、厳密には高校ではない。私が進学したのは「高専」だった。
高専は高校と大学を足して3で割った挙句に個性というモルタルを上塗りしたような中途半端さを特徴とする学校形態であるといえる。立地そのものが外界と隔絶している場合も多く、国立一期校はまだマシな方だが、それでも陸の孤島と化している場合が多い。学科にもよるが、男女比率は無茶苦茶な場合が殆どだ。男女比 1:1 という学科は周囲から羨望の眼差しが送られる。かと思えば、「男の園」としか形容しようのない男だけの学科もある。それは単に人が来ないだけであって、募集制限をしているということはない。故に身近な色恋沙汰はそれこそ発生しないし、もし沸き起こったとしたら大事件に発展する。モテ非モテの境界線が嫌でも目に付くようだが、既に諦めモードの男性非モテ陣営にとって、それは見えないものである上に、そもそも意識していることすら馬鹿馬鹿しいと考えるのが殆どである。
そんなサッパリとした環境に籍を置き、読書とプログラミングと Web サイトのデザインに没頭したような五年間を送った私は、まだ部活動をやっていた経験から青春という言葉に反応はできるものの、それこそ「時をかける少女」にある学校生活というものとは無縁といってよく、したがって微妙なニュアンスがあったとしても伝わらない。これが冒頭で高校生活の描写に感情移入することができない
と述べた理由である。記憶がない空間の話をされても情報としての価値しかない。そこに意味の付与は発生しない。そう。まるでスキーマがない、単なる整形式の XML 文書のように。
もっと根源的な視点で見ると、それは「スキーマがあるかないか」という議論に帰着する。スキーマは構造化された概念群につけられた抽象的名称である。これは一般的な知識と関係する。つまり、人間で言えば脳内の記憶領域に既知のものとして存在する情報を用いて現在進行している状況を判断するために用いられる基礎的なバックグラウンドということができる。私にはそれがない、という話だ。XML におけるスキーマも大元はこの理論である。
「時をかける少女」自体はそれなりに無難な構成でまとめられ、随所にジブリ作品への意趣返しともとれる表現[1]が織り込まれた批評的価値を少しだけ含む、良作と呼ぶにふさわしい作品だと論ずることはできる。惜しむらくは後半近辺のご都合主義展開だ。前述のようにバランスこそとれていたものの、それでもこの部分はもう少しどうにかならなかったものかと思わせる。それも意図したというなら、青臭さの演出[2]に成功しているととれなくもない。結果として作品そのものの完成度は少し下がっているようにも思える。
まあ、観に行って損はしないだろう。なるべく午前中に行かないと、えらく混むことになるが。
今思い出したので追記。そういえば序盤の方で、女の子の一人が飲んでいた飲料が Dr Pepper だった。……原画師の方だろうか。同士発見?
昨日少しばかり実家に帰って、今日戻ってきたのだけれども、その途中で新宿に寄ってテアトル新宿で「時をかける少女」でも観ていくかと思ったわけだ。
見事に満席御礼、立ち見オンリーと聞いて諦めた。
客層は、どちらかといえば若者のカップルが多かった印象。原作・実写を知っている中高年層もいるかなと思ったが、表では見かけなかった。中にはいたのだろうか。
眼鏡を忘れたこともあって、まあいいやとそのまま帰宅。しかし明日は観に行く予定。どう考えても一般的とは言い難い青春時代(と呼ばれるものすらなかった気がする)を通過した私には、別のものとして映るのかもしれない。何しろ五年間、寮生活を続けた挙句に色恋沙汰のひとつもなく、ひたすらにやりたいことをやっていた。
……それよりも洗濯をしなければ。少しサボるとすぐに溜まってしまう。
コミケでの成果を堪能中。というよりまだ全部読みきれてない。全体的に薄い二次創作系はさくさくと読めるのだが、問題は「奇刊クリルタイ」等の文芸系。文書量が多いから、一日じゃとても無理。さすがに「ギートステイト・ハンドブック」は読み終えたが、「『動物化するポストモダン』のその後」に収録されている東氏の講義を延々と聴いていたらいつの間にかこんな時間(23:00)に。時間が足りねぇ。まだメールマガジン「波状言論」も読めてない。
一日12時間睡眠は素晴らしいな。今日も早めに寝ようかしらん。それとも……。
何だかんだでコミケ3日目。早速行って色々と買ってきた。今回はなのは、ハルヒ、まじぽか、かみちゅ辺りで欲しいのをざっと購入して、あとはマイナー(?)な細々としたものを。そして最終的に「波状言論」で新刊の「ギートステイト・ハンドブック」その他全出品物を購入。少し多めの出費だったが、どうせ将来的には全て揃うことになっただろうから先行投資ということで。中身は対談がメインになっている感じ。まだ全て読んでいないので何ともいえない。
今日は疲れた……のでここまで。
各所で既報だが、「魔法少女リリカルなのは」の TV シリーズ第3期製作が公式に告知された。以前に OVA で出るのではないかという情報もあったが、それが TV シリーズとして正式決定したというものだ。しかもコミケ1日目の企業ブースにて配布されたクリアファイルにでかでかと表記されていたというのだから、本気なのは確かである。今なら「A's」の公式サイト(meta リファラで飛ばされる前)でも告知を見ることができる。デザインはクリアファイルのそれと同じもののようだ。
Moon Phase によると、今回の TV シリーズは八神家にスポットを当てたものになるとのこと。その判断自体はおそらく間違ってはいないだろう。2ch の該当スレ群でも色々と情報が出ているには出ている。私にとっての第一報はそれだった。
「StrikerS」というタイトルには、様々な意味が込められているのは確かだろう。ここから先の事項は、あくまでも私の憶測にすぎないことを予めお断りしておく。
「striker」は様々な意味を持つ。以下列挙する。
「StrikerS」の「S」が、主役級の3人(すなわちなのは、フェイト、はやて)を包括しているのは明らかである。そして、八神家中心のシリーズであるという情報が誤りでなければ、更にヴォルケン騎士団の4人が含まれる。また、先の「striker」が持つ意味の中で「撃鉄」という語に着目すれば、先に挙げた7人は、シャマルを例外としてそのデバイスにベルカ式カードリッジシステムを搭載している。銃をモチーフにしたそれらデバイスと、撃鉄という語は切って離せないものだ。
また、勿論サッカーにおけるストライカーという意味も濃厚だろう。主役級の3人には、その称号を得てもおかしくない実力があるとされる。
……まあ放送されるまで気長に待つとする。それより明日はコミケ3日目。私も参加しなければ。
まあコードを書いて遊ぶということは大事だから。この間読み返して汚いなぁと思ってしまった DOM Tetris を、prototype.js によって読みやすくした上で機能追加してみようかと考えた。prototype.js の Ajax としての側面は、「対戦」を実装する上で必要不可欠になるだろう。でも、今はそれを実装する気がないから 3.0 辺りになるんじゃないかと勝手に思っている。
prototype.js には Ajax のみならず、様々な便利メソッドやオブジェクトが実装されている。二次元配列を操作する関係上、ネストが深くなりがちなループ処理を Array.each
に丸投げするようにしたら、コードの見通しがえらく良くなった。
Object.extend
なども便利。イベントハンドラもある。
今日はこのぐらいで。
昼間より眠気が少ない。部屋も静かで、パソコンの発する音と、キーボードの抑制された軽いそれがミックスされた空間に仕上がっている。目が悪くなることを承知で部屋の明かりを落とし、モニタと一対一で向かい合う。
最近、今日は何をここへ書こうかと「考える」ことが多くなってきた。……以前は考えられなかったことだ。学生時代(といってもついこの間)までは、一回では語り尽くせないほどの何かが、大体毎日起こっていたのだ。そういう意味で、今の生活は非常に危険だといえる。つまり、何もなさすぎるということだ。こういうのも何だが、仕事も覚えることこそ多いが、それは大体が「手順」である。つまり「アルゴリズム」だ。人間対人間のやりとりも多いが、それはそれで別の意味合いを必要とする。
アルゴリズム即ち命令をメモリ空間にロードし、CPU は機械語であるそれを逐次実行していく。人間という存在をコンピュータ(計算者)として用いる。
自分で何かを成すということがあまりない。だからループを実行しているだけとなる。結果として、ネタすなわち情報が「やってくる」ことがない。「生み出される」という言い方に抵抗があるため、あえて「やってくる」とした。
今日のような文章は、ある意味で末期的なのだろうか。それにしても随分と早くそういった状態になったものである。まだ青二才のボンボンなのに。で、それを自分で言ってたら世話ないよ、という思考に至れば、何か break
か last
(goto
もね)のようなものがない限り無限に続く遡及(ループ)のできあがり。駄目だこりゃと項垂れて、割り込みをかけるしかなくなる。kill
するしかなくなる。
コミケの日、もしかしたら雨が降るかもしれない。ここ最近の夏コミはいつも雨だ。たまには、死にそうになるのを覚悟の上で(おえっぷ)、カラリと晴れた日になってほしいものだ。
キーボードは自分が使いやすいと思ったものを使えばいい。件の人は、指向(& 嗜好)が私と一致しなかっただけのこと。私はキーボードにこだわり、相手はこだわらない。
私が所持したキーボードの変遷は、いたって短くてシンプルだ。まず最初に買ったノートパソコンのそれを使っていた(パンタグラフ)。次にそれでは打ちにくいと感じはじめ、安物の JIS キーボードを買った。……それは大外れの代物で、一ヶ月もしないうちにお蔵入りとなった。学校で使っていたキーボードが、富士通の PC98(Vine Linux の入っていた演習室のマシンがそれだった)にくっついてくるそれで、かなり使い込まれているらしく感触こそふにゃふにゃだったが、微妙なカーブと適度に大きなキーの大きさ、押下の深さのバランスがとれた、無難だが使いやすい一品だった。だからこそ初めてデスクトップを自作した時、モニタの中古ショップで見つけた同一の叩き売り品(たしか500円しなかった)を選んだのだ。……あとでそれはあまりにもパソコンラックに対して大きく、邪魔になることが判明した。そんな中 HHK の存在を知った。あとは推して知るべし。
今日は「言壷」を再読した。神林氏が、「言葉」に対する考察(想い?)をぶちまけた作品群だ。それだけに非常に濃密で、だからこそ「碑文」が目に眩しい。通勤時間と昼休みは読書タイムだ。通常のペースで読んでも、「グッドラック 戦闘妖精・雪風」(神林長平 ハヤカワ文庫 SF)や「ヴァリス」(フィリップ・K・ディック 創元 SF 文庫)が二日ほどしかもたない。「異星の客」(ロバート・A・ハインライン 創元 SF 文庫)ですら一週間以内で読めるのではないか。なまじ、講義中ではない時間を使っているだけに(学生時代は毎日のように本を持っていったなぁ)、特に昼休みは本に集中することができる。再読がほとんどなので、ペースも少し早めだ。というより、これだという新刊がなかなか出ない。ディックの新刊、いい加減に出てほしい。イーガンの作品でも蒐集しようか。そういえば、「かめくん」(北野勇作 徳間デュアル文庫)が面白そうだ。「S-F マガジン 2006年4月号」に載っていた『カメリ、テレビに出る』で初めて知った。今度金ができたら買ってみよう。
もう水曜日。そして木曜日、金曜日と続く。……休みが待ち遠しい。
yield
」と「let
式 / 宣言 / 文」イテレータつきのオブジェクトを生成・返却する「キーワード (keyword)」。それが yield
。JavaScript 1.7 の完全な仕様書をちょっと見つけることができなかったため、Mozilla Developer Center の記事を大本にして書いている。だが、見る限りではキーワードと見て間違いないだろう。宣言のように何かを定義するわけでもなく、かといって文であるわけでもない。関数でもない。
JavaScript 1.7 yield の資料としては下記サイトが参考となる。
yield の有用性を疑問視する声もある。
yield
は便利そうなのでまず使ってみるとして、個人的に先の MDC で紹介されていた JavaScript 1.7 の新機能で目を惹いたのが、「let
文(statement)」「let
式(expressions)」「let
宣言(definitions)」だった。宣言だけならまだしも、それこそ Scheme から引っ張ってきた let
式、そして let
文まで揃えられ、何というかもう無茶苦茶。だがそれがいい。
JavaScript においては、var
宣言によって宣言されたオブジェクトであっても、宣言されたスコープの外にまでその持続範囲がある。次例のごとき事態が発生しうる。
var NMAX = 10; for (var i = 0; i < NMAX; i++) { if (i >= NMAX-1) { var i = 1; } // i == 9 となった時 i == 1 となり、無限ループと化す }
プログラミングをしていると、往々にしてそれが厄介な話になるわけだ。何せ、スコープ内部で宣言したにもかかわらず、スコープ外部に影響を及ぼすのだから。var i = 1;
ではなく、var j = 1
ならばその意図は明白だ。現に、先のコードのような書き方はよろしくない。しかし、こう書くことがよい場面だって存在するだろう。
そこで let
宣言が登場する。let
宣言は var
宣言と違い、スコープの垣根を越えることがない。
var NMAX = 10; for (var i = 0; i < NMAX; i++) { if (i >= NMAX-1) { let i = 1; } // i == 9 の後止まるループ }
面白いのは、JavaScript が式 / 文の区別あるプログラミング言語であるからこそ、let
というキーワードが式と文の両側面で用いられている点だ。先に述べた Scheme は、Lisp の仲間であるからして広い意味での関数型言語の一種でありながら、多分に手続き型言語の特徴を取り込んでいる。そのひとつが let
式である(親戚に let*
式がある)。要するに、スコープの概念を Lisp の括弧世界に持ち込んだ。
だが Lisp の世界(広い意味での関数型言語の世界)の唯一絶対の真実は、ラムダ計算である。故に全ての状態は関数で表現される。式 / 文 / 宣言といった分類は存在しない。あるものは皆全て関数である。
それを逆輸入しようというのだから恐れ入る。そうなると、同じようなことを同じようにやらせようとすれば、必然的に式 / 文 / 宣言といった分類に分けざるをえなくなる。だからこそ「let
文」「let
式」「let
宣言」という三つ巴が誕生したのだろう。
それにしても「let
宣言」はまだわかるが、「let
式」「let
文」というアイデアには恐れ入った。let
文は、外側のスコープで宣言済みのオブジェクトに対して一時的に let
の性質を付与するようなものだし、let
式にいたっては、そのスコープが親となるべき大本の式が終了までである。
結局いえることは、let
式 / 文 / 宣言がとても有用な機能であるということ、そして yield
が非常に興味深い代物であるということだ。……もう少しで長期休暇。睡眠不足になるだろうなぁ。
追記。変数宣言が var
でなく my
になっていた。訂正。Perl の言語空間が JavaScript のそれを汚染してる?
これは不幸か幸運か。私の身に起こった出来事は、生々しいまでの実感を伴っていまだその名残を残し続けている。
決めることほど安易で、難しいことはない。そんな一日だったとさ。
まあ、何があったというわけでもないんだが。些細なこと。
渋谷の 01CITY 最上階にある時計屋へ修理に出していた腕時計を受け取りがてら、服とバッグを購入。私服の半袖がボロくなったので、新しいものが欲しかったのだ。バッグは手ごろなのがなかったから。
店員と談話しながらチョイスして、大体服に ¥14000 くらい使った。バッグは意外と安く、¥8000 くらい。
その後家に一度帰り、13日の準備。サークルチェックを全部済ませ、あとは会場内地図をコピーするだけ。今年は回るところが多いから、少々気合を入れないと絶対確保サークルのそれを入手できないかもしれない。
機種は京セラの A5521K。適度に薄くて余分な機能も少なくデザインも悪くない。それでいて使い勝手もそこそこ。私は電話・メール機能が使えればよいタイプのユーザであるから、これでよいのだ。おまけでくっついてくるカメラは……メモ用途に使うぐらいか。あとは適当に何か撮って加工素材にするとか。
しかし……モニタのピクセル数が多くなった上に高密度化しているのは素直に時代を感じる。以前のモデルは同じ京セラ製なのだが、雲泥の差がある。適当に PC 上で Firefox のロゴをいじりまわした画像をでっちあげ、当面の壁紙に設定。PNG ファイルを表示できるので、劣化しないからか余分に綺麗に見える。文字もちゃんとアンチエイリアスがかかっている。小さくなるとビットマップフォントに変化するが。
いい加減可読性が低すぎるMS ゴシックに愛想をつかしたので、とりあえず欧文フォントを Proggy Programming Fonts の "Proggy Square" にしてみる。日本語は一応 BDF UM+ に Windows の Font Link を用いて IPA ゴシックを補完。……うまくいっているかどうかは定かでない。まあいいや。見易くなっただけもうけものだ。
個人的に、シェルとエディタにはビットマップフォントを使いたい。だからあえて M+ と IPAフォントの合成フォントを用いずに、Font Link でどうにかしている。
UA のフォントに関しては、以前と宗旨を変えた。アンチエイリアスのかかったフォントの美しさは、やはり 16px から先に現れるのだろうという気になった。それは前述の M+ と IPA フォントの合成フォントとの出会いがあったし、何よりメイリオとの出会いがあった。そんなわけで、現在の UA デフォルトフォントはメイリオ 16px。
そんなことより XML Basic V2 の勉強しろって? ……そうしよう。
早速 1.5.0.5 と置き換えてみる。データの移行(拡張機能のバージョンごまかし含む)を済ませるだけで設定終了。ひとまず常用メーラに。最近職場で使っている Becky! 2 は結構多機能で便利といえば便利ではあるが、いかんせん中身が見えない。つまりソースがクローズ。しかもシェアウェア。個人ではとても使う気になれない。それでいて痒いところに手が届かないことがある。……それを言ったら Thunderbird は届かないことだらけ。しかし拡張機能で増やせるだけまだマシか。Hotmail を扱えるようになる拡張は重宝している。あと貧弱な署名機能を少しマシにするそれも。
それほど使い勝手が変わっていることはない。動作もさすがにアルファリリースだけあって安定している(Nightly は最近使っていない)。もっともっと進化してほしいな、と思う。
ただ最近 Sylpheed もいいかなと考えるようになった。無理して Thunderbird を使う理由はどこにもない。より素晴らしいソフトを使うのは自然なことだ。私にもたらす利益が多いほうを、当然選択する。まだ Sylpheed をあまり使っていないのでチェンジするかどうかはわからない。
今日の飲み会は ¥4000 かかった。尤も、あまり呑まずに食べてばかりいたが。
仕事のバグ修正はもう少しで完成。念入りに境界条件のチェックをやって、上司の許可を貰いチェックインしたい。やらなければならないことは山ほどある。
というより、それが所謂「日常」というやつなのだろう。こうして文章をだらだらと書いていることも、完全にライフワークと化している。何も特別なことではない。裏を返せば、特別という概念そのものが曖昧模糊としたものであり、ちょっとした土台の変化でたちまち変容してしまう脆いものだということだ。
更に一段階考えを進めれば、そんな脆弱な状態を維持し続けられるだけに日本という社会構造はある意味で安定しているのだともいえる。「終わりなき日常」という言葉も既に何ら特別な言質を含んだものではなくなった。私にあるのは少しの知識とささやかな欲望、それに気づかざるをえない絶望である。勿論、それほど悲観するようなものでもない。
明日も飲み会がある。……つくづく憂鬱な気分にさせられる。また金がぶっ飛んで夏コミ軍資金が無くなるという虚しさ。いくらボーナスが出たとはいえ、まったくもって割にあわない。人間関係の重要性か。畜生。