結局30日にズレ込んだ罠。明日はいよいよアレですよ。コミケ3日目ですよ。いそいそと好きな作家さんの作品を求めに行ってきます。
去年まで島だった人が、今回壁になっちゃったりして、どうしようと頭を悩ませているところ。okama さんのことだけど。まああの人新年新番のアニメで、ふたつもキャラクタデザインしてるからなぁ……。「ひまわりっ!!」は無視しようかとも思うが、とりあえず初回だけ観とく。「月面兎兵器 ミーナ」もとりあえず観とく。
しかし GONZO は大丈夫なのか。風の噂では予算繰りが激しくヤバいときくし、……そう、何よりショックだったのは、「マルドゥック・スクランブル」が製作中止になっちゃったこと。勘弁してくれ。何はともあれ観てみたかったのに。キャラクタデザインに村田蓮爾氏・熊膳貴志氏を起用した影響で、何というかバロットがとてもぷにぷにしたという印象が強かった。一部には寺田克也氏の絵じゃないと駄目だという人間もいるみたいだったが、それはそれで。
昨日はカタログチェックをした。例の如くGoogle Notebook を使った方法。これだと登録した当初は買いたくても、再度サイトを確認することで一度とどまることができる。つまり新規追加した人の作品が「ちょっと……」なものであったなら、無駄な出費を抑えられるわけだ。そのリストはそのまま、次回のチェック用に流用できちゃうわけだし。
xyzzy のフォント表示を gdi++ (FreeType) + Consolas + VL ゴシックにしてみた。outline-tree の表示は Osaka-UI。とりあえずいい感じなのでしばらくこれでいってみる。
といったところで今年の Blog はこれまで。また来年まで、ご機嫌よう。そして、よいお年を。
月日の経つのは早いもので……。もう2006年も終わりだと思うと、やりきれなくなる。しかも休みをつかってゆっくりしてもいられない。31はコミケだし、そのあとで実家に帰省、2日に同窓会が待っている。休みは4日まで。仕事は5日から。……私にどうしろと?
久しぶりに髪を切った。休日はほとんど家でぶっ倒れてた身分なので、ここ数ヶ月床屋に行った記憶がない。随分短くなった髪を見て、それからつむじを見て、微妙に憂鬱になりながらもええいどうせ死滅したら剃っちまえと腹を決めている今日この頃であります。
そういえば、ついに「げんしけん」が最終巻(9)。学生時代は部活こそ弓道部で、しかし女っ気が全くない学生寮では消灯後に仲間と時には朝まで語り明かした日々を思い出させる(といってもつい一年前の話)。自分がオタクと呼ばれる部類に属するかどうかといえば、多分恐らく――いや確実に肯定である。しかし班目に代表される「ありがち」なそれには及んでいないのかもしれない。格闘ゲームには全く興味がないし、エロゲも最近は全然手を出していない。強いて言うならアニメはよく観るし、マンガも買っているのだが、いつも視点がいちファンのそれにはなりきれずにいるような気がする。いや、純粋に楽しむことはできるのだが、その後でグダグタと色々考えるのが常、といったところか。勿論班目その他のげんしけんメンバがより抽象化された属性を付与されたものである特性上、確かに私が彼らとは完全に相容れないのも道理なのだが。だってそうでしょ。あっちはマンガの世界の住人なんだし。
前述の「語り」の光景を思い返せば、確かにオーバーラップする趣味を持ってはいたものの、しかしそれはある程度限られた領域であることにかわりはなかった。従って会話の内容には自分の知らないこと、知っていても興味がないことも少なからず含まれていた。だが、不思議とそういう話であっても聴いていて飽きがくるということがない。それは恐らく、その語り部自らが好んでいるという事実そのものを、嫌味抜きでうまく伝えられていたからなのだろう。そういう意味では、5年間という間、「話」のスキルを知らず知らずの内に磨き続けてきた連中である。当たり前だが、確かに個々人の特性に伴う誤差はあるものの、総じて皆語り上手であり聞き上手になったのだ。例えそれが友人に対する対人関係にのみ特化しているものだとしても、幸運なことに、他人に「話」をすることができる人物ばかりの寄り合いだったのだ。一方的に何かを話すことも多々あったが、それでもその話をちゃんと聞き、何か喰いつけるものがないかどうかを探し出せるし、そうすることで会話はどんどん先にすすんでいく。途中で「っていうか何の話をしてたんだっけ?」という疑問が投げかけられるのも完全に「いつものこと」である。「お約束」ともいう。
「げんしけん」のような世界とはかけ離れた状態で展開されていた、私の「染まった」時代。対比してみれば確かに面白いものであった。「げんしけん」がマトモなプロットを突き進んでいるように見えるのは、ひとえに「多様性」がきちんと守られているからである。斑目の特性がオタク的と呼ばれる方面ではなく、むしろ咲に対する感情的なものをして始めて現出するように、個々人のあり方・方向性というものがきわめて安定した状態で保持されている。表立ってあれこれしているキャラクタたちはかなりその傾向が強い。笹原は批評を、荻上は内的葛藤を、大野は裏方を、そして咲は本質を。それぞれがそれぞれの、どこぞのだれかに言わせれば「起源」のような(それよりはもう少し上位層の)ものをきちんと持っている。それが個性と呼ばれる不安定なコトバで表現されるものを決定している。
所謂「キャラ立ち」しているという点において、高専という環境に巣食う者たちは、確かに何らかの「差異」を暗黙のうちに認め合っている感があった(少なくとも私が見てきた限りでは)。中学時代にはあまり感じたこともなかったが、話にきくところでは、一般的な高校というものは「差異」を認めない風潮があるらしい。そういった中でマイノリティになってしまう存在がオタクと呼ばれるものなのだろうか。他に同調し、器用に差異を埋めてしまうか、不器用であるがゆえにそれができないままでいるのか。普通の高校を出て普通の大学を出て就職した職場の先輩を知っているのだが……ぶっちゃけた話、そんな先輩は非常につまらない。何というか、こう……ポッ、と出ている「何か」が全くないのである。
その「何か」の一つの現出としては、何でもいいから熱く語ることができるか否かという点があるだろう。本当に好きな何かを持っていて、それを好きなだけ自由に語ることができるという現象。
では、そんな「何か」が全くない人間は、何が面白くて日々をすごしているのだろう?
一応注釈を入れておくが、「何か」を持たない人間というのは、自ら普通であることを実践しているわけではない[1]。必ずどこかに異なるものへの羨望のようなものがある。だがそれは満たされない。満たせない。その満たし方を知らないうえに、知ろうともしないからだ。「いつのまにか」それを知っていた者にとっては驚きに値することだ。……「差異」がないこと、というのは確かに副作用を生み出す。その結果がこの有様だ。差異のない世界、つまり刺激もなにもない、ただ平坦でずっとまっすぐのそこには、凄いことも最悪なことも存在しない。ひたすらに同じであるという事実だけが転がっている。
ちと長くなったので一応打ち止め。あー。まだカタログチェックやってないや。借りてきた DVD も観なきゃならんのに。……それから年賀状も。
ただ単に、普段顔を合わせない人間と顔を突き合わせて交流をはかり、その腹の中を臆面もなくまさぐる会合、忘年会。アルコールという薬物で蕩けた脳味噌をいかに巧く制御できるかが焦点になってくる。心の鍵がぶっ壊れた無防備状態を曝せば、即弱みにつけこまれるのがオチだからなぁ……。年を忘れるどころか、逆に思い出させるあたりに哀愁を感じる今日この頃。因みに、来年はひじょーに忙しい年になるとのこと。これ以上? これ以上何をしろと?
飲み屋というのは実に不便な面がある。自分で選べないと、好きな酒がおいてあるかどうかがわからないからだ。そして大概、飲み放題の店というのは安くて不味い酒しか置いてない。安くてもうまい酒なぞそうそうあるものでもなく、ただ頭が痛くなる類のアルコールをちまちまと摂取するしかなくなる。それでもってウン千円もとられるのだから、好きな店でひとりで飲ませてくれといいたい。安上がりだし。
明日で今年の仕事はおしまい。やれやれだ。残りを片付けて、さっさと帰ることにしよう。
知っている人は知っている、フォント「Helvetica」。今でこそ PC 上での表示には他のフォントが使われることが多いものの、その源流ともいうべきデザイン性を作り出したのは紛れもなく Helvetica である。……ぶっちゃけた話、私にはその程度の知識しかない。だが、フォントにどのようなものであれ一定のこだわりがないプログラマは、それだけで私にとって疑問である。考えてみるがいい。あの忌々しいMS ゴシックの「1」と「l」と「|」の差異を! まさにプログラマに「間違えてください」といっているかのようなデザインである。
さて、Helvetica に関する物語が、そのまま「Helvetica」というタイトルで映画となるそうだ。ネタとしては大分前に仕入れた、鮮度としてはかなり落ちている代物なのだが……。公式サイトでは、映画を次のような文面で紹介している。
Helvetica is a feature-length independent film about typography, graphic design and global visual culture.
Helvetica
惜しむらくは、公式サイトがあまりにもお粗末な出来栄えといったところか。せっかく使われている Helvetica も、デザインそのものがインパクトを無くしてしまっている。特にそのタイトル画像は貧弱というしかない。メニューもとってつけたような感じだ。そして何より酷いのが、その中身である。どこかのアマチュアサラリーマンが前世紀の入門書を片手に Notepad で書いたような、DOCTYPE すらない文書。極論かもしれないが、そこには「文字」に対する愛着や、少なくとも大切にしようという意思が全くない。フォントを題材にした映画の公式サイトらしからぬ「やっつけ仕事」である。書体そのものがシンプルで美しいのだから、コードそのものもシンプルで美しいものであってもよいはずだ。かなわぬ望みだろうが。少なくとも、このサイトを製作者たちには、知識の欠如と「意味」の理解不足が深刻なようだ。
ともあれ……もし日本で公開されることがあるならば、観に行ってみることにしよう。退屈はしないだろうから。
デバッガで追っかけてったら、どうやら様々な記憶領域の不整合が絡んでいる気配。よく見るとマジックナンバーで構造体長をベタ書きしていた。……sizeof
じゃ駄目なんですかそうですか。兎にも角にも私の抱えていた案件は全部に見通しがたった。あとはアレのチェックとアレの動向次第。よし。無事に年を越せそうだ。
今年はコミケが3日間。とりあえず31日参加。今回、友人2人と同行予定。といっても入り口から先は分岐するんだけれども。重複するものもあればそうでないものもある趣味を持った3人である。私は企業ブースにさほど興味はないが、うち1人は29に出向くそうだ。んー。個人的に「これはっ!」というものが無いのだからしょうがない。私にとって必要なものは情報であり、さほど形態には頓着しない。要は同質の情報をいかに効率よく獲得できるかどうかである。だから「限定」モノも、それがドラマCDのようなものなら考えはするが、抱き枕やポスターといったものには全くといってよいほど反応しない。無論視覚情報としてのポスターには興味がないわけでもないが、今までに「欲しくてしょうがなく」なるほどになったものは非常に少ない。2点ぐらいだ。
今日は下記の本を読了した。
昨日までには以下。ちょっとマンガを買いすぎて財布の中身が……。
んでもって最後に明日の予定。
さて、明日も仕事仕事。
今敏監督の「パプリカ」を観てきた。何というか、「統制のとれた誇大妄想の清流」だな、と感じた。無秩序であることを内包してしまっては、そもそも物語が成立しなくなる。常人との境界をギリギリ保つやり方が、そのバランス調整なのだろう。意図的に随所で用いられる「繰り返し」が、映画がひとつの流れになるように接着剤の役目を果たしている。
プロットそのものは荒唐無稽なうえに、無理している部分も多い(特に恋愛感情への帰着部分はかなり端折っている感がある)。それを忘れさせてくれるように見える夢の描写も、前半と後半で同じものが延々と用いられている関係上(前述の通りそれが必要不可欠なので如何ともしがたいのだが)微妙な「飽き」を生む。その隙間に「パプリカ」という「スパイス」を注入することで駆動力を得ている。
ディック的な現実/非現実境界が曖昧な世界をよく知っており、免疫ができているのであれば、この映画はかなり先が読みやすい。勿論まったく読めない部分もあるが、それは性質の異なるパターンなので言及はしない。とにかく、「ここは現実か否か?」という問いが最後は無意味になることをきちんと描写しているのに好感触を得た。しかし物語的には無意味に「してしまう」ことほど愕然とさせられるものはない。ともすれば無意味が全てを侵食し、結果として物語そのものが無意味となりかねないからである。
しかし「パプリカ」の根底にあるものは、絶望的なまでに絶対的で、揺るぎない「現実」への信奉である[1]。故にふたつのプロットが同時進行した結果、常に「現実」のそれが勝利を収める。よってエンディングが存在しうる。何故ならその物語には「現実」であるという「意味」が付与されているからだ。こうした意味ではちょっと残念な具合であった。期待していたものとは趣が異なっていたからだ。
しかし面白さは抜群である。所々に挿入された軽妙なウィットが、観客の笑いを自然に誘っていたのには脱帽せざるをえない。映像そのものにも娯楽性が強く、純粋に「何かがぶっ壊れている映画」として観ても成立してしまう懐の深さがある。つまりこの「パプリカ」、テーマ性の割に娯楽作品としてきちんと成立しているのである。勿論何をもって「娯楽」とするかは曖昧であるが、人間の感情をきちんと撫でている面に関して言えば確実である。そういう意味で、観に行って損をする類のものではない。人をあまり選ばない。そこに映画というものの貪欲さを見たような気がした。
追記。「トワイライトプリンセス」。……試練の洞窟、2回目突入しに行ったのだが。色々と強くなってるし。ラストのアレ、4体になってる。その前の2体の時は3体に。これにどうやって勝てと? いや、一応何とかしたけれども。
結論としてわかったことは、大妖精の雫がほとんど使い物にならないということ。ていうかタダでもらえる青い薬みたいな感じ。レアチュチュは例外として。パワーアップがあいつら相手にはほとんど役にたたない。純粋にタイミングと、焦らない努力と、確実に攻撃をヒットさせられる技術――あと運。相手の方が間合いがあるから、4体まとめて来られると1体に攻撃してる隙をつかれて斬撃がくる。しかも軽装化したあとは更にタチが悪い。動きがそこそこ俊敏になるので、さらに隙を突かれやすくなる。1体ごとに装甲を剥ぎ取り、ちまちまとダメージを蓄積させるしか方法がない。
それでいて大妖精にもらえるものが、既に入手可能な大妖精の雫だけってのも……。まさに試練の洞窟。見返りはルピーと技術向上だけか。そのルピーも、仮にあの鎧をつけてしまったら意味がないのだが。青い薬を消費しても、青チュチュ見つけない限り50ルピー吹っ飛ぶわけだし。虚しい。
無限の遡及である。初期のSF への、後年の神学への傾倒はその不安が多分に影響している。SF や神学は膨大な知識量ないしアイデアを必要とする代わりに、それ自体が現実の基盤として作用しうるという特質を持っている。勿論山形氏が指摘したように、
SF のジャンルとしての特性によりかかった彼の作風は、常に一種の安易さを伴う結果となっているし、後年にしても
よりかかる先が DIY のお手製つぎはぎ神学になっただけで、安易さは一向に改まっていない。だが、そもそも現実という足掛かりすら持っていなかったディックが、SF や神学という土台を得ることによって見たものがどういう価値を持っているのか――議論すべきはその点であり、彼が傾倒したことそのものにはないと、私は考えている。
いやもうね。観るもの聴くものてんこ盛り。
冬コミの軍資金はどうするって? ……そんなもの、どうにでもなるわい。
特に「うたわれるものらじお」の「特別版」は必聴。ついに「ラスボス」こと田中敦子氏をゲストに迎えた、力ちゃん有頂天テンション MAX キープ版。まともなトークになっていないこと自体、既にネタと化している稀有な存在だろう。
ちなみに「くじアン」にくっついてきたげんしけん OVA のジャケット。……えっと、鉛筆書きラフの上に色を乗っけただけのようにみえるのは私だけ? 時間なかったのかなぁ。それともネタ? ネタなのか? 内容未見だが、ちょっと心配になってきた。しかしあまりいい評判をきかない TV アニメ版の元請ではなく、「くじびき♥アンバランス」の元請 & 監督が製作しているから、作画はどうあれ中身に問題はなさそう。あとで観よう。
今日は久しぶりに鰻を喰った。ついでに熱燗もいただく。んん。それにしてもいい酒ってのは変に酔わないからいい。どうにも工業用アルコールの臭いが鼻につくような酒を飲むと、すぐ頭が痛くなる。眠くなる。
「トワイライトプリンセス」もあとはゴースト蒐集と釣り、そして一番の難関であるコロコロゲームを残すのみ。つーかあのゲーム、難しすぎるんですが。確かに Wii リモコンの特性を生かしたものではあるが、あの「坂」が出てきた時点から難易度急上昇。あっという間に財布の中身が空っぽ。大体 700 ルピーぐらいが吹っ飛んだ。
そんなこんなで今は金稼ぎも兼ねて諸国放浪中。まずは宝箱の中身を全て制覇することから。最大の財布は既にアゲハからもらってあるので、いっぱいにしてから行こうと思う。足りなくなったら……そうだな、試練の洞窟にでも行くか。あそこは小額ルピーをたくさん拾えるし、実はシルバールピーが埋まってたりもする。時間かかるけど。
明日は「パプリカ」を観に行く予定。面白そうだなぁと思ったので。
やっとだ……。今回はラスボスがちょっと特殊というか、面白い趣向になっていた。まずとにかく戦闘時間が長い。そして戦闘パターンが5つもある。いやもう最後まで気が抜けなかった。ただし、何となくではあるがカタルシスには欠けていた気がする。
そして最後の最後に、もうゼルダを差し置いて圧倒的な存在感(ていうかいつも一緒だった……)とキャラ造形を見せつけてくれたミドナが、とんでもないことに。おったまげたというか、しかし王道というか。でもあの終わり方はもう……日本人向けだなぁと。余韻もなにも、後味がとってもビター。カカオ80%ぐらい。
ゼルダはそもそも存在感そのものが希薄すぎ。「ゼルダの伝説」の名前は完全に張子。……「トワイライトプリンセス」がくっついているせいで、もう存在感は完全に喰われてる。
今回一番不憫だったのはイリアだろう。最初にさらわれた割に、途中で奪還できてしまう上、記憶喪失 + キーパーソンとしての役割を持たされながらも、それ以後一切物語に加担しなくなる中途半端さ。途中参加のうえに「空気姫」と呼ばれても仕方ない登場時間のゼルダのほうが、結局最後は存在感を獲得できている。
そういえば、ハートのかけらは全て蒐集完了し、ライフが20フルになった。そのおかげでラスボス戦も楽できた。奥義も全部習得済み。あとは試練の洞窟(?)も制覇。ていうか試練の洞窟のラスト、あれは反則だろ! 重騎士(?)を3体同時に相手しなきゃならないなんて! 度重なるゲームオーバーで攻略法をマスターできていたからよかったものの、ぶっちゃけ奥義をある程度習得していないと楽できない。まあ「背面斬り」のこと。3体同時のときは奥義使えない(使うとほぼ確実にダメージ喰らう)けれども……。1体の時(但し軽装甲後)は非常に有効。楽勝で勝てるようになる。
でも、まだ金色の虫は全部集まっていないし、空けていない宝箱も多々残っている。それらを全部制覇して、「完全」クリアといえるだろう。釣堀にもいかなきゃな……沈むルアーを手に入れなきゃ。
現在ダンジョン8つめ。順当(というか慣例通り?)ならこれがラストダンジョン。いや……それにしてもマップが広い。とにかく広い。歩き回るだけでひと苦労。ハートのかけらや宝箱全制覇を同時にやらないと、あとから引き返すのが億劫なぐらい。
個人的に今何としてでも制覇すべきだと考えているのは、実はダンジョンではなくて試練の洞窟(仮名称)。大妖精が異様にセクシーというか、異国情緒溢れるというか、こう、エロティックスマァァァァァッシュ! っていうか。……今回、びん詰め妖精がかなり使えないので、出現したところであまり嬉しくないのだが。だってアレだよ? 全回復しないんだよ? 瓶詰めにして発酵させても無駄なんだよ? 泣けてきた。
泣けたというかゾクリときたことはあった。それは「時の神殿」の存在。あの音楽がバックグラウンドに流れたときはもう……。ビックリした。懐かしかった。
さて、ハートのかけらもかなり集まった(残りライフ3)。続き続き。
ソフトだけは発売日に Amazon で Get していたのだが、Wii 本体は手に入らずじまいだった。しかしつい先日、帰りがけに近所のゲームショップを除いてみたらあら不思議。一台だけ残っていたではないか! 勿論即購入。即プレイ開始。それが「ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス」。いやね、Wii でゼル伝出るって聞いた瞬間、もう Wii は絶対買うぞって決めたんだよ。64 で出た「時のオカリナ」と「ムジュラの仮面」に大ハマりした過去があるので。あれは素晴らしい完成度だった……。
で、「トワイライトプリンセス」ですよ。残念なのは、今回64版2作品と異なる点として、リンクが楽器を持たない。草笛か、狼状態での「吼え」のみ。オカリナを3Dスティック+AボタンとCボタンで演奏したあの頃より、そういう意味での自由度は減っている。
しかし、主にダンジョンでの謎解きは「必ず解けるが頭を使う」ものが多く、しっかりと理念と実際を継承してくれているのが嬉しかった。謎解きの快感とはああいうものだ。これぞゼル伝。
今回ちょっと驚きなのは、アイテムの数がかなり多いことだ。詳細はネタバレのため明言を避けるが、軽く15は超える。リモコンの十字キーとBボタンに割り当てるのだが、結構頻繁に-ボタンを押すことになる。だが肝心の-ボタンがかなり押しづらい位置にあるので、ちょっと不便だ。
Wii リモコンでの操作は面白いのだが、必然性をちょっと欠いている感がある。加速度の違いで剣圧が変わったりはしない。ちょっとでも振れば動作する。そのため腕が疲れることはまずない。必要最小限の動き、極端なことを言えば手首の動きだけで対処可能なのである。これはいただけない。せっかく加速度センサを搭載しているのだから、そのへんの動きも作り込んでほしかった。あとヌンチャクの前突き動作が判定シビアすぎ。リモコンの前突きがそれほどではないだけに、もう少し何とかしてもらいたかった。
個人的に一番泣けてきたのが、妖精ナビィの扱いだ。今回ナビィはリンクにすら不可視の存在。完全に蚊帳の外だ。単純にポインタとしての役割だけ果たしている。……しかもZ注目したい対象を任意ポイントすることもできないのだ。せめて任意のポイントは実装してほしかった。複数注目対象をいちいち切り替えるのが面倒なのに。
同コンセプトの64版があまりにも出来が良すぎたために、それを超えなければならない「トワイライトプリンセス」に辛口になるのは可哀想なのかもしれない。だがせめて……せめて「文句なし」にはしてほしかった。
以上愚痴。以下内容についてちょっとコメント。
まあ、何といっても今回は新キャラの「ミドナ」がいい味出している。「時のオカリナ」でいうところの「ナビィ」的な存在なのだが、最初は非常に憎たらしいキャラクターだったのが、時を経るにつれて段々と……そう……「可愛らしく」なってくるのである。実にあざとい。あざといが可愛い。
例えば、あるイベントを境に、リンクに対する態度がほぼ一変する。高飛車で高圧的だった口調が、「対等」にまで変化する。しかも音声まで柔らかくなり、表情や仕草まで変わるという徹底ぶり。こういうところに妥協はないらしい。いわば「間違った認識のツンデレ」状態。今じゃそっちのほうが認識としてはメジャーなのだろうが……。
極めつけは、もしトワイライトの住人に性別というものが存在するなら、ミドナはほぼ確実に女性なのである。ていうか女の子。絶対に狙ってる。八重歯属性まで持ってるし。
狙ってるといえば、まあ……幼馴染にショタキャラ、筋肉脳にマザコンその他諸々が存在するとくれば、実際かなりの広範囲をカバーできているという事実に驚かされるだろう。変人奇人だらけの国ハイラルだが、どれもこれもが憎めない、いい味を出している。
現在まだクリアに至っていないが、もう折り返しを過ぎ後半に突入している。ハートのかけら集めも順調に進行中。たまには釣堀にも行くし、ハイラル湖でぼーっとすることもある。とっても大きな箱庭の中で、自由自在に動き回れる快感が、確かにそこにはある。
さて、もうひと頑張りするとしよう。クリアは目の前だ。
先日の続き。全体的に見て、すごくよくまとまった映画になっていたと思う。個人的には、ラストシーンの名前列挙で泣きそうになった。……きちんとアレを入れるとは。ディックのちょっとしたユーモアが溢れる、彼自身の名前が含まれたそれを列挙するとは。
アクションに頼らない、映像だけで見せている SF 映画。ここしばらく見たことがなかった。「クローン」にしても、いい意味で主人公の特質に合わせた無理ないアクションが使われているが、しかし含まれていることに変わりはない。「ペイチェック」では最低最悪の使われ方をしていたので問題外。「マイノリティ・リポート」もまあお約束という感じ。なので「スキャナー・ダークリー」はすごく新鮮に映った。
はやく DVD 出ないかな……。
日曜日に観て来た。生憎と公開初日である土曜には行けなかったので。恐らく CM か監督の名前に触発された若いのが結構多かった中、そう少なくない数のそこそこ年の行った方々の姿もあった。ディッキスト仲間だろうか。悪い気はしなかった。
映画そのものは、端的に言ってしまえば「一極集中」といったところか。削ってもいいや、と判断されたところはことごとく削られ、ここは魅せるべきだ、と判断された部分はそれこそ執拗なまでに生々しい描写の積み重ねが行われている。自転車の変速機の話がオチなし状態になっていたり(つまり黒人男性から懇々と解説されなかった)、ニュー・パスでの生活はほぼ全てカットだったりしたが、ハイウェイやアークターの家での会話は非常にだらだらと長く、妙なリアリティを感じさせた。これらは100分に収めるためにとられた手段だが、敢えて時間間隔を麻痺させるような「伸び」と「縮み」を繰り返すことで、見ていてそれこそ映像で「戯画だよ」とアピールされている加工された映像と相俟って、妙に落ち着かない状況をつくりだす。
「自分で自分を監視する」という無茶苦茶な状況を、必要最小限のお約束な表現と自然なカットで無理なく見せているのはよかった。
もしこれが長編映画であったなら、逆にだらだらと長くなりすぎてよろしくなかっただろうし、かといって今のままでも短いと感じさせる。ディックの執拗な感情移入を喚起させる文章は、時間というものを全く意識していない。だからだろう。映像化するときにすごく難しくなるのは。「ヴァリス」なんて、もうどうやって映像化すればいいんだよという気になってくる。その点まだ「暗闇のスキャナー」はやりやすいが、しかし神学に傾倒するまさにそのときに書かれたものなので、とても曖昧な境界線の上に立っていることになる。
俳優の演技もよかった。嘘臭さが感じられないだけでもいいのに、最初バリス役は全然イメージが違うと感じていたのに、その上のクオリティを行ってくれた。……救急車を呼ぶシーンには何故か鳥肌がたったものだ。そうなるとわかっていたのに。
基本的に原作に忠実だが、色々と映画用にプロットを単純化している。より入り組んで屈折した関係になってしまうディックの世界を、少しは素人でも料理できるように加工している。個人的には物足りなさが残ったが、あれくらいにしておかないとディッキストでない人間はついてこれないのだろう。
……もう眠くなってきた。寝る。最近睡眠がぁ。続きは明日?
開発に終わりはない。リリースがあるだけだ。
バグをいくつもやっつけて、仕様確認して、ああだこうだして。そんな一日だった。……あれを見るまでは。
私は見た。マジックナンバーの溢れる仕様変更がかかるであろうコードを。
私は見た。同一処理をファイル内十箇所以上にコピペするありえない実装を。
私は見た。五重にネストされた if の奔流を。
私は見た。配列長を const static 変数にストアせず、常に計算させることで値を得るマクロを。
私は見た。unsigned short int ret; someBeautifleFunction(&ret); return ret;
のようなコードを。
もう発狂しそうだった。
今日はどうやらとりわけ腐ったコードとご対面することが義務付けられた日らしい。上記のうち少なくとも二つは、今現在現役でコードを書き続けている同チームの人間によるものだ。最初に書かれたのは去年の今頃のようだった。……それでいて当の本人はC言語をマスターしたと思っているようだ。「Cが理解できているなら C++ も理解可能ですよ」という私の言葉に対し、「なら何も問題ないかな」と返したのだから。
ポインタを理解していることが。
マクロを理解していることが。
Cの理解そのものというわけじゃない。決してない。それは基本だ。応用でもなんでもない。ただの基礎、原則、前提だ。
プログラマは知を智と勘違いすることが多いのだろうと、私は思う。私だってそうした時期があった。自分が何もかもを把握しきっていると勘違いした、哀れで愚かな時代があった。もしかしたら今もまだその状態が続いているのかもしれない。
とりあえずその同僚には「プログラミング作法」の輪講をレジュメ作りからやらせてみたかった。あの経験は確かに生きている。それこそ、実用的すぎて涙がでるぐらい確かなものとして。
愚痴ってもしょうがないか。本当に汚いコードはいちから書き直すのが一番なのはわかる。でも、それが現実的か否かといわれれば、対応が変わってくる。綱渡り用のロープを太くするか、ロープのかわりに鉄橋を架けるかは、プロジェクトリーダが決めることだ。
一番気軽で心休まる瞬間って、自分で自分のためのコードを書くときだけか。それが他人の役に立てばなおよい。
休みに買いに行ったところで、どうせ品切れだろうし……。はやくゼル伝やりたいんだよ。箱庭の快感を再び味わいたいんだよ。畜生。こんなことなら実家から64でも引っ張ってくればよかった。今はどこにあるやら。物置の片隅、といったところか。うう。
「うたわれるものらじお」を聴いたあとに「ネギま!?」を観たら、黒板ネタで「箱根のみなさ~ん」があって緑茶噴いた。
「Black Lagoon」も好評絶好調……というか、やっぱり日本編長いな。どれだけ短くてもあと一話、順当にいって二話。となると次は23話目だから、26話まであと4話か。個人的には大尉殿の幼少時代にびっくりなのですが。
一番びっくりなのは、ロックの「立ち位置」に関する理解の差異だ。私はロックが「俺は、俺が立っているところにいる」と、パトカーでレヴィに告げた時、既に自らの意義そのものを理解し、敢えて「傍観者」たらんとしたのだと考えていた。だが、どうやら監督は「そうしなかった」ようだ。雪緒がロックを拒絶したまさにその瞬間に合わせて、ロックの意義そのものを瓦解させてしまった。それまで周到に積み上げてきた、より具体的で「一般的」すぎるロックの正義感を触媒にして。立ち位置に関する会話を、「嘘だ。俺の脚は、どこにも立ってなどいない……」と本人に述懐させてしまうことで、全く別の結果に仕立て上げたのだ。つまり、現放送段階のロックは、無重力の不安の中に放り出されてしまっていることになる。おそらくそこから、漫画と同じくバラライカに対し趣味と自らにとっての正義を突きつける事によって、より明確で強固な「不確定」を構築させてしまうのだろうと予想している。不確定を不確定たらんとすることと、不確定に怯えることは、全く別である。前者はあらゆる受容を、後者はあらゆる逃避を具現化する。そして今、アニメにおけるロックは後者の状況に置かれてしまった。「確定」を「不確定」と自ら誤認し、最終的にはその「不確定」への明らかなる反抗――拒絶――によって踏み誤ってしまった少女とは、似て非なる状況である。最終的に、どちらが早く物語から退場することになるかは言うまでもないだろう。観えぬ未来を妄想するだけのロマンチストに、明日はないということか。
はてさてどうなっていくやら……。
家に着いたのが19:30ですよ奥さん。素晴らしい。そんな素晴らしさを利用して、今日早くなぜかサーバがダウンしてたらしく全くネットに接続することができなかった愛機をこき使って情報収集。至福のひととき。というより情報は鮮度も大事だから、一日前のそれは死んだも同然の事が多い。全部を詰め込むのではなく、全てを受け流す事によって情報量の重圧を重圧として感知しないようになると――。
最近、本の置場に関する問題が深刻な悩みとなっている。もう本棚は満杯で、本ケースも同様。積み状態にしておくと痛むから、なるべく立てておきたい。……やはりもうひとつ本棚を買うしかないのか。それしかないのか。となると5万円以上か。むぅ。
そんなことを言いながらも、また本が増えた。
これで《戯言シリーズ》は全て読んでしまったことになる。まあ視点を変えた世界の話が色々出ているから、それがまだ楽しみとして残されている。しかしノベルスは単価が文庫より高いから、ちょっと財布の中身が……。まあいいか。
飽きさせない、というか純粋に娯楽作品として楽しめ、クオリティ制御が行き届いていると感じさせるアニメ。それが「くじびき♥アンバランス」である。
事前知識がなくても、適宜挿入される適度な説明台詞が問題を緩和している。過剰ではないのがミソだろう。お約束も過剰ではない。
クオリティ制御面でいえば、キャラクタデザインを原作とくらべかなり簡素化している。だが記号的要素はきちんと残している。というより、より記号化を徹底し、行き着くところまで突き詰めたものだろう。必要最低限の労力で、必要十分な効果を挙げている。背景も使いまわしをうまく多用している感がある。そしてここぞというところに更なるデフォルメを加えた激しい動き(特に蓮子の暴れる様)を加えている。「よく動く」といわれているのは、そこが目立つからだろう。全体的に見れば、むしろあまり動きを多用していないのがよくわかる。例えば7くじ目で副会長が橘を取り押さえた場面。殆ど止め絵に近い。また、「かみちゅ!」ほど徹底してはいないが、日常描写における人物のさりげない仕草は丁寧に描かれている。
キャラクタ造形もより脚本を書きやすくし、作画をやりやすくする措置がとられているといっていい。極端に動きが多いキャラクタがいる反面、極端に動きが少ないキャラクタもいる。制服も奇をてらわず(色は別として)、シンプルなものだ。そういう意味でもバランスをとっている。
個人的に爆笑させられたのは、次回予告のナレーションが「げんしけん」メンバによって行われていること。終ぞ TV では出てこなかった荻上ヴォイスも含まれる。声だけでもネタになるという事実を、とてもうまく使っている。
また見所のひとつはエンディングの背景か。動きは全くないのだが、背景そのものは話の内容と何らかの形で直結しており、毎回異なっている。意外に見落としがちだが、一見の価値はある。特に6くじ目のエンディングには逃げ出したアレが登場し、大八車を引っ張っている。そしてそれは、そのまま9くじ目と直結している。
因みに6くじ目のアレは、恐らく劇中作の「くじびきアンバランス」アニメ版のネタをうまく流用した(ネタをネタとして再利用した)のだろう。更に複線として引っ張って9話で再利用しているのも面白い。
最終話が楽しみだ。因みに3くじ目まで視聴した時点で DVD 購入を即決定した。
躊躇したかって? 何を言っているんだキミは。迷うことなくオークションサイトへ直行したわ。ついでに Yahoo! オークションのアカウント持ってなかったのでさっくりと取得。でも最初は別の人に落札されてしまったので、補充された頃合いを見計らって再トライ。見事落札。ということで一目で気に入った osakana.factory 謹製2007年用記念カレンダを購入成功(出品先)。これで2007年もカレンダの心配はしなくて済むぞ。
ちなみに私が入札する前に落札されてしまったので、Web 拍手で入札されてしもた……。出品はひとつだけですか?
と問い合わせてみたら以下のような返事が。
山ほどあるがなー(´Д`)。新規IDなので複数個出品できないんです。ちょっとの間待ってていただけると、新しいのが出ます。
……諸君! 臆面もなく自分はぷにぷにーでろりろりーなおにゃのこが好きなんだとシャウトできる同志諸君! 親に見られない環境にいる同志は是非。見られてもいいという強者は……自己責任で。一人暮らしっていいよね。うん。
しかし、絵のモチーフはかなり直接的で、これはかなり同志層を限定するだろう。露骨なのは嫌! な方は拒絶反応を起こすかもしれない。私は両方イケる口なんで。
但し、それも娯楽記号を記号としてしっかり自覚したうえで使用していることが見受けられるから。つまり「わかっていてやってる」から。こうした娯楽性を提供してるという背景を前提にしたうえで、私は受容しているのである[1]。
そういえばこのサイト構築してからこれほど直接的に自分の趣味をシャウトしたことってなかったような気が。まあいいか。これまでに書いてきた記事でも、そのへん気にしないで書いちゃっていたし。