夕方は酷かった。あんなにガシガシと雹が降るとは。外にいなくてよかった ……。仕事が立て込んで超特急で仕上げたことぐらいしか記憶にない。ようやく終って外に出たら雨。やってられるか。しかもこういう日に限って折り畳み傘忘れたし。
やっとこ明日で週末か……って、何だか滅茶苦茶早い。帰りがけにガード下の餃子の王将で、これまでで一番酷い仕上がりの冷めた餃子と最強密度の塩分とグルタミン酸ナトリウム濃度を誇る回鍋肉をいただき、すっかりゴキゲン斜め。電車内でそこそこゆっくりと『最後から二番目の真実』を読めたのが何よりの救い。ディック、ありがとう。
明日は死なない程度に頑張ってできうる限り早く帰ろう。
創元 SF マジえらい。素晴らしい。ハラショー。兎にも角にもキャンペーンひとつ張れないこの時期に、サンリオ SF 文庫という今は亡き存在の残骸から埋もれた作品を救い上げたことは特筆すべきだ。……それより未訳長編どうにかしろって? あと残っているのはかなりヒドい作品ばかりだというし。本当に書き捨ても書き捨て、『ザップ・ガン』レベルよりアレなんだとか。はい『ザップ・ガン』もう書店には並んでませんね。あまりにも話がバカすぎて笑いをかみ殺しながら読んだ記憶があるよ。
その点、『最後から二番目の真実』はそこそこ堅牢なつくり。素材は様々な短編からかき集めてごった煮にした感覚。ある部分が短編のそれと全く同一ということもディックならままあるのだが、『最後から二番目の真実』では『融通のきかない機械』のそれをモロに直球で使用されてらっしゃる。他にも、巻末解説で牧氏が述べているように、『地球防衛軍』『歴戦の勇士』『ヤンシーにならえ』のエッセンスもある。特に前者の『地球防衛軍』と『歴戦の勇士』はおそらく今は絶版になったと思われる(もしくは版元品切)『永久戦争』(新潮文庫)に収録されており、これがまたあまり神保町でも見かけない。私もようやくこの間新潮のディック3短編集『悪夢機械』『模造記憶』『永久戦争』を揃えたばかり。すべてを浅倉久志氏が編んだ、日本独自の短編集なのである。多分、あまり知られていない。とはいえ古い創元 SF のディックを買ったなら、巻末付録の作品一覧にきっちり載っている。見逃さなければ大丈夫。『永久戦争』は平成5年(1993年)の6月25日発行となっている。まだ14年ぐらいしか経過していないので、どこかに必ず在庫はあるはずだ。探せば見つかる。
比較的新しいディックの訳書や、関連書籍は、残念ながら創元のリストには載っていない。関連書籍に関しては、やや古いがとてもよく整理されており非常に使い勝手のいいリストが、『S-F マガジン 2000年6月号 フィリップ・K・ディック特集』に掲載されている。『全邦訳長編解題』と『関連文献リスト』のふたつ。『関連文献リスト』は先の話にも出た牧氏が担当されている。実に素晴らしい仕事。ありがとうございます。因みに『全邦訳長編解題』は補筆のうえ『フィリップ・K・ディック・リポート』(早川書房編集部 ハヤカワ文庫 SF)に再収録されている。『S-F マガジン』は比較的大量に流通している上に、専門の古書店ならバックナンバーをかなりの数準備してくれている。他のものに比べれば簡単に見つかるはずだ。……勿論、大変なことにかわりはないが。
しかしながらこれらのリストも完璧であるとはいえない。時代の流れがそれを許さないからだ。そこで以下、比較的最近刊行されたディックの関連書籍をピックアップしてみる。
ナンバー0という稀有な数を刻印され、刊行された解説書。折りしも当時は『マイノリティ・リポート』公開時であり、その便乗本として刊行されたようなものである。だがさすが早川書房、内容は寄せ集めながらもきちんとまとまっている。
因みに、東浩紀氏の『神はどこにいるのか:断章』という評論はここが初出である(『文学環境論集 東浩紀コレクションL』(東浩紀 講談社 BOX)に再録)。
とても珍しい、ディック直筆の「映画用脚本」。しかも『ユービック』。オチがオリジナルとは微妙に変えてあるものの、映画という限られた時間で見せる演出をかなり意識して書かれているため、あまり似合わないおざなりなアクションシーンがあったりもする。だがそこで戦うのが子供って……。しかも大人負けてるし。さすがディック。
超のつく大駄作となってしまった、映画『ペイチェック 消された記憶』の便乗短編集。日本オリジナル。どれもこれも昔の既刊からの抜粋。時間がなかったのだろう。訳が新しくなっていたりするのがせめてもの救いか。初訳はまったくのゼロ。しかも後に入手困難だった『人間狩り』が版元を変えて再び日の目を見たため、存在意義がなくなってしまった哀れな代物。合掌。
『暗闇のスキャナー』三度目の版元変え。サンリオ、創元、そして早川。訳者も変遷し、飯田、山形、浅倉。浅倉訳はかなり雰囲気を(ある程度ではあるが)和らげているように思う。山形訳は面白かったっけなぁ……。飯田訳は読んだ事ないけど、個人的に他の飯田氏のディック訳が全然好きになれないので以下略。
まあ……ディッキストなら手を出しとけ、ってくらい。
ホラー短編集。ディックの作品が1つだけ収録されている。名前は『探検隊帰る』。確か、ここだけに収録されていたような気がする。まだ比較的手に入りやすい。
サンリオで出てた『あなたを合成します』の再刊。ここから創元 SF の佐藤龍雄訳列伝が始まった。中期の佳作といったところだが、読み応えは十分。結構オススメだったりする。
このサブタイトルはどうかと思うんだ……。ぶっちゃけ酷い。まあ、ただでさえ酷い『ドクター・ブラッドマネー』のタイトル。元々ディックは "In Earth's Diurnal Course" ないし "A Terran Odyssey" という題をつけていたんだとか。しかしかの悪名高いドナルド・A・ウォルハイムがクーブリックの有名映画のパロネタにしてしまった。前述の邦題は、そのパロネタを更におちょくるためにつけたのだろうか。
内容は確かにそういうガジェットも出てくるが、どちらかといえばディックにしては珍しい淡々とした「大破壊後の描写」で、絶対的な善と悪の対立、マイノリティへの愛憎、ニセモノへの恐怖と対決といった要素がてんこ盛り。実際的に、完成度としては彼のベストにランクインさせてもいいレヴェル。プロットの明らかな破綻もなく、バランスがとてもいい。しかし危うさも秘めている。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のような、奇妙な安定はない。これぞまさにディック。誰もが読むべき必読書である。
色々言って来たので以下略。しかし今回の主題はこいつのはずだったんだが……。まあいいか。
その昔、集英社から出た同題短編集。更にその後ちくま文庫から。最後にここへ行き着くわけだ。ディック黎明期にその才能を敏感に感じ取り、いちはやく紹介に成功した訳者、仁賀克雄氏の編んだ短編集の最新形態である。執念もここまでくると素晴らしい。今や他の短編集に収録されたものも多い中、『爬行動物』『人間狩り』が入っているだけで商品価値は激増。何しろ集英社はともかく、ちくま版も入手困難。今までお目にかかったことすらないときた。素直に刊行に歓喜したのである。
『ヴァリス』訳で有名(それとも『新アロゲネス』?)な大瀧氏の訳。私の『弁明』は付箋でどえらいことになっている。それだけ読み応えがある『釈義』の要約版のようなもの(順番入れ替え版?)なのだ。ディックの「小説」でないもののなかでは最新のものといえるだろう。それでもあれから5年経ったのか……。私のディック暦もまだまだ1桁にすぎないと痛感させられるが、ここまでどっぷり浸かるとも思っていなかった。ああ素晴らしきかな。
他にも私が知らない刊行物があるやもしれんが……。知っている人がいたら教えてくれるととても嬉しい。待ってろよディック。まずはサンリオ SF の収集からだー。あと『銀星倶楽部』とかその他諸々。
やってきました『Black Lagoon The Second Barrage 5』DVD。さっそく観る。
……TV 放映時にはどうにも展開が速いと思っていたのだが、こうして改めて観てみるとそうでもなかった。むしろこの状態でいいやと。内容的には、あまりにも効率的にバラライカの過去が断片的に挿入され、雪緒との対比を色濃いものにしている。戦争により堕ちた者も、闘争により堕ちた者も、後には退けない何かを持っている。憧憬は既に過去となった。クソ溜めの中から這い上がることも許されない。唯一できるとすれば、それは死をもって他ならない。そして死は何も生まない。あらゆる記憶もまた、闇の底に沈み、二度と現れることはない。
双子の時に引き続き、よくこの内容を TV シリーズで ON AIR できたものだと感心させられる。ある程度の暴力描写を控えめにしている点は仕方ないにしろ、とても上出来だといえる。……無論、問題がないわけではない。修正されているとはいえ TV 放映時の作画は悪い意味でヤバかったし、DVD になった今でも目に付きやすいところに演出上の問題点が残ったままだ(例えば雪緒が校門で別れを告げるシーン。前のカットでは雪緒に抱きついていたが、俯瞰のカットになると離れている状態 etc.)。だがそれはあくまで微々たるものであって、物語進行には支障はきたしていない。
観れば観るほど憂鬱になるアニメであり原作マンガなのだが、ただそれだけで終らせずに、ほんの少しのカタルシスを持たせ続けていられている点に、バランスを感じる。
次の発売も楽しみだ(眼を背けたくなる表面上の事態は避けられているようだし)。
友人経由で以前から読んでおり、気に入ってたので買っていた『らき☆すた』。アニメ化されるとは思いもしなかったなぁ。勿論アニメも欠かさず観ている。こういうゆる~い感じの作品も好物なのだ。人生にはゆとりも必要なのだ。
内容は、ある程度読者層を想定した要素を効率的に配置した人物配置のバランスで成り立っているといっていい。そこに日常の「あるなーこういうの」要素を組み合わせ、ガシガシと押してくるので、読んでいて飽きがこない。しかしどちらかといえば「ずーっと続く」タイプではなく、「いつかは終わる」タイプ。
アニメの方も裏事情がいろいろあってごにょごにょしたようだが(監督の件とか……)、毎回ゆっくりと楽しむにはいいだろう。ただ、どちらかというと原作マンガよりネタ色が強いため、ついていけない人は醒めちゃう危険性も孕んでいるが。
ついにきた。この時が。創元 SF 文庫 18 番目のディック翻訳作品。これで、あと1作出ればハヤカワ文庫から出たディック作品と同数になる。
読むのはこれからだが、その前に牧氏の巻末解説『つくりものの現実、複数の目に映る世界、ちょっとおかしな感覚』を読み、創元 SF 文庫から出ているディック作品一覧を眺めてあらびっくり。『ライズ民間警察機構』当時には全て列挙されていたそれが、たったの6作品にまで減ってしまっているではないか[1]。
その背景の一端を、『死の迷路』や『暗闇のスキャナー』を訳した、プログラマの間でも有名人な[2]山形浩生氏の Web サイトで窺い知ることができる。以下、断片を引用してみよう。
ふーん、浅倉久志訳ですか。こちらがそんなに悪い訳だったとは思わないんだけれどお気に召しませんでしたか。残念。なお、あくまで噂だが、「スキャナー」以外にも創元が持っていたディックはすべて早川が持って行ってしまったとのこと。なんでも翻訳権の契約で、一定期間以上増刷かなんかがないと権利が切れるような条項があり、通常は比較的柔軟に運用されるんだけれど、今回は知らぬ間に早川がディックの関係者と交渉していて、突然この条項をたてに有無を言わさずかっさらわれてしまったとか。あくまで噂ですが。しかし本当に早川が全部持ってったんなら、かつて創元で出ていたディックのほとんどはもうおそらく二度と日の目は見ないことになるんじゃないか。 (2005/10/14, id)
かつて創元で出ていたディックのほとんどはもうおそらく二度と日の目は見ないことにな
ったというのは、あくまでも推測の域を出ないが、どうやら現実になってしまったようだ。前述の作品一覧は、私の経験としての話でしかないが、版元品切れならそのまま掲載され続ける。だが、絶版なら削除される。
収集家にとって、「版元品切れ」と「絶版」は天と地ほどの差がある。なぜなら、「版元品切れ」ならまだ出版社に本のデータそのものは現存するため、いずれ何かの拍子に増刷される可能性が存在するからだ。また、比較的古書店でも入手しやすいし、出版社が「手を引いた」わけではないので、書店の在庫を期待することもできる。
対して「絶版」は、その名のとおり版を絶ってしまう。つまり、印刷機に何らかの形で与えるデータを、出版社側が完全破棄したことを意味する。こうなると、それこそ永遠にその出版社から再刊されることはまずない。
前述の山形氏の話が仮に事実だとするならば、早川書房がディック作品の版権(日本版翻訳権)をディックの著作権管理者を介して手に入れたということになり、東京創元社は何らかの手段でまた権利を入手しない限り[3]ディック作品の再刊を行えない。
早川書房がどれだけの作品の権利を手に入れたかは不明だが、少なくとも東京創元社が「刊行予定」としていた作品のうちいくつかは入手しているであろうことは事実である。現に、『暗闇のスキャナー』は『スキャナー・ダークリー』と名を変え、ハヤカワ文庫 SF より2005年11月30日に発行された。
次に列挙するのは、東京創元社によるディック著作リスト[4]のうち、現時点では絶版・未刊である作品である。邦訳が刊行されたことがあるものは、最新版が出たレーベル名を表記。創元 SF 文庫「近刊」の表記があったものは「近刊」を表記。邦題はリストに従う。一部原題ママ。順序は前述の著作リストには従っていない。
つまるところ、最低でも「創元 SF 文庫において作品リストから削除された」状態にある12作品が、日本版翻訳権を東京創元社が失った可能性が高い。まだ刊行されていない「近刊」のものは翻訳権の所在が不明瞭だが、一定期間以上増刷かなんかがないと権利が切れる
という噂が「未刊のものを含む」と仮定した場合、更に5作品が追加され、合計で17作品になる可能性を孕んでいる。その他、前述のリストに含まれていないハヤカワ・創元・サンリオから刊行されていない他社出版物(新潮文庫 etc.)も含めれば、かなりの量になる。
早川書房の中の人には、是非ともディックの翻訳を再刊・新刊してほしいものであるが、残念ながら昨今のディック熱は一時期のそれとは比べ物にならないぐらいに落ち込んでいる感があるようだ。出版は当然商業であるわけで、利益がでなければ意味がないのだから、「こいつはダメだ」と判断された作品は世に出ない。こうして活字に中毒した……いや、ディックに中毒した私のような人間は飢え、悲しみ、叫ぶのである。「ディックを! もっとディックを!」と。
因みに、余談ではあるが今日は映画の方の『スキャナー・ダークリー』DVD も届いていた。アシモフ祭りのあとはディック祭りですか。今月はまったくもっていい感じだ。
えー、まさかこんな風に作品がお目見えするとは知らなかった。しかし裏事情を覗いてみれば「あーそういうこと」という納得の背景がある。楽しく読ませていただいた。
外伝ではない原典としての『新興宗教オモイデ教』(大槻ケンヂ 角川文庫、以後『オモイデ教』と表記)は、知る人ぞ知る名作……迷作……銘作である。学生時代、寮で友人の部屋に遊びに行った時、この本を読みはじめたら止まらなくなり、居座り続けてしまったという経験がある。デムパユンユンというカタカナの並びがとってもよく似合う、無茶溢れた代物であった。
『オモイデ教』は、日本の特定メディア作品にあまりにも有名な逸話を残すことになる。そのメディアとはすなわちエロゲーであり、もう少しソフトな言い方にすれば美少女ゲームである。作品名は『雫』。Leaf 最初期の、まさに1作目であった。「毒電波」という単語をすっかり定着させたという意味合いが、今では強いだろう。この『雫』のシナリオを書いたライターである高橋龍也氏は、『オモイデ教』によってインスピレーションを得たという話がある[5]。
そして、『新興宗教オモイデ教 外伝1 桜月事件 ~祓除探偵[Z]の冒険~』(以後『外伝』)の著者である原田氏も、Leaf で別作品のシナリオを書いた一人である。作品名は『White Album』。こちらもまた、色々な意味で有名になった作品であるが、蛇足になるので割愛する。
ともかく、まずこれで原田氏と『オモイデ教』のつながりがひとつわかったことになる。だがこれだけでは著者起用の理由としては薄弱だ。そこで、更に事実を振り返ってみることにする。
小学館の新しいライトノベルレーベル、「ガガガ文庫」は、その創刊に先立ち一冊のムックを上梓した。それが『ライトノベルを書く!』である。インタビュー(という名の対談)が3本収録されており、そのうちの2本が『外伝』成立に大きく関わっていると考えられる。
ひとつめは、佐藤大(ブレーンのひとりとして関わらせてもらうことになった
らしい)、イシイジロウ、東浩紀の三者による対談である。対談の内容そのものは関連性がとても薄い。しかし、そこに「東氏が関わっていた」という事実が重要なのである。この点は後述する。
ふたつめは、佐藤大、大槻ケンヂ、劇団ひとりの三者による対談である。ここでも重要なのは「大槻氏が関わっていた」点にある。だがこちらはひとつめと違い、対談の内容も『外伝』の登場を容認する土壌をつくりあげたものになっている。ぽつぽつと『オモイデ教』の話が出、大槻氏自身も僕の書いた『オモイデ教』は絶対ライトノベルの範疇だったと思うんですよ! 『グミ・チョコ』もそうだし。自分でも、大槻ケンヂはライトノベル作家だという意識があるんです
や、だからライトノベル読者のみんなに、僕の本をいっぱい読んでほしい
といった発言をしている。
さて、ここまでで3つの事実と2つの接点が浮き彫りになった。原田氏の件と、大槻氏の件である。しかし、原田氏と大槻氏を結びつけるには、まだ少し人やメディアの経由が多すぎる。そこで最後に、この経由をより少なくする人物と刊行物を紹介しよう。
最後の事実。それは、前述の東氏が発行した同人誌に原田氏と東氏の対談が載り、『雫』と『オモイデ教』についての言及が行われていたという経緯だ。
東氏は2004年8月15日に『波状言論』の臨時増刊号扱いで『美少女ゲームの臨界点』という同人誌を上梓した。つまりはコミケにて販売されたのである。その冒頭しょっぱなの対談記事こそが、原田氏と波状言論編集部とのやりとりであり、『雫』『オモイデ教』の言及が行われた箇所である。こちらも詳細は略すが、誌面の方向性・原田氏の経歴という面からから主に『雫』についての言及が主になったという点、原田氏が『雫』に衝撃を受け、Leaf に入社するまでになったという点は加味しておこう。
となれば、少なくとも事実だけで「原田⇔東⇔ガガガ文庫編集部⇔大槻」という繋がりが生まれる。これならとても直接的な関係だ。原田氏と大槻氏との繋がりが、荒唐無稽ではない状態にまで落ち着く。
まとめよう。
というわけで、背景がわかってしまえば原田氏が『オモイデ教』の『外伝』を書くのも道理というわけである。……何だかあまり本の内容とは関係ない話になってしまったなぁ。えー、要約すれば「多少のエログロホラーと『電波』の滑稽描写、女性キャラクタの暗部にどっしりと踏み込む暗鬱構成、『リセット』を実行しようとして中途半端に失敗する『現実』への根強い諦観と抵抗、あとおっぱい」である。
を使っている人を現場で見かけた。いいなー。お金あって。今使ってる HHK Pro は、初代と二代目のまさに移行時期に買った安売り品。もうあんな価格で手に入れることはできないだろう……。2万円割れてたし。お買い得だった。もうそれも在庫がないだろう。この前秋葉原に行ったときその店に立ち寄ったが、影も形もなかった。
今日は散々な日だった。本当は18:00頃に上がれたのに、上司と XXX の XXX をしようとしてもかの人は滅茶苦茶に忙しいのでようやく解放されてからこっちの XXX につきあってくれたし、新しく入ってきた人はやたらとポカミスを連発して私の仕事を増やしまくってくれたし。慎重なことと、手が遅いことは違うんだよ? と言いたくなったがそれはこらえた。だって全否定しても能率はあがらないから。怒鳴りつけても勿論ダメ。適切な威嚇はとても難しい。使いどころを非常に選ぶが、ピタリと一致したときは絶大なる効果を発揮する。現場は、それを日常とする異常性を閉鎖空間で覆い、短期間である程度の技術を叩き込む軍隊ではないのだ。
明日が終ればようやっと週末。……しかし何だか今週はやけに忙しかった気が。アニメの方も、『ヒロイックエイジ』が途端につまらなくなってきたし。冲方さんどーしたよ!? 延々と艦隊戦をやるにしても、ちょっとダレてきた気が。いや、これは監督その他の現場スタッフの方に噛み付くべきなのか。とはいえ「ひどすぎる」わけでもないし……。一応最後まで観る予定ではいる。
腹減ったな。食べ物は家にないし。買いに行くと金かかるし。我慢するか。
今日は久々に xyzzy をメンテした。新しく導入した Lisp は次のとおり。
help と ldoc は今更ながら。これでようやく Emacs に追いついた。
lisp-minibuffer-mode はミニバッファの拡張。地味に便利。
ちなみに paren は、KITA 氏によるものではなく、shiro 氏による新しいバージョンの方である。以前の shiro 版 paren は、xml-mode と組み合わせた時に強調がキャンセルされないという不具合を抱えていたので、採用をとりやめていた。今回テストしてみて問題なかったので採用。GNU Emacs でもそうだけれども、ソースコードを書くときは絶対に欠かせない必需品。ありなしで脳味噌に入ってくる情報が段違いになる。
filer+migemo は、どうして今まで導入していなかったのかと。ファイラでも migemo 使えりゃ便利に決まってるだろうが。xyzzy に限らず、Firefox でも migemo は使ってる。やはり、簡単なキーワードで検索するときは便利だ。
scratch-plus も、私は *scratch* バッファをよく計算機がわりにしたり Lisp 断片のテストをしたりするので、とてもありがたい機能。
ac-mode と snippet は挙動が怪しいうえに処理が重いのでひとまず様子見。ポップアップの描画は独自っぽい。標準のリストでは実現できなかったからだろう。
そういえば、導入したものは分類的にはマイナーモードに属するものばかりだなぁ。いや、メジャーモードはもう大体欲しいものを入れてあるからいいのだ。使い勝手向上の問題。……ますますマウスに手を伸ばさなくてもよくなって、今日はいい気分だ。キーボードの素晴らしい感触を確かめながら、全然疲れないタイプを続ける快感。
いっそのこと、金ためてもう一台 HHK Pro 買って現場に持ってこうかしらん。どうにも Lite 2 のキーが押下時に微妙な引っ掛かりをみせるのがやるせなくて。たとえていうなら、「キュッ」ていう感覚。それでも標準装備のフニャフニャギシギシボロキーボードよりいいんだけど。とはいえ、私だってふにゃふにゃ系のキーボードが嫌いなわけじゃないのだ。最初に使っていたものは、富士通の PC98 シリーズにくっついてきたような、あの独特なタイプだし。
さて……『ひだまりスケッチ』でも観てから寝るか。
初期作品集だけあって、玉石混交といえばそうなる作品が勢ぞろい。しかしどれもがきちんと最後まで読める。それは素晴らしいことだと思う。何か小説を書いたことがあるならば、その凄さが身にしみてわかるはずだ。初期短編だけとはいえ、あなどれないのである。
中にはアジモフ先生らしからぬ、暴力と艦隊戦にかなりのページ数を割いている作品、『焔の修道士』なるものも存在する。こんなレアケース(しかも6回も改稿したそうだ! その意味でもアジモフらしからん)まで収録してあるのだから、アジモフ先生の作品が好きならたまらない一冊に仕上がっているといってよい。なおのこと、いつも通り「アジモフ節」全開の文章が作品間に挿入されており、サービス精神にとても自覚的であったかの人だからこその一品になった。他の短編集もそうなんだけれども。
個人的には『太陽をめぐるリング』がよかった。作者自身も指摘しているように、このスタイルはロボットシリーズのマイケルとドノバンのコンビに直結している。最後の最後で示された決定的にアホらしく、どうしようもない結末には失笑してしまった。
ただ、『太陽』に出てくる二人組、ターナーとスニードにはマイケルとドノバンとは全く異なる点がある。それは、あまり知性の閃きが感じられないことだ。言ってしまえば、おつむの程度があまり高くないという話である。とても動物的で、即物的で、度し難い部分が多すぎる。これを添削して論理の力を与えると、マイケルとドノバンができあがる。個人的にはどちらが魅力的か? それは後者に決まっている。マイケルとドノバンは数々の局面を、その行動力と何よりその知力によって乗り越えた。それは決定的かつ断絶的な違いである。
次は……『カリストの脅威』でも読もうか。
少し時間があったので DOM Tetris 2 をいじる。衝突判定を TetrisBlock 生成時にキャッシュで保持させておくことで計算量を稼ぐことに成功したものの(勿論メモリは喰うよ……ブロック数とフィールド面積に依存するものの、そんなに心配するほどでもないが、それでも一応3次配列)、肝心の衝突判定がおかしい。Z 型ブロックのある回転位置では、左列1列が空なのに衝突判定。どうやら基準位置が -1 の鬼門に突入してしまうようだ。……これを回避するにはかなりの改造が必要になる。ぐぅ。じっくり考えるさ。
言わずと知れた、超名作の「小説」バージョン。歴史的経緯からすれば、この言い方の方が適切だろう。クラークと「映画」バージョンの監督スタンリー・クーブリックは平行作業でプロットをまとめ、製作し、若干小説の方が早く世に出回ってしまった。それだけの話である。双方ともに素晴らしい出来栄えなのは観て・読んでみればわかるとおり。今になってみても(小説バージョンの Copyright は 1968年)まったく古びていないという点に、その永続性と底の深さが窺える。
実は日曜日に映画を DVD でもう一度観てしまったので、小説ももう一度読んでいるという次第。これで都合……何度目だ。多分4度目くらい。映画の方は細かく見れば映像面でやはり時代を感じさせてしまうところが多々あるものの、全体を見てみれば今でも立派に通用する完璧な SF 映画。最後の方で、老いたボーマンがよろよろと食事を摂るシーンに代表される怒涛の展開は、人間という生物がもつあらゆる感情を逆撫でしつつも愛でるような、矛盾した情緒性に満ちている。ラストにアレがきてしまうのも納得できるというものだろう。突飛かもしれないが、それを真面目に描ききるところにクラークとクーブリックの熱意を知ることができる。
「小説」バージョンの方も、当時の SF らしく(クラークらしく?)、口当たりのよい説明文と適切な情景描写でぐいぐいと読ませてくれる。相互補完的につくられたようなものだといえるだろう。実にいいコンビだったのか。
SF というジャンルは、文芸の方面では後に様々なムーヴメントを巻き起こし、現在に至るもその独自性・拡張性を保持し続けている。……しかし、映画はどうか。映画の SF は、その極端な嗜好性をうまく体現した最近作があまりないように感じる。「スター・ウォーズ」はジョージ・ルーカスの括弧たる「娯楽大作」にかける信念により、別の素晴らしさを生み出した。いうなれば、プログラミング言語でいうところの Fortran と Lisp の系統樹が別々にできあがったようなものだ。無論、Fortran の遺伝子は後に C へと受け継がれ、Java や Perl、Ruby などの言語として現在に至る。だが、Lisp は……。プログラミング言語としての Lisp は全てを取り込む柔軟性と数学的厳密性、人間という存在への妥協のうまさが形をほとんど変えることなく受け継がれ、素晴らしい言語仕様(派生)を生み出すに至った。映画は? 「2001年」以降、「ブレードランナー」以降、それ以降は? ……誰か知っていたら、映画にあまり詳しくない私に教えて欲しい。「マトリックス」を Perl や Ruby のような存在としてみてもいいかもしれない。だが私が満足しきれていないのは事実だ。
ああ……もっといい映画観たいな。
他チーム返答待ちの挙句、こっちの対応は「なし」。しかもそれをハッキリと記述してくれなかったから当方側で確かめる羽目に。何だこの無意味さ。ふざけんな。俺の時間を返せ。
……そんなこんなで腹が減った。お金もないしカロリー過多になるのもアレなので、ずっと前に買ったまますっかり忘れていたそうめんを取り出す。賞味期限は今年の9月まで。まだ大丈夫。現在お湯を作成中なのです。わくわく。
明日はもう少し早く帰ってきたいな……。無駄を省いて。やるべきことをやって。大体、空き時間を作ること自体が勿体無い。
神保町には行ってみるもんだ。たまたま先の日曜日に出向いた書店にコレが陳列されていた。勿論即購入。そして読んだ。
残念ながら『COMIC リュウ』とカブってしまったので全部は読みきれなかったが、ディックの主流文学的作品はぶっちゃけた話、SF のそれと大差はない。プロットも、人物像も、すべてが彼オリジナルのセンスによって創造された、一癖も二癖もある連中なのだ。SF ガジェットを組み込んだらそれは SF となり、その隙間を現実世界の何かで埋め合わせれば主流文学風になる。ディックの作品は、その形式こそ万華鏡のように変化するが、根源は全く変わらない。
アレげなことで有名な訳者の訳ではあるが……原文も読んでみたいかも。
きたよきたよキタヨ。ついに創元 SF 文庫から、『ブラッドマネー博士』に引き続いてフィリップ・K・ディックのサンリオ SF 絶版物、『最後から二番目の真実』が! 本当は『シミュラクラ』出してほしいけど……でもね、出るだけマシってもんだよ。私みたいなディック大好き人間はそこかしこにいるらしい[1]のだが、けっして人口的には多くないだろう[2]。それが理由なのだと思う。
『最後から二番目の真実』のあらすじを、サンリオ SF 文庫版[3]のものから引用してみよう。
2025年――。
地上では、西部民主圏と太平洋人民圏に分かれて、いつ終るともしれない核戦争が続けられていた。大多数の人々は地下壕に追い立てられ、〈レディ〉と名づけられたロボット戦士作りの苛酷なノルマを課されていた。地上は放射能汚染によってすでに人類の棲息できる場所ではなかった。地下壕では時おり地上のフイルムが映され、刻々戦争の状況を知らされたが、どちらが優勢ともしれなかった。
しかし、地上にはまったく違った現実があった。核戦争は10年以上前に終結し、両陣営の協調関係のもと、少数のエリートによって支配されていた。地下には、いまもなお戦争が継続していることを偽装するフイルムを流し、間違っても地上に出る気を起こさないように、厳重な管理システムを敷いていた……。
核戦争後の地球の不思議なまでに美しいイメージ、惜しげもなく繰りだされる SF 的アイデア――ディック・ファン待望の傑作長編。
『最後から二番目の真実』サンリオ版
このサンリオ版のあまりにも長ったらしいあらすじも、しかし小説の本質を突くところまではいっていないし、いってはならない。ディックの小説はあらすじにしてしまうと奇妙に単純化できると思えるが、その実あらすじでは物語というか、作品そのものを解体すらできない。それほどまでに入り組んだ、やっつけ具合の酷い代物が多いという事でもある。それすら魅力であるということに気づけば、あなたは既にディックの虜だ。勿論この「壊れている魅力」という概念も、昔から言われている話に過ぎない。
さあ、新訳になって帰ってくるディックの作品。どんな味に仕上がるか、発売日が楽しみで仕方ない。
実はディックの再刊が出るという話はこの雑誌の記事ではじめて知ったのである。ありがたやありがたや。それもよく読んでないと見逃しそうなところに。具体的にはp56、山岸真氏の「SF 新世紀」という連載。その最下段。感謝の極みといったところか。いや、よく書いてくれた。素晴らしい。ハラショー。
つまりは qr//
。これはナンだかんだと便利なのである。データが全て(ではなかったような気もするが……)オブジェクトである JavaScript では、よく連想配列と RegExp
オブジェクトを組み合わせて条件分岐のデータ構造化を行ったりしている。Perl5 でも同じようなことをする。と、まあこれがいい具合に使い勝手がよろしい。何しろアルゴリズムはループとひとつの if
だけで済む。例えば次のようなコードが書けるわけだ。やっつけだが。
my %lang_types = ( qr/jp/o => qr/検索/o, qr/en/o => qr/search/o, qr/de/o => qr/suche/o, qr/fr/o => qr/recherche/o, qr/it/o => qr/ricerca/o, qr/es/o => qr/búsqueda/o, ); my $str = <STDIN>; chomp $str; my $regexp; foreach (keys %lang_types) { $regexp = $lang_types{$_} and last if $str =~ /$_/; }
……もしかしたら拡張正規表現で似たようなことができるかも。そのへんは勉強不足なので知っている人がいれば笑われるかもしれない。だが、圧倒的に if
, elsif
を連ねるよりマシだ。/o
オプションにより効率もよくなる。こういうコードを書いておけば、対象言語が増えても %lang_types
ハッシュに追加するだけでいい。
そんなコードを個人的なツール用に書いていた今日なのでした。
どうしちゃったんだアジモフ博士!? これではあまりにもオチが弱いではないか。確かに最後のジェイナス・ピットの台詞は合理的というか、まああって然るべきものだ。だが、あまりにもマルレイネを信じるのが早すぎるジェナールや、母親としてもあまりに神経質になりすぎな(もうこれはヒステリーの域だ)ユージニアは、ちょっと「壊れ」気味になっているといっても過言ではないだろう。ちょっと人間の脆さを誇張しすぎている感がある。それに、ネタがネタだけにあまりにも安易な気がしてしょうがないんだな……。アジモフの SF 作品としては、ちょっと評価できない。勿論、〈ファウンデーション〉シリーズでいきなり超能力者出しちゃったのもアレではあったのだが。それでもあくまでミュールという存在を(どうしても GNU Emacs - Mule を思い出してしまう!)きっかけに用い、そこに渦巻く人間の策謀を鮮やかに描いていた。だが今回の『ネメシス』、なによりそれが弱い。地球と〈ファウンデーション〉とを結ぶ結節点となる記念すべき作品には違いないのだが……。
とやかく言ったところで作品が変わるわけでもなく、本人も没して時間のたった今、しかし確かに『ネメシス』は彼の作品のひとつとして現存している。面白いかといわれれば確かに「面白いよ」と頷ける作品ではある。今度は初期作品集でも漁るとしましょうか。他の SF 作品日本刊行物はだいたい持ってるし。
今日はひっさしぶりに職場でソースコードと戯れた。といってもバグ潰し。内容は応答速度の明らかな遅れをどうにかすること。原因は私が昔突っ込んだ場当たり的なコード。責任はとらなければならない。
当時、そのコードを埋めた時は何より時間がなかった。そのため、最小の労力で最大の効力を得る方法を編み出した。だが、それがあまりにも非効率的だったという話だ。そこを評価にツッコまれたので、今回は時間もそこそこあることだしやったろうかと着手。解析に半日も使ってしまったのがアレだったが(プロファイラが使えない環境だったのだ……)他の人が解析してくれた問題箇所がとても役に立った。つまり、「お前さんが書いたコードが悪さしてるよ」という具体的な指摘である。このお陰で作業時間をある程度は短縮できた。
やるべきことは早かった。何故遅いのかという原因には思い切り心当たりがあったからだ。余分な保存処理などを走らせていたから。かなり高コストな代物だというのは知っていたので、じゃあそれを使わなければいいというだけの話。修正案をひねり出し、コードを書いた。それでも、そのコードをどう書くか(つまり設計)に時間がかかったのは言うまでもないだろう。複雑な仕様になってしまっていたので、「それをどう実現するか」を、他の人が書いたコードから見つけ出してアレコレするのに手間取る。これで半日。別の仕事もあったので、平行作業でやったのだが、それでもすんなりいった方だとは思う。当然残業仕事になった。
あとはそれで試してみる。予期せぬ動作を宥めたら、問題はなくなっていた。応答速度は申し分ない。プロファイルがとれない環境なのが何より残念だったが、それでもバグは潰したことになる。ひと段落ついたところで現場から出た。
明日はそれを清書(クリンナップ)して実際に投入する。……こういう仕事、もちっと手元に来ればいいのにと思ったのであった。
スタイルシート――もっと限定するならば CSS ――をある程度書いている人間ならばまず知っているであろう CSS Zen Garden。その主催者が投稿されたスタイルの中からテーマにあったものを選び、解説していくというれっきとした技術書。中途半端で持ちにくい大きさの装丁はアレだが……狙いがあるのだとは思う。私が知らないだけで。
内容はどれも実践的であり、しかし即座に真似してどうこうできるものではない。あるのは熟考の末に辿りついた各スタイルの結論であり、概念である。テクニカルな話もさりげなくてんこ盛りで、読んでいて飽きがこない。情報がかなり分散しているうえに索引がショボいので、付箋は必須だが。……どこぞの TeX なら一発生成してくれるんだろうなと思うけれども、適材適所というのもまたあるわけで。
この本は、CSS を学び始めた人間が読めばモチベーションの向上に繋がるのは間違いない。しかし、その内容を全て理解するには時間がかかるだろう。私だって全部わかったわけじゃない。DTP という(ああ! Web にそぐわぬ存在!)独自の世界がもたらした用語や影響、思想体系歴史に系図。それら諸々も当然ながら含まれている。個人的には、この本を読んだ後に CSS の「仕様」についてもっとよく理解してもらいたいと思う。リファレンスとしては勿論 W3C の勧告が使えるが、それは教科書にはなりえない。
では、教科書はどこにあるのか? その一端が CSS Zen Garden にある。多種多様なコンセプトを持った CSS コードを読むこと。そこで何が行われ、どうしてこの効果が得られるのかをまずは体感的に覚えること。ああなればこうなるという直感的だが論理的である状態を身につけるにはそれが一番効率的で手っ取り早い。良質のコードを読み漁る環境ができている最近の人はうらやましい。
だが無論のこと酷いコードも現存しているのは事実であって、見てくれはよくても CSS コードはぐちゃぐちゃで読むに耐えない最低最悪のスパゲティであることがある。……情報工学とは別の分野に身を浸している人間は、もっと「コードの美しさ」も追求していい。美しいものには整合性がある。コストパフォーマンスをよくしたければ、当然無駄のないコードを書くしかない。そして、往々にして無駄のないコードとは、美しく燦然と光り輝く標となるのだ。
出版物という体裁で刊行された本書は、ある意味でその領分から逸脱しているといっていい。しかし手元に置いてぱらぱらとめくるその状態は、モニタがもたらすものとは別の利便性と有益さをもっている。このテの書籍には珍しく、買って損はない良著なのは確かだ。
早い……。寝てたら終わってしまった。それでも今日は秋葉原に出向いて、N64 用の AV ケーブルを買ってきた。もう経年劣化でコネクタがぼろぼろになり、半田づけではどうにもならなかったため。これでまた遊べるぜ。
アジモフ先生の後期作。会話劇で全てを進めてしまうのはいつものことだが、今作はことのほかその印象が強烈になっている。それもこれもマルレイネのせいだろう。まだ下巻を読んでいないので何ともいえないが、彼女の直感はまるで……。いや、言及はやめておこう。
さっさと下巻を読み始めよう。すごく続きが気になって仕方ない。
色んな仕事を楽にするツールをコリコリと書いている時間が、どうしてか無性に楽しいと感じる今日この頃。やはり人間、「書きたい!」と思ったものを書くことが大事だなぁ。何にしても。
今日は今更になって『苺ましまろ』の OVA 版にオーディオコメンタリがついていることを見つけて聴いていた。……メニューは見ないとね。結構勿体ないことをするところだった。
日本の「アニメ」DVD に収録されるオーディオコメンタリのはしりは、『R.O.D』OVA 版のそれが最初だといわれているらしい。『R.O.D the TV』『かみちゅ!』でお馴染みの、舛成孝二・倉田英之コンビである。ハリウッド映画のそれと比べて非常にゆる~く、本編とまったく関係のない話になっていたり TV シリーズではオープニングで喋るネタに困ったりと、普通なら全カットされそうな代物なのだが、それはそれ。というよりも、コメンタリがまた違った意味で面白いのである。日本のアニメのコメンタリといえば「だらだらと」、という風潮があるのは、この二人にその功罪を見つけられるのだが……。堅苦しいばかりでもアレなので、これはこれでいいと思う。やりすぎはダメだろうけど。
主だった役職で作品を創りあげた人々を呼んで「なんか喋って」というのはまあ一般的だが、「声優を呼ぶ」という風潮も、このふたりが創りあげたものだといっていいかもしれない。製作側関係者はともかく、声優を呼ぶのはアニメならではだろう。最近では監督や脚本家ではなく、声優だけを呼んで勝手に喋らせてコメンタリにしてしまうパターンもちょくちょく体験している。『げんしけん』OVA とか。『苺ましまろ』もその分類だ。それはそれで面白いのだが、少しは製作側の裏事情(?)みたいなものも聴きたいので、言い方は非常に悪くなってしまうが「金払って楽してる」感じがある声優オンリーのものは、その必要性があるかどうかを含めて考え直してもいいような気がする。勿論付加価値としてのコメンタリという意味ではある意味で合格点だが……。ううむ。難しいのかな。やっぱり。
といっても、まだ途中。全部読んでいない。それもこれも……『ネメシス』のせいだ。ふたつを交互に読んでいるため、『変化の風』の1短編を読んだら『ネメシス』に戻り……を繰り返している。たくさん本が手に入ると、どうしてもそういう読み方をしてしまうのだ。ひとつをぶっ続けに読むこともあるが、私はスイッチを切り替える感じで読める方なので、この交互スタイルもしっくりくる。片方が短編集なら尚更だ。
何気に『小悪魔アザゼル』シリーズの初期短編も2つほど収録されていたりする(『変化の風』では「アジャゼル」と訳されている)。これは後に、他のシリーズ短編とあわせて『小悪魔アザゼル18の物語』(新潮文庫)として出版された。邦題の対応は以下の通りである。
『変化の風』 | 『小悪魔アザゼル』 |
---|---|
歌の一夜 | 一夜の歌声 |
失われた微笑 | ケヴィンの笑顔 |
訳が違えば雰囲気も微妙に変わる。読み比べてみると面白かった。
さて、続きを読まねば……。
……特に今日の見出しに意味はない。ただ何となく、浮かんだ言葉を書いただけ。もしかしたらそんな言葉をどこかの本で読んだのかもしれないが、最早記憶にはない。
最近あまりよろしくない兆候がある。キーボードと向かい合う時間が少なくなったのだ。そりゃ現場ではずーっとモニタと睨めっこしてるわけだが、それで書いているものはコードじゃないことが多い。勿論仕様書だってコードの一部であるわけだが、他人の思考をトレースする作業も決して嫌いではないのだが、何かイライラするものが溜まっている。家に帰ってきても静電容量の快い感触を味わう時間はあまり多くない。好きなコードを好きなだけ書く時間も、アイデアが浮かばない(というか GOD が降りてこない)と遅々としたものになる。
それでも今日は DOM Tetris 2 を少しいじってた。少しピンときたこともあったのでこれからその作業。でも時間が時間だ。会社に遅刻するわけにはいかない。喰えなくなったら元も子もない。現実はけっして優しくないのである。
通勤時間と休憩時間に本を読むのは、そのウサ晴らしなのだろうか。自然言語はやはりどうしてもまだ好きになりきれない(まだガキだから?)が、活字ってやつはそれを眺めているだけでもいいもんだ。
段組してあっても一日で読めてしまうものなのだなぁと。プロットとしてはこの時点でマンガ版を越すのだから、原作小説が(というより文字だけの媒体が)ある意味では情報というものをかなり高圧縮しているものなのだなと実感させられる。
相変わらずご都合主義的な部分もあるのだが、それはそれでさらりと流してしまえば、あとは心地よいエンタテインメントが待っている。新城の歪んだ性格がどんどんあからさまにされてゆき、ぶっちゃけた話、私はこういう人間が友人なら面白いなぁと思った。勿論命にかかわらない範囲内で。しかしどう考えても新城という男は他人を様々な陰謀術数へ嵌めてしまう性質だから、現実的にはどうなのかはすこし微妙だが。聖人君子よりも、極悪非道よりも、その狭間でもがいている類の人種は、どうしてかとても感情移入しやすいのである。このバランスが世間という名前の平均に近いと、それは平凡であるといわれる。だがもしも、その配置が2次元的ではなく3次元的であった場合、z 軸の座標がどえらくズレているならば、そこに個性と呼ばれる陳腐な差異が生まれるのだと思う。
理系と呼ばれる学科出身より、文系と呼ばれる学科出身の人間の方が綺麗なプログラムを書くことが多いという話をきいたことがある。論理的かどうかという概念は哲学者がはじめはもたらしたのであって、そこにはじめから記号論があったわけではない。そしてどちらにせよ、自然言語との邂逅は不可避になっている。それが論文であれ小説であれ、文字媒体による情報伝達という観点から見れば差異などないのである。勿論密度の問題はあるだろうが。いいプログラマはいい物書きでもあることが多い(逆もまた然り)[1]。その例を経歴からして体現してしまっているのが、誰あろうラリー・ウォールだったりする。彼は言語学を本格的に学んだ類の人間である。
話は逸れたが、まあ『皇国』は面白いといえる作品なので、続きも読む。その前に今日買ってきた『扉の外 II』と『刀語 第五話 賊刀・鎧』も読まんとなぁ。
残業だったよわはー。……いやまあ事故といえば事故みたいな。何とかしてきたのでとりあえず安心。
今日は何もやる気がおきないな……。本も一冊読み終えたし。ま、ぼけーっと DVD でも鑑賞しながら夜をすごしましょう。
まずその表紙に着目しよう。実に人工的な日本人「美少女」と呼ばれるものが目に飛び込んでくる。だがその幻影が過ぎ去った後には、カバーデザイナの呆れるほどあからさまな遊び心(もしくは商業的見地からのカタブツ仕事)が見えてくる。持っている人は『ニューロマンサー』の表紙と並べてみれば一目瞭然。人物の構図も、背景の LSI 的模様も、『ニューロマンサー』に対するオマージュであることが見て取れる。
と、ここまでは蛇足。本題に入ろう。ギブスンの長編である。意図的なのか否か私には情報がないため判然としないが、その物語構成の一端は『ヴァーチャル・ライト』にそっくりだ。何か重要なもの、少女、そして逃避。最後にはご丁寧にも『ニューロマンサー』と限りなく近しいヴィジョンの視野が、いくばくか狭められた形で現出する。これは既にサイバーパンクという概念が現実という荒波に見事に押し流された後で、もう一度『ニューロマンサー』を語った場合の物語だ。少なくとも、あらゆる象形がそれを暗示している。結婚という名の「本来一緒になってしまってはならないモノ同士の惹かれあい」もそうだし、電脳空間に点在する〈城砦都市〉は、インターネットの殻を被った〈迷光〉であり、また〈マトリックス〉自身でもある。
明日は何を読もうか……。『変化の風』あたりがいいかしらん。
半袖でもいいぐらいに。このくらい過ごしやすいといいのだが、まあ湿気がかなりあったのでちと汗ばむのが難点か。
特筆すべきことも見当たらないのだが、強いていえばそろそろ平積みの本たちをどうにかしないと痛んでしまうからどうしようと悩んでいることぐらいか。
神林長平の短編集。そのほとんどが後年再編集された『鏡像の敵』に収録されているため、今日は主に『酸性雨』を読んだ。といっても他のものももう一度読んだのだが。まだ背の下が青ではなく分類番号が紫だった時代の代物である。1991年の3刷。
『酸性雨』は、よく神林氏が用いる刑事・探偵という設定を用いた、少しのハードボイルドと特徴的なキャラクター設定、独特のユーモアが組み合わさった小品だった。後にはずされたのは、少し展開に無理があるためだろうか。しかし一旦捉えたらぐいぐいと読ませる短編へのノセ方、畳みかけるような会話は非常によろしい。知っている人なら、『ライトジーンの遺産』を『敵は海賊』シリーズで薄めて『我語りて世界あり』をちょっぴり垂らした感覚だと思えばいい。オチはあまりオチらしくないが、背筋にぞくりとさせられるものをさりげなく含んでいる点に着目したい。ディックの読者なら、「アンドロイドになりきれなかった人間」……いや、違う。「アンドロイドになりかけて止まっていることにまったく気づいていない人間」を描いたものだと了解しても問題ないだろう。最後の最後で、「人間性」と呼ばれるものがいかに普遍的ではないかを思い知らされることになる。
さて、次は『あいどる』でも読もうかね。
早っ! 実家帰ったり色々ゴタゴタしてるうちに終わってしまう。もう……嫌になるね。まったく。
それでも収穫はあった。田舎に帰ったついでに、Nintendo 64 を回収。早速持ち帰って繋いでみれば、なんと! まだセーブデータが生きているうえに全てのカセットがきちんと動作してくれるではないか! 素晴らしい。伊達に頑丈につくっているわけではない。本体の置き場所には困るけれども、これでもう一度ゼル伝2作を再び楽しめたり、ゴールデンアイをやりこめたり、ブラストドーザーでイライラできたりするわけですな。今はローグ中隊をやってたりする。ホッパーでベガーズ峡谷を疾走するのは楽しいな。ウエッジと競争して接触撃墜しちゃったりするのはご愛嬌。個人的にはナブー・スターファイターが大のお気に入り。A ウィングとほぼ同等の巡航速度、メリハリのきいた加減速性能、TIE にも劣らないブラスター連射速度(と照準収束)。ちゃんと振動魚雷じゃなくてプロトン魚雷も積んでいる(高威力!)。シールドも X ウイング並。総合的にみて、ゲーム中最強の機体だといって過言ではない。ちなみに一番最悪なのはミレニアム・ファルコン。図体ばかりでかい上にブラスターの自動照準が無茶苦茶。最高速度は素晴らしいが加減速が酷すぎる。そりゃ耐久力はあるけどさ。とり回しがしにくすぎる。これに乗るなら、まだ Y ウイングの方がマシだ。2番目に酷い機体だけど。
さて、残り少ない時間で遊びまくるとしよう。
いやー。徹夜して読みましたよアジモフ自伝。正確には次の4冊に分かれている。
たかが自伝というなかれ。本人が書いていることはつまり、それがきちんとエンタテインメントになっているという意味に他ならない。ひとりの男が歩んだ人生を、その途中までとはいえきちりと描ききったうえに、笑いあり涙ありで読者に読ませきるという常人にはとてもできない業をやってのけるのがアジモフ先生。ああ……恐れ入りました。
あとで『ネメシス 上・下』も読もっと。
いやはや、何となく行っただけだった神保町で、今日はどうしてか欲しかったものがバシバシと揃ってもうウハウハなのだ。以下リスト(古本のみ)。
何といっても『アシモフ自伝』が掘り出し物である。いつも寄る書店で4冊セット ¥5250 であった。新品より激安である。しかも確か今では版元にもなかったような気が……。あったらあったでいいのだが、もう見つけた瞬間に「これは買わなければいけない!」と即決。ああ……もう……ワンダホー(某おねいちゃん風に)である。畜生。これでまた生活費が。
他のブツも前から欲しかったものばかり。例えば『時間触』は後に『鏡像の敵』として再刊されたが、収録作「酸性雨」が削られて+αだったので長らく「酸性雨」だけは読めずじまいだったのだ。もうそのためだけに買ったようなものである。
『ネメシス』はまだ未読であったアシモフの作品。今回はアジモフ博士がらみで発見が相次いだと思う。『変化の風』もまた然り。
『あいどる』は角川から出ている浅倉訳のギブスン作品のひとつ。残りはあと一冊、『ディファレンス・エンジン』だけだ。
さあ、ゴールデンウィーク中に読み漁るぞぉー!
『アニメがお仕事!』で有名な、石田氏の新刊コミック。またこれが面白いのである。人物造形もさることながら、押さえるところはきっちり押さえている。イジメに同性愛、ショタコンにサディスト、トランスジェンダーまで幅広く、しかもこれでまだ要素の一部分でしかない。展開は滅茶苦茶に急で、本編スピードはまさに怒涛の連続なのだが、マンネリをうまく回避しつつ、時折出てくるそれすらネタとして取り込んでいるあたりがまたあざといというか並の思考じゃ描けないというか。
ちなみに主人公の片方であるマサルには三人の姉がいるのだが、そのうちの三女である真央がまたね。ズガンときたというか。見事な女王さまぶりというか、ぶっ飛び具合が非常にいい。弟を押し倒して焦点の定まらない目で息を荒げる姿なぞ、純粋に凄いと思えてしまう。勿論その真央には焦げ付くまでの経緯がある。背景を短いながらもきちんと見せているところにどうしようもなく汚い現実が、まるでそれすらも虚構であると思いたくなるぐらいの滑稽さとして現出している。勿論話そのものは虚構(フィクション)でしかないが、その虚構に感情移入させられた後でふと我にかえった時に現れる虚脱感は、同時に密度の高いモノを読んだのだというどうしようもない満悦に繋がる寂しいものである。
『アニメが』の方も全巻買って読み漁った。生々しさと少しのファンタスティックが絶妙にブレンドされたその味わいは、一度読めば手放せなくなるだろう。
有給とれなくて間が入ってしまったが、これでようやく4連休。いやはや待ちどおしかった。これで積読だったブツを読み漁り、心おきなくキーボードと向かい合い、嫌というほど惰眠を貪り、神保町へお買い物にいける。
あ、その前に洗濯物干さなきゃ……。
『かめくん』でお馴染みの北野氏による、Jコレクション書き下ろし作品。この人の小説にはどこか根強い現実への執着が感じ取れるものの、しかし必ずといっていいほど漠然たる哀愁の中に沈溺した“何か”によって彼方へと追いやられてしまう。その感覚はまるで、脳味噌の裏側を、そのひだに沿って無駄にふかふかな毛だらけのスリッパで歩き回られているようである。わけわからんか。
その全てが夢であり、またあらゆる意味において現実ともなりうる状況が、そこにはある。ディックのそれとはまた違った意味でのパラノイア。「この世界は偽物なのではないか?」ではなく、「この偽物なんだかどうかもわからん世界でも俺は生きていけないのか?」という問いかけが、あらゆる場面で明示こそされないものの現出する。あまりにも能天気でお笑い要素たっぷりのオトボケ主人公たち(?)がいい味を出していることに異論はないだろう。
どうしてか、グログロな描写のあとには無性に西瓜が食べたくなってしまった。……穴と食欲と夢に彩られた北野世界は、堪能する価値アリだ。
COMIC1 の前日だっつーのにカコカコとデバッグやって止まらなくなってしまった DOM Tetris 2 へのゴースト実装も(問題点はあるものの)無事終わった。g キーで ON/OFF を切り替えられるようにしてある。ゴーストってなんだよという人は見てみるのが手っ取り早いだろう。最近の(携帯電話のものなど特にそうだ)テトリスには大抵実装されている機能だ。
このゴースト、確かにプレイヤ側にとって便利ではあるのだが、実装面ではかなり強引というかバカというか本当に文字通り力づくの方法をとっている。既に固定されたブロック・フィールド端にブロックが初めて接する座標がどこになるか算出する必要があるのだが、これ、その状況によって刻々と変わる類のものなので思いつきでは何もいいアルゴリズムが出てこない。二分探索にしちゃうと変な位置でヒットしてしまう可能性があるのでおいそれとは使えない。ハッシュ法はそもそも使えないというか無意味。必然的に私の乏しい脳味噌のレパートリーは線形探索という愚かしい方法を答えとして吐き出してくる。確かに対象に近づけば近づくほど計算しなくて済むようになるのだが……って、ちょっと待て。y 軸変化だけなら再計算しなくていいじゃないか。必要になるのはブロックが x 軸移動した場合であって、y 軸移動なら他要素が現出しない限り(つまりテトリスというゲームの範囲内なら)再計算の必要がない。あらま。つうか、ブロックをフィールドに現出させた時点で x 軸に対しループぶん回して全 x 座標に対するゴースト座標を計算すればいいや。専用配列にでもデータぶち込んどいてゴースト描画時にその座標参照すれば、1移動ごとのオーダーはたぶん O(2n) (n: ブロックのセル数) に収まるよ。生成時のコストはかかるようになるけど、移動のたびに計算するよかマシだ。……ちょっと実装してみよう。とりあえず今日はこのへんで。
まあぶっちゃけ同人誌である。既に連載化したこの項では初だ。しかしこの本は、何がなんでも紹介したいほど熱い。まさに字の如く燃えている[1]。この本もまたシリーズ化しており、2006年冬コミでは続編たる『魔砲少女フェイト・テスタロッサ』と『魔法少女リリカルなのは「闇の書」事件のエース』(同)も刊行された。私は後者2点を先に購入し、後で委託分の前者を購入した。
何が熱いかって、それは内容に他ならない。擬似(似非、ともいう)解説本とでもいうのだろうが、パラダイムが軍隊解説のそれである[2]。時空管理局という組織をひとつの軍隊として捉え、その前提のうえで解説が行われている。勿論、内容のほぼ全てが爆裂した妄想とバカ炸裂であり、これぞ同人! という濃さと面白さが同居している。モノクロではあるがイラストも結構枚数を費やしているし、その本文たるや私のような活字大好き人間にとっては感謝したいぐらいに多い。3冊とも薄さの割りにギチギチと中身が詰まった、とても食べ応えのある代物になっている。
TV 新シリーズ(StrikerS)も始まったことだし、夏コミの時期はいい具合にそれも終わっている頃。第4弾を今か今かと期待してしまう今日この頃である。