というのも、今使っているサーバがサービス停止するから。……まったく運がない。今必死に次の移転先を探しているが、見つかるまでにもう少しばかり時間がかかりそう。移転したら告知するんでお手数ですがブックマーク・RSS・アンテナなどの再更新をお願いします。
やはり安住の地を手に入れるには金が必要なのかな……。うう。ただでさえ金欠病なのに。
既に絶滅の確約された人間が住まう世界の中で、妖精と呼ばれるブッとんだ存在を観察するおはなし。しっかりと暗黒面をにおわせるエンディングがついており、なかなかに面白い。タイトル買いしたにしては当たりくじだったようだ。ちなみに主人公は何だかんだいって腹黒系である。あざとい。
ゆるやかで穏やかな、闘争と破壊が意味を成さなくなった状態は、まさに人類が滅びかけているからこそ現出しえたディストピアといえる。私はそんな世界に耐えられないからだ。つまり、スピードのない環境には。そのためにこの小説は、ただ読むだけでよいという安寧を得られる。
本日は肉の日である。29日である。どこぞのメーラーも29の日にリリースされる。そんなわけで GNU GPL Version 3、もうすぐ0歳のお誕生日おめでとう[1]。
GNU GPL 2 が「自由へ突き進む道」だとするならば、3 は「自由を守り通す道」になる。特に興味深いもののひとつとして、Tivo 化の阻止を挙げることができるだろう。
「Open Tech Press | GPLバージョン3へアップグレードすべき理由」では、Tivo 化を次のように説明している。
Tivo化とは、コンピュータ(「アプライアンス」と呼ばれる)がGPLのソフトウェアを含んでいるが、そのGPLのソフトウェアが変更されたことを検出するとアプライアンスが機能停止するため、事実上そのGPLのソフトウェアを変更することができないという状態になっていることだ。
Open Tech Press | GPLバージョン3へアップグレードすべき理由
例えば GPL の適用されたソフトウェアを下位システムとして利用するソフトウェアがあるとしよう。GTK+ を描画エンジンとして持つドローツールなんかを考えればいい[2]。しかし、GTK+ にそのドローツールの開発者でない者により何らかの変更が加えられたとする。バグフィックスなどでいいだろう。だが、もしドローツールに GTK+ の描画エンジン部バイナリを差分比較でき、「変更が加えられた」か否かを判断するルーチンが備えられたならばどうだろう。互換性の問題から、これは備えていても不思議ではない機能ではある。だがそれは、悪用すればいくらでもできる諸刃の剣でもある。
仮に、オリジナルの GTK+ にそのドローツール開発者が独自の機能を加えたとする。その機能は無駄で、あなたはすぐにでも削り取りたいような代物だったと更に仮定する。だが、先の比較機能によって、あなたが変更を加えた GTK+ をドローツールは認識せず、尚且つ「わざと」アプライアンス(すなわちコンピュータ)が機能停止するような機構が内蔵されていたとしよう。長々と書いたが、先の引用を少しでも具体化するとこんな具合になる。
では、この状態の何が問題なのか? 先にも述べたが、要するに使い方の問題だ。包丁は料理には欠かせないが、使い方を誤れば凶器となって人間を殺すことだってできる。それと同じ理屈である。
通常Tivo化を行なうのは、多くの人が望まないような機能をソフトウェアに含めた上で、そのような機能を削除されたくないとメーカーが考えている場合だ。そのようなコンピュータのメーカーは、フリーソフトウェアが与える自由を利用している一方で、あなたには同じ自由を与えないでいる。
Open Tech Press | GPLバージョン3へアップグレードすべき理由
(上記強調筆者)
GNU GPL Version 3 には、このような「Tivo 化」に対する防護措置が講じられている。詳細は、先程から挙げている「Open Tech Press | GPLバージョン3へアップグレードすべき理由」を読めばよい。
さあ、ストールマン御大が送り出す、久しぶりのメジャーバージョンアップ「ソフトウェア」だ。ハードディスクの後光を眼に焼き付けた者達よ。スパゲティー・モンスターなぞ屁でもねえ[3]。聖イグヌチウスの未来と、自由ソフトウェアの新たなる歴史の幕開けに、
まだ途中だけど。いやはや、ネビュラ賞候補作は面白いのだが、どちらかといえばかなり現代小説寄りすぎるというか、くぃっ、と捻りのきいたものが少ないというか。とはいえ冒頭初っ端にパオロ・バチガルピの『イエローカードマン』がででんときてたのだからコレは読まなければなるまい。2007年3月号に『カロリーマン』で『S-F マガジン』初お目見えの氏。ぐにゃりとしたクラゲの塩漬けを裸足で踏みつけたような後味は個人的に大好き。そういえばクラゲ食ったことあるっていったら「うそ?」とか言われた。逆に訊くが、なぜおまいさんは食べたことがないのだ。塩漬けで結構その辺で売られてるじゃないか……東京ではそんなにないのかな。コリコリとした触感は中華風ドレッシングとの相性バツグン。是非春雨といっしょにサラダでどうぞ……って何を言ってるんだ私は。
8月号は表紙が何だか違うテイストに。リアルめな朝鮮方面風の女の子に重々しい機械ですか。個人的にはもう少しうなじが綺麗だったらよかったのになぁと小一時間……いやそれも違うか。
スラッシュドット経由で W-ZERO3 で Linux を起動させるという話([es] のみ)。標準搭載の Windows がよくフリーズぶっこいてふざけんな状態らしいので、これは期待かも。携帯容易なガジェットとして寿命が延びた感覚。いいなー。欲しいなー。お金ないけど。X を立ち上げて Fx でブラウジングというのは……主記憶が許すだろうか。ううむ。せめて GNU Emacs は使ってみたいな。
単行本と同じ、ベルメールの人形写真が表紙。内容的には、ただのエログロナンセンスではなく、きちりと一人の女性がそこにいるといった趣。一般的には低く見られる類の人間が、実際のところ物語世界において一番の常識人だったりする。というより、男共があまりにもアレすぎなのだ。その対比と主人公アヤの魂(ゴースト)が声なく叫ぶ嘆きを聴き取れれば、この作品の説明をする必要はなくなる。つまるところは貶められる自己の記録である。
単行本はそれなりに厚かったのに、一旦文庫にしてみればあら不思議。意外なほどに分量は短い(つまり薄い)。一時間ほどで読み終えてしまった。とはいうものの、『蛇にピアス』同様しっかり読ませる。娯楽としての小説としてしっかり機能しているのも素晴らしい。そのうえで乗っけるものは厳選している。
巻末の斉藤環氏の解説にも目を通しておくべきだろう。傷跡についての考察が短いながらも綺麗にまとまっている。ベルメールの人形と関連情報にも言及している辺り、さすがに『波状言論』の発端となっただけはある。周辺情報をきちりと押さえておくことも解説には求められることだ。まあ、言及のある『イノセンス』は、押井監督のエネルギーがきちんとガス管を通らず水道管に流れ込んでしまったような結果になったのだが……。それは別の話か。嫌いじゃないんだけどね。『イノセンス』。
書くこと? もう本のことしかねーや。だってそれ以外は馬車馬のように働いていただけなのだから。あとこうやってキーボードと真に向かい合っているだけ。前者はちょっと勘弁してほしいが(その仕事が素晴らしいものならば問題はないが……)、後者はいくらでもどんとこい。どこぞの大博士は言った。死ぬときはタイプライターのキーに鼻を突っ込んで逝きたいと。いいことだ。
はいコレ。ようやっと完読。いわゆるオムニバス形式で紡がれるとっても「漠然と大きな」物語。いや、そもそもこれは物語の構造をなしていない。寓話ですらない。それが何故かを書いてしまうと完全にネタバレ(と呼べるかどうか)なので割愛するが、ともかくこの「本」には誰もがしてやられることを請合う。何しろ、小難しいことをぜんぶうっちゃって読んだだけで面白いのだから。
強いて言及するなら、「構造」を非常に意識した作品であるといえる。『Self』で語られる世界は、基本的に多次元の積層を前提とした状態構造である。そこには真と偽が同時多発的に無限個存在しうる。パラドクスの雨あられといった具合だ。そんな「意味を追うこと自体の意味すら危うい」脆弱で美しい在り方の中では、あらゆる事象平面がそれこそ花のように咲き乱れ、全体の「構造」を創り出している。語られる言葉も決して意図的な難解さには満ち満ちておらず、その点でイーガンとは異なる方向性を持つ。語り口は平易といってよいし、かくあるべきであり、そしてそうでなければならない理由が存在している。それは堅苦しさすらも笑いの種に変える前提条件だ。登場人物・知性体が揃いも揃って能天気極まりないのもいい。人工的な知性体でしかないのに、愛らしさすらあるのだ。ある意味素晴らしい。
欠点を持ち出すとするならば、いささか表現が冗長に過ぎるきらいがあるというところか。幾度か必要以上の弁舌が頁を覆い、退屈の雁首が頭をもたげてきた。テーマ的にも不必要だと思われるところだ。
だがそれは、逆にいえばその点さえうまくあしらえるような作品を書くことができたならば、それこそ完全なる最高傑作になりうるということだ。外的世界も内的世界も全部ひっくるめて SF している、かなり珍しい類の作品でもある『Self』。ともかく読んでみても損はないだろう。
月を乗り切ったら銀行口座の中身がどえらいことになっていてあらたいへんどうしましょうといいつつも、1日の食費を自炊なしで800円に押さえて生きている今日この頃ですみなさんこんにちは。まあ表題どおり、Safari の 3.0.2 が出てましたねおめでとうこれで日本語(というより多バイト文字)もバッチリだね。
しかしこの情報も鮮度がいかんせん低い。既にインストールしてから2日ぐらい経過している。情報の鮮度はせいぜいもって1日程度だよねという話を職場でしたら、「それはいくら何でも早すぎ」と言われてしまった。確かに劣化しないものもあるが、現代のそれは大半が一過性のもの。1日だって遅いぐらいだ。
現在『Self - Reference ENGINE』を読んでいる真っ最中。まだ半分ぐらい。意外と文章の密度が高く、読み応えがある。無論、情報量という観点で捉えた場合、かなりのノイズが含まれているのは事実だ。それも意図的に。これはもう悪意といって差し支えないだろう。まあその他諸々は読み終わってから。
何だか天気が悪い……週末は晴れてくれるかな。敷布団干したいのに。
メインディッシュのおつまみ程度に。初めて読んだのは高専時代1年の頃。寮居室の隣人に借りた。いわゆるライトノベルレーベルの文庫と少女コミックを大量に持っていた。はじめてのことだらけだったような気がする。ともあれそこで読んだ一冊が『キノの旅』だった。
『キノの旅』は、ちくちくと人間の倫理と論理を刺激する。そしてそれは、諦観とも違う、キノという旅人の近傍から立ち上ってくるものだ。キノは基本的に何もしない。何かをしようとするわけではない。絶妙な距離感が、読む者の無力感を増長させる。だが結局のところ、そこにはただの描写しかない。情報をどう受け取るかは読み手次第。無論、ミスリードや感情移入操作も随所に見受けられる。ところが、それを取り払って真っ向からでも斜め上からでもいいのでとにかく物語を「観察」すると、あるのは今この現実にある全ての要素の凝縮だと理解できる。わかりやすく、だがあえて声高には主張せずに据えているだけ。小説ってのはそんなもんだろうというが、『キノの旅』シリーズでは圧縮がことのほか綺麗だ。最近作になるにつれノイズも増えてはいるが、それすらも確かに圧縮されるべき「世の姿」であることに変わりはない。
『立喰師列伝』が出たかと思ったら、(かの人にしては)かなり早々に新作『スカイ・クロラ』の情報が上がってきた。いやはや、公開までが楽しみである。必ず劇場で一度は観ることにしようと思う。
愛犬ガブリエルを昨今失った押井氏なので、その影響がどこかには出てくるだろう。それも含めてどういった作品に仕上げるのかはとても興味をそそられる。
何となく短編をぱらぱらとめくりたくなったので、『ゴールデン・マン』を引っ張り出して読んでいた。かの『ヴァリス』を書く上でキーポイントとなった当該短編集の『まえがき』は、その情報の真偽も含めて様々な議論が沸き起こったという。全てがディックの一筋縄ではいかないフィルターを通っているため、全てを事実であると断定するわけにはいかないのだ。ただひとつ言えることは、それがディックにとっての真実のひとつであり、そのように書かれているということである。読めば絶対に彼の感情空間へ強制移入させられるのは請け負おう。それがディックの、他の作家では考えられない特質なのだから。
この短編集、今でも入手は容易なのだろうか? 私が持っているのは、昔『マイノリティ・リポート』が発表された時に行われていた早川書房のキャンペーンで書店に並んでいたものである。1995年の3月、3刷。コンスタントに売れていれば増刷もされただろうが……書店に並んでいるのを最近見たことがない。数はたくさん出ているはずなので、古書店では大体見かけるが。
当時はよかった。ずらりと平積みされたディックの本が、私をいつも待ち構えていたのだ。学生時代の話なので、金を工面するのに困ったが、それでも目を輝かせて大量のディック作品をレジに持っていったことを覚えている。Amazon を使えない頃だったので、書店で大量に注文し、版元品切で15冊中7冊ぐらいしか手元にこなかったのを覚えている。書店の人に「図書館の方ですか?」と訊ねられたのもいい思い出だ。完全に顔を覚えられていたし……。一般的には高校生の時代なのか。高専にいるとどうも感覚が違う。店員に顔を覚えられていて、カウンターにいくと「何の用件でしょう」ではなく「どういったご注文でしょう」と言われる高校生じゃなくて高専生って……。
今でもその情熱は変わらない。いや、年を経るごとにますます増長しているきらいがある。以前なら躊躇したであろう高額古書も、後先考えずにレジへ持っていくようになってしまったし。ま、いっか。
大事件である。SF 者にとっても、誰にとってもこれは間違いない。既に各地で既報かつ古い情報(公式サイトにも掲載済)ではあるが、もうこれは書かずにはいられない。何故って、ソノラマのラインナップには堂々たる面子が名を連ねているからだ(菊池秀行や笹本祐一といった超大御所)。ライトノベルと現在呼称されている分野を開拓してきた歴史も持ち合わせている。ただ、昨今はなかなか新刊が出ず、苦しい状況にあったようだ。
何より残念なのは、そこに神林長平の作品も含まれていること。ソノラマ文庫から『永久帰還装置』『ライトジーンの遺産』が出版されている。どちらも入手済だが、非常にいい作品であり、特に『ライトジーンの遺産』に至ってはもう
大御所の作品も読みたいのに、金がないから勿論変えない。優先順位も微妙。だがレーベルは会社ごと消えてしまう。……まるでサンリオと同じ状況ではないか! 今のうちに買いためておくか? プレミアを期待して? ……そんな欲にまみれたことをいっている暇はない。入手しなければ! なくなるのだ!
とはいえ、朝日新聞社が版権その他を引き継いで出版を行うと発表にある。その点ではサンリオより上手だといっていいだろう。少なくとも、完全に無に帰するわけではないようだから。だが、懸念点は多い。果たして現在刊行されている全ての作品が朝日新聞社から入手できるようになるのか? とても不安なのも事実だ。
ああソノラマよ。ついに歴史の闇へと没する時が来てしまったのか。願わくば、その名だけでも(できれば作品も)後世に語り継がれんことを。
勿論読書はコレですよ。これしかないのです。
今回は少し毛色を変えており(アプロはいままでのままだが……)、それほど海賊課の面々が表に出てこない。むしろどちらかといえば脇役に近い扱いになっている。というよりも、本来脇役であるべき出演陣が、かなりの自己主張をもって全面にバシバシと出てきているために、海賊課の面々ともある程度互角に張り合えているといっていい。特にリジー・レジナはタフで、かなりの魅力をもって描かれている。思わず惚れちまいそうだ。
初期のシリーズよりいくばくかスラップスティック色が弱くなっているものの、しかしそこに侵入した重厚なるイナー・ワールドが作品をより高みへと押し上げている。どちらがいいといわれても、どっちも神林作品の魅力なんだから仕方ないじゃないか。バカ笑いがしたければ比較的初期の『敵は海賊』シリーズでも読むか、『死して咲く花、実のある夢』や『今宵、銀河を杯にして』『宇宙探査機 迷惑一番』『親切がいっぱい』あたりを読むがいい。個人的おすすめは『今宵、銀河を杯にして』。『宇宙探査機 迷惑一番』もいいが、完成度でいったら『今宵』の方が上。いやもう、抱腹絶倒のバカコンビ+1両の、それでもファンタスティックな終末に向けての物語を楽しめる。
さて……次はようやく買ってきた円城塔氏の『Self - Reference ENGINE』(早川書房)でも読もう。こう見えても流行には敏感なのです……。偏ってるけど。本気で面白そうだと思ったのは事実だが。
これから読む。絶対読むんだ。邪魔はされたくない。
今日は久々の〈敵は海賊〉シリーズ新刊、『敵は海賊・正義の眼』(神林長平 ハヤカワ文庫 JA)を買ってきた。いやもうね、どれほどこのときを待ったか……。しかし、次回作は『敵は海賊・昨日の敵は今日の敵』というタイトルになる予定ではなかったか。まあいいや。途中で趣旨を変えたのだろう。5年も経ったのだから、それも当然だ。
5年! 私が神林長平の著作と出会う前の話だ。なんだかんだいって、まだファンになってからの年月は浅い。たかだか3年程度である。それでもハヤカワ文庫から出た作品は全て読んだ。徳間やソノラマ、中公から出ているものも。あと読んでいないのは、多分雑誌掲載作で単行本化も文庫化もされていないもの。流石に古雑誌を集めるには優先順位が必要でして……。ちなみにトップはディックの書籍。それは今でも変わらない。
明日の〈今日の読書〉はこれで決まりやね。
ネット上でも既に色々話題になっていたりする、ユリイカ増刊号による全面特集。過去には素晴らしい P・K・ディックの特集(『ユリイカ 一月号 特集*P・K・ディックの世界』 - 1991年)を組んだりもしている。毎月買っているわけではないが、興味を惹かれる特集の場合は購入するようにしている。
まだ 3/4 くらいしか読んでいないが、いつもながらかなり読み応えがある。対談と論考が当然メインなので、全く腐女子文化に接点がない私でもある程度の知識を得ることはできる。無論、体感することはできないのだが、まずは知る(識る)ことからすべては始まる。興味が少しでもあるなら、突き進んでみればいいのだ。引き返せなくなっても、引き返したくなっても、退き返ざるを得なくとも、そこに虚無が生じなければよいのだから。
それにしても、ユリイカはかなり時事ネタをいいタイミングで特集する。本誌6月号の上橋菜穂子特集にしてもそうだ。神山監督の手でアニメ化され、放映真っ最中という時期。放映前でもなく放映後でもない。
うう……それにしても、本棚欲しいなぁ。もう山積みにされた本たちが悲鳴をあげている。しかしこの部屋にもうひとつ本棚おくと生活スペースが……。
初めから電脳空間(といってもメガネ必須)が出てくるうえに色々と具合がよろしいという話を耳にしていたので初回から毎週楽しく観ていた『電脳コイル』。NHK だからほとんど録画ミスの可能性もなく、話もよければ絵も問題なく、しかもいい具合にジュヴナイル SF している良作。
どうも最近 Web 上では絵師によって描かれることが増えたようで……。巡回してるとちらほらと見受けられるように。そんなにおまいらメガネっ娘が好きか。ドSが好きか。個人的にはメガネのフレームがちと単調すぎて(その性質上仕方のない設定ではあるのだが)物足りないが、別の見方をすれば視聴者に媚びすぎていないともいえる。まあ小学生だし。オサレメガネなんぞをかけてる、現代のありのままの状態をそのまま投影してしまうと逆にリアリティが薄れるからという理由もあるのだろう。だから納得はしている。
単に電脳空間内でアレやコレやとするのではなく、その影響が現実世界と渾然一体と化し、特にアニメーションというメディアで訴えやすい「視覚」に着目したのはかなりいいのではないかと思う。恐らく触覚にもある程度の影響を及ぼしている(電脳ペットに対する描写からの想像)。そこにあるのは「現実」と「虚構」の入り乱れた姿……ではなく、「情報はすべて存在すれば現実と化すが、システムの都合で差異が露出してしまう不完全な現実認識」が描かれている姿である。最早『電脳コイル』の世界では「現実」と「虚構」の差異に意味があるわけではない。「虚構」として創作された情報はすべて「現実」にフィードバックし、「現実」もまた「虚構」へと反映される(バスの墓場でのシーンが印象的)。そこには「現実を模倣する虚構」と「虚構を模倣する現実」が同時に存在し、しかし人間という不確定要素を間に挟むことで様々な「ズレ」を生み出している。「ズレ」の象徴的存在として現れるのが、メタバグであり空間の断裂なのである。
電脳空間、特に膨大なネットワークを縦横無尽に駆け巡る様を描いた『攻殻機動隊 S.A.C.』シリーズとは別の道を歩んでいる。英断というべきだろう。日常という名の脆弱きわまりない普遍要素に、模倣子を含んだ虚構を垂れ流し続けた結果が、『電脳コイル』の舞台であるといえる。
特徴的なのは、視点が小学生寄りなのも手伝ってか、「ハッカー」や「クラッカー」といった、ハッカー文化に由来する語彙がまったく登場しないという点だ。勿論「メタバグ」などの用語は出てくるものの、どちらかといえばゲーム機の調子が悪いときに子供が口にするであろう「こいつ、バグったか?」的なニュアンスが強い。数々のクラックツールを販売しているのが駄菓子屋然とした店で、その店主は筋金入りのクラッカーでありハッカーである。随分とまた魅力的な設定ではないか。子供の頃、小銭を握り締めて菓子やおもちゃを買いに行った駄菓子屋の風景そのままなのだから。扱っているものが違っていても、そこに溢れる遊び心までは変わらない。店主がババアであるという点も。
登場人物の扱いもスキルによって変わっている。フミエやイサコはクラックツールを使い、本格的電脳戦を繰り広げたりするというワクワクさせる展開をもたらした。それも、道具に使われるのではなく、きちんと使った上で自らの能力も生かしている。いっぱしのクラッカーだ。対してダイチ率いるダメダメ男組は完全にスクリプトキディの集いでしかない(約1名、家系なのかいい直感を持つ者もいるが……)。そんなヘタレがモノホンのクラッカーに勝てるはずもなく、結局はイサコとの闘争に敗れ、哀れ子分の身となってしまう。うわ、こうして書くとハラケン以外の男は皆不憫な目に。これは悪意か。
時間がないので今日はこれまで。
久しぶりに『いたずら』を再読。やはりディックのプロットはヴァン・ヴォークトの血を濃く受け継いでいるなぁと再認識。でもそれはこの長編が初期のものであるから特にそう感じるという話。内容の突飛さは少し抑え目で、『偶然世界』よりかは大人しい。しかし何といってもエンディングに至るまでの、後半怒涛の展開は見物。『虚空の眼』や『タイタンのゲーム・プレーヤー』にも通じる急激な場面展開とプロット転換、こじつけがましい(つまりは不自然な)話の流れがそこにはある。後期の作品と比べればさすがに脇役の感情描写がお粗末なのはいただけないが(そんな脇役が重要な役を担う羽目になるのだからなおのこと目立ってしまう)、それを補って余りある急展開。そして、最後に仕掛けられるとんでもなくビッグで無茶苦茶な、最早いたずらの行き着く先といった感のある仕掛けが実行に移される。ラストはその勢いを殺さず、これがとても秀逸。逃げないのだ。あまり詳しく書きすぎるとネタバレなのだが、これだけは言いたい。これほどオチが素晴らしい小説はなかなかあるものじゃない。傑作ではないが、秀作というべき代物だ。ディックの魅力を少しでも理解できたのなら、迷わず読むべき良作である。
『いたずらの問題』は、創元 SF 文庫ではじめて翻訳された作品である。No は 11。そして、巻末には訳者(大森望)のあとがきと、ビッグネームの解説が付されている。創元版の『暗闇のスキャナー』帯つきを買った人なら知っているだろうが、その名は宮部みゆき。残念ながら私はかの人の作品を読んだ事はないが、名前ぐらいは知っている。この解説もなかなか読み応えがある。
しかしこの『いたずらの問題』、残念なことに近年の創元 SF ディックラインナップからは削除されている。つまりは絶版ないしはそれに類する扱いを受けているということ。是非とも再版してほしいものだが……。神保町では比較的見かけることもできるので、古本としてそこそこの数は流通していると思われる。多分初版しか刷らなかったであろうから、そこまで多いわけではないだろうが。サンリオよりはマシだろう。多分。
次に引用するのは、ディック研究者グレッグ・リックマンによるインタビュー集 "PHILIP K. DICK : IN HIS OWN WORDS" (FRAGMENTS WEST/THE VALENTINE PRESS) に掲載されたディックへのインタビューの中から、ディック自ら長編についてそれぞれ説明を加えている部分を大森望氏が妙訳し、『去年を待ちながら』(創元 SF 文庫)巻末に付したものである。
「この本はおもしろい。自分の本質というか、主流文学的な要素のいくつかを SF に移そうとしているからね。『偶然世界』と比べると売れ行きは落ちるし、たぶん質のほうも落ちるだろうが、あれよりもうちょっと実験的で、もうちょっとオリジナルだ。その証拠に、いくつか変わったことをためしている。人物描写は進歩しているよ。
おもしろいことに、この小説はドラッグを扱っている。ドラッグを扱ったものとしてはおそろしく早い。ドラッグ・サブカルチャーなんてものが生まれるはるか前のことだ。おもしろいだろ、五五年に書かれたドラッグ中毒小説っていうのは? ドラッグのことなんかほとんど知らなかったもんだから、登場人物はカプセルでヘロインを飲む始末。ヘロインが注射するものだとは知らなくてね」
『ディック、自作を語る』(『去年を待ちながら』所収)
えー……正直、本と仕事の記憶しかないってどうなのよ。前者はともかく。いかんな。無気力は色々な意味で危険だ。
仕事で Wiki 使うと云々という話があるが、あれはあれできちんと管理運用しないと全く意味がない。誰でも書き込めるということは即ち、「誰かが書いてくれるだろう」という思考の温床になりがちということ。しかも整理整頓された情報があるとは限らない。肝心の情報がない。そしてそれを書き込もうとしても肝心な部分で権限がない(別チームだから)。そして結局は口伝とメールの山から発掘する羽目に。なんじゃそりゃ。
明日も明日でまた厄介なだけでどうにもならん。……昼休みは『いたずらの問題』(フィリップ・K・ディック 創元 SF 文庫)で気晴らしでもするか。
ようやく読んだよといった感覚。今月号は Nippon 2007 にあわせて本年度ヒューゴー賞候補作がどどんと訳載されている。実に素晴らしい。個人的にはショート・ストーリー部門候補作の『八つのエピソード』を一番面白く読めた。筆致は完全に解説調だが中身はばっちり SF している。静かな、しかし力強いオチも好み。半分まで読むとくだらなさにあくびが出てくるが、もう半分を読むとそんなものはすっ飛んでしまう。加速のタイミングが実によろしい。
他の掲載作、ノヴェレット部門候補作の『きみのすべてを』、同部門『夜明け、夕焼け、大地の色』、ショート・ストーリー部門候補作の『同類』、同部門『見果てぬ夢』、ほぼ全てに共通するのが「感傷」の雰囲気だ。かなり叙情的な要素を多分に含んでいる感がある。ポスト・サイバーパンクの無機質さに対する反動保守といったところだろうか? とはいえ『ディアスポラ』にだって感情的側面は多分に存在しているし、そうでなければ物語構造そのものが崩壊してしまうのだが……どことなくニューウェーヴ時代の匂いが漂っているような気がするのは気のせいだろうか。それも、冷戦当時の緊迫したものではなく、もっと諦観的な何かが前面に出てきているとは思える。
おっついていないので使っていない。だが、レンダリングその他の部分に関しては申し分なし(スクロールしてもウチの固定メニューがブレなくなったのは大きい)。gdi++ も有効。もう少し……もう少しだ。はやくベータにならないかな。そうすれば、もっと拡張機能の方も対応度を増してくるだろうし。
Safari がマルチプラットフォーム対応になることが大ニュースとなったが、それも仕方ないことだろう。KHTML の流れを汲むレンダリングエンジンが Windows 上でまともに使えるようになる日がくるなど、誰も予想していなかっただろうから。Adobe AIR (Apollo) はフロントエンドが UA じゃないし……。そうなるとやはり、テスト環境としては Windows 優勢? 前は Gecko, KHTML, Presto が勢ぞろいしていた Linux 環境だったのだが。IE は Wine 経由で一応使えていたし。最近は使っていないが、前は結構不安定だったっけ。今はどうなんだろう。マトモにはなってるだろう。
久しぶりに上遠野氏の小説を買った。といっても、モノ自体は2000年の刊行なので古いといえばそうなる。ミステリには違いないのだが、世界背景は完全に上遠野ワールドのそれ。年代的には魔法が一般人でも訓練すればそれなりに使える頃。そこで竜族の一体が殺害されたという出だし。最後の謎明かし部分がどうにもこじつけ臭い感覚がして仕方ないが、全体的にはそこそこまとまっていた。一応読者へのヒントも隠蔽されたものはなかったわけだし。私はあまりミステリに詳しくないが、それでも文中に何も手がかりがないのに推理が行われるのには我慢ならない。ちなみにアジモフ先生の『黒後家蜘蛛の会』シリーズは大好物である。
イラストの絵柄どこかで見たなと思ったら、案の定あの『ペルソナ』シリーズの金子一馬氏である。独特の、どこか能面じみた顔は非常に印象的だ。
VL ゴシックフォントファミリを利用して、意外と簡単にできた。方法は最速インターフェース研究会にあるやつ。フォントファイルと WebKitPreferences.plist
を変更して何とかしてみた。
WebKitPreferences.plist
は、そのフォント関連の項目を適宜書き換えただけ。例えば VL PGothic などにした。その前準備としてフォントを用意する必要がある。
ttfname3 を使い、VL Pゴシックや VL ゴシックになっている部分をすべて ASCII 文字のみに置き換え。手っ取り早く VL PGothic と VL Gothic。あとは、本来の VL ゴシックファミリを既にインストールしている場合に問題となるのだが、Windows では「同じバージョンのフォントをインストールしようとしてるよ」エラーが出るためほんの少し別の部分を変える。要は異なるフォントであると認識すればよいのである。UniqueIdentifier
、FullName
、PostscriptName
の Regular を Original に変更した。あとはフォントファイルを再生成し、インストールを行うだけ。別のフォントであると認識するようになるからすんなり入れられる。
改めて Safari を起動……。うむ。いい感じに仕上がっている。いずれきちんと多言語対応したら前述のハックをやめ、ファイルを消すべきであるが、今のところはこれでいく。
個人的に、今一番お気に入りのフォントがこの VL ゴシックフォントファミリ。よく手入れされている上に、字形もさほど汚くない。むしろ読みやすい方の部類。そして何よりライセンスが(ややこしいながらも)プロプラエタリでないものということだ。言ってしまえば「無料」で使えるということ。「自由」であるかどうかはちょっとわからないが……。少なくとも、フォントにつきまといがちなしがらみが相当軽減されているといっていい。常用するにもってこいだし、現にそうしている。xyzzy の日本語フォントは VL ゴシックだし、Firefox の sans-serif、monospace 用フォントとしても活躍中。但しビットマップデータを持たないので、Windows 上での利用には gdi++ が必須。だが、逆に gdi++ と VL ゴシックファミリの組み合わせはとてつもなく魅力的で、かつ強力なものだ。永遠にジャギーから解放されるのは素晴らしいと、今更のように気づかされる。
いわゆる「大久保町三部作」の2作目である。1作目『大久保町の決闘』もまたぶっ飛んだ代物で、非常に面白かった。どうして『ミッションスクール』を嫌ったんだ某誌読者よ。まあそれで早川書房の編集部が目をつけて文庫化できたのだから、よしとするべきなのか否か。微妙なところである。
さてこの『大久保町は燃えているか』。田中哲弥作品の特徴である全体的な倦怠感と能天気な(ネジにマヨネーズ塗っちゃったような感じ?)主人公、典型的美少女にもうこれでもかというぐらい個性溢れまくりな名脇役たちが入り乱れ、極上のお笑いエンタテインメント作品と化している。もう考えるな。笑えばいいのさ。確実に人間の、それも普段はあまり触れられないような笑いの琴線をいやらしーくなぞってくれる。もうナチスに統治された日本のいち行政区域大久保町という設定自体が物語っているように、デタラメぶりは折り紙つき。それでも全体でみればプロットは破綻していないし、時折ヒヤリとさせられる本物の「真面目な」陰謀や裏切り、「劇」を最大限に志向した場面展開など、きわどいところで「キワモノ」とは違うバランス感を保ち続けている。これはなかなか真似できるものではない。笑いとシリアスの共存は、思ったより難しいのだ。どちらも根源は同じであるからに他ならないが、何より読み手にどう「判断」させるかがキーになる。
田中哲弥氏は、他にも『やみなべの陰謀』(ハヤカワ文庫 JA)、『ミッションスクール』(ハヤカワ文庫 JA)といった短編集を上梓しているほか、古本でしか入手できないが L・スプレイグ・ディ・キャンプの小説 "The Fallible Field" を翻案したとでもいうべき翻訳、『悪魔の国からこっちに丁稚 上下』(電撃文庫)も出している。この『丁稚』、抱腹絶倒の面白さなのでオススメである。1997年頃の刊行(まだメディアワークスが主婦の友社の流通ルートを利用していた頃!)ではあるが、Book-Off にいけば比較的見かける可能性は高い。現に私は近所の Book-Off で購入した。
ついにやりおった。AppleWebKit が Windows 上陸。まだベータ版という扱いなので、物好き以外は触らないほうが無難。早速インストールして遊んでみよう……。
って、日本語表示全滅じゃないか。アッチョンブリケ。……やる気なくすなぁ。それでも色々表示させてみたり。さすがに Windows 用のソフトもたくさん開発しているだけあって、動作ももっさりしているわけじゃないし(すっぴんだから当然というのもあるが)、何より驚いたのはデフォルトでフォントのスムージングがかかっていること。なるほど、Mac OS X の「それらしさ」を持ってきたわけですな。
しかし、個人的にはどうにもスムージングの具合が気に入らない。ボンヤリしすぎている。もっと引き締まった、シャープな感覚が欲しいのに。それこそ gdi++ の出番。だが、残念なことに Safari は強弱の設定はできても「無効」(none) の指定ができない。また、スムージングかかった状態で gdi++ をくぐらせても何も変わらない。何だかなぁ……かゆい所に全然手が届かない感じ。Preferences の調節で Light にしてもあまりボンヤリ感は消えなかった。もっと細かくセッティングできないものか。せめて GNOME のフォント設定ダイアログぐらいには。あれでも大雑把すぎるけれど。
……そういえば Safari って Gecko の about:config のような設定機能はないのかしらん。ツールは検索かければ色々(SafariStand や Safari Enhancer といったもの)出てくるが、どれも Mac OS X 用のご様子(当たり前だ)。暫くは様子見ですかね。
相変わらず常用 UA は Firefox のままなのでした。もう拡張機能なしの生活には戻れない。
追記。日本語文字列が全滅なのは、どうやらフォント名の問題らしい。ASCII 以外の文字列が使われているとダメなのだとか。最速インターフェース研究会に情報が上がっている。…….plist 変えるだけか。結構楽だな。よし。あとでやってみるべ。
近年のル=グイン(グウィン)読者層には大別して3つのグループがあるという、非常に個人的かつ偏見多き見解が私にはあったりする。まず1つは、いわずもがな純粋なル=グインファン。既に古参の部類に入る作家なので、その作品を読んだ人間は数多い。2つめは『ゲド戦記』から入ったが、それしか読んでいない人種。理由は……ま、アレのせい。ちなみにジブリ版(というか、息子版)は全く興味が湧かなかったので未だに観ていない。1回ぐらい観てもいいかな? ま、そのうち暇ができたらってことで。
そして第3の分類。それは P・K・ディックファンだからというパターン。実は私はこのカテゴリだったりする。……なのでまだ2冊しか読んでいない。にわかもいいところだ。だが『闇の左手』が思いのほか面白かったので、続いてみようかとも考えている。
今日はディッカー(?)ならおなじみのル=グイン作品、『天のろくろ』を何となく読み返した。例によって長大なことで知られる、サンリオ SF 文庫のあらすじから引用してみよう。
オアが精神医ヘイバー博士の前に現れたのは治療のためだった。現実とは違う夢を見ると、その通りに現実が改変されてしまう。そして、その場にいた者以外の全ての人の記憶をも遡って作り変えてしまう。とオアは話し始めた。途方もない話だったが、博士は研究したい種類の眠りが自由に得られる増幅器を使って、それが本当であることを確認した。次第に博士は、治療はさておいて、この夢の力を世界を改善する武器に利用しようと考えるようになった。オアは博士の暗示によって、人口過剰が現代文明と全地球の生態系を脅かしていることに悩み、疫病によって高く積み上げられ、葬られた死体の山を夢に見た。オアが目覚めると診療室の窓からは塔の群れが故のように薄れ、痕跡もなく消え失せるのが見えた。それまで人口過剰の地球上には食料も充分にない70億の人々がいたが、汚染癌によって10年前から60億の人々が死滅していたという記憶に作り変えられていったのだが…
『天のろくろ』あらすじ
ディックはこの『天のろくろ』を読んだ感想を、次のように端的に表現した。
すばらしい小説であるだけでなく、この世界の理解のためになによりも重要なもの、それはアーシュラ・ル・グインの『天のろくろ』です。この小説では、夢の宇宙があまりにも印象的に、説得力を持って表現されているので、余分な説明を加えるのはためらわれます。説明の必要はまったくないのです。
『人間とアンドロイドと機械』(フィリップ・K・ディック 『解放された SF』(東京創元社)所収 P298, 299)
ディックが賞賛する理由は色々と挙げればキリがないが、何より『天のろくろ』がとてもディックの小説と似ているからだろう。プロットも破綻していないし、構成は見事にまとまり、最後の叙情的な幕引きにゆるやかな曲線を描いている。人間以上に人間くさく、思慮深い異性人も出てくるし、主人公の男が力こそ持っているものの自分では制御できないどうにもならないもので、それがなかったら単なる落ちこぼれの優男でしかないという面もよく似ている。ル=グインによる『荘子』の独自解釈結果、というのがいちばん手っ取り早いだろう。因みにディックはル=グインと個人的な親交(文通仲間)を持っていた。『釈義』には度々ル=グインの手紙などから引用や解釈を書き連ねている。
この『天のろくろ』、最近復刊したらしく、ハードカバーではあるが入手が簡単になった。喜ばしいことだ。「ブッキング」という出版社から2006年4月に刊行されている。訳者はサンリオ版と同じ。とはいえサンリオ版もまだまだ入手できる状態にある。しかも、恐らく今の相場なら1500~2000円ぐらい。ハードカバーが2500円+税。まあ、それでも刊行当初が380円だから、5倍以上にはなってるんだけれども。10倍でないだけマシだな。うん。
文庫本の話。最近の文庫本はどんどん活字の大きさが増大する傾向にあるらしい。と、『大久保町は燃えているか』(田中哲弥 ハヤカワ文庫 JA)を読みながらふと思う。そうだなぁ……。例えば神林長平の作品(のうち、ハヤカワ文庫 JA で出ているもの)を手にとってみる。適当に『狐と踊れ』と『今宵、銀河を杯にして』、最後は『小指の先の天使』をチョイス。文字の大きさだけでなく、ページの文字数まで違う。何か基準でもあるのだろうか。
発行年 | 書名 | 行数 | 列数 | 頁最大文字数 |
---|---|---|---|---|
1981 | 『狐と踊れ』 | 17 | 43 | 731 |
1995 | 『今宵、銀河を杯にして』 | 18 | 41 | 738 |
2006 | 『小指の先の天使』 | 17 | 39 | 663 |
古いものほど密度が濃いように思えるが、そうではないことが判明。意外と『今宵、銀河を杯にして』が高密度。そしてやはりというか当然ながら最近刊行された『小指の先の天使』が低密度。余談だが、『膚の下』は 18*40 なので『今宵、銀河を杯にして』とほぼ同じぐらい。……作品容量の要請にあわせているのだろうか。長編はさすがに上下2分冊以上はやりたくないだろうし(どこぞの妖怪だしまくり作家とか電撃文庫でムチャやった作家とかハインラインの異星からの客人物語とかの例外もあったりするけれども)。
個人的にはあまり活字が大きすぎると逆に目が疲れるので、適度に小さくあって欲しいと思う今日この頃。
えー。物議云々という話もあるが物語としてはとてもオーソドックスな代物。ご都合主義と延々繰り返される口調のギャグ、ありがちな主人公への女性感情集中、ぶっ壊れてる(いわゆるヤンデレ)彼女に幼児退行、殺人監禁虐待トラウマ(そんでも強姦だけはぼかしてる)。うん。パーフェクトにツボを押さえている感じ。それぞれの噛み合わせがあまりよろしくはないものの、全体を通してみればよくまとまっていると思う。野郎が大好きなバトルシーンもあるという徹底ぶりだし。
オチだけ見ると非常に非教養的といわざるをえない代物(勿論見かけだけの話)ではあるが、結構濃密に描かれたピンポイントのグロさがよくにじみ出ていて(ヒロインの×××ってのも珍しいと思う)、変に嫌悪感や充足感を得られないように抑制しているのはとても評価できる。
商業出版用としてもう4、5作書いてみれば、もっといい塩梅になるんじゃないか。最近、所謂ライトノベル系のレーベルで出てる中で買っている作品の作者は、どうしてかことごとく次作を出してくれないので最近かなり落ち込み気味の私。名前変えたり使い捨てられたりしてるのかなぁ……。うーん。サイクルが早すぎるのも問題だが、数作書いておしまいってのもナシにしてほしい。そりゃ読者のエゴですか。そうですか。
何となく気がノったので、新しいサイトデザインを色々と考えていたりした。改めてみると、どれもこれもクズにみえてくるのだから不思議だ。だが、そんなものにも大体ひとつは取り柄がある。それをいかに見つけられるかが、本当に心から「面白い」と思えるものを生み出すんじゃないかと考えていたりする。事実、今のデザイン「Space」も数々の変遷を経てきた。既に固定してしまってから1年以上経過しているので、細部のディティールもいじりつくした感がある。でも、何かもっと「面白い」ものがあるんじゃないかといつも思う。
常に苦労させられるのが画像素材をつくる時。これに一番根気がいる。時間もいる。その苦しみを乗り越えた先には IE との格闘が待っている。……じつは、個人的には IE との格闘がいちばんイライラさせられる反面、面白かったりもする。Gecko や Presto、KHTML といったレンダリングエンジンはとても正直で、癖は確かにそれぞれ持っているもののおおむね意図したとおりの画面をつくりだしてくれる。IE の Trident はそうはいかない。6 と 7 では別々の対応が必要(7 になっても酷いところが結構ある)だし、特に7はまだお目見えしてから日が浅いのでいじりきれていない感がある。
IE6 とのつきあいは長い。それは誰もが同じだと思う。そして未だに使われ続けている。Windows 2000 は IE7 を搭載できないからだ。2000 は歴史的遺物でありながら、その NT より確実な堅牢さと XP より軽快な動作(というより主記憶消費量)で根強さがある。IE6 がそれこそ無視できるレベルにまで利用パーセンテージが落ちるには、まだ時間がかかるだろう。だから対応が必要だ。せめて、「情報を提供する」という側面が崩壊しない程度には。様々な技法を駆使したデザインは、実のところ見た目はシンプルに落ち着く。裏では CSS のそれこそカスケードされたスタイルシートが色々とやっている。まだ CSS Level 3 が普及していない現在、段組みひとつとっても数々の技法によって実装が可能だし、シチュエーションによって使い分けられている。要素の絶対位置固定も同様だ。position : fixed;
は IE6 に使えないし、Gecko は 1.8.1 レベルでもスクロールに CPU リソースを喰いすぎる場合がある(Mozilla Suite 1.0 の時は使い物にならなかったのだから、それでも「使える」だけ格段の進歩だ)。
最初にデザインから入ると、技術がそれに追いつかない場合がある。だが、「何が使えるか」から入っても面白くない。逆に、デザインから入った場合は、「こうしなければならない」「こうしたい」欲求に突き動かされて、結果として新しい技法を生み出すことがある。現にそうしてきたし、これからもそうするだろう。CSS にはできないこともあるが、できるようにする方法もそれに増してたくさんあるということだ。
背景画像を使ったリッチテキスト表現(所謂「画像置換」)はその最たるものだろう。様々な技法が開発されてきたが、それぞれ欠点もある。私も以前は我流の複雑怪奇で制約も多い方法を用いていた。アクセシビリティも悪かった。
そんな時に天啓を与えてくれるのは、自分自身ではないこともまた多い。いいコードは誰かが書いていることもある。昔、あるサイトを訪れた時に出会ったその方法は、私に衝撃を与えてくれた。なんてこった、こんな方法があるなんて! 無論欠点もあるが、それまで私が使っていた方法よりは少なかった。だから今でも使っている。負の値を持つ text-indent
プロパティと overflow
のあわせ技を。きちんと overflow
も併用するのが秘訣だ。でなければ意味のない横スクロールが発生する可能性が生まれる。勿論テキストを吹っ飛ばすわけだから、画像を描画しないようにしている環境では全く意味がない空白になってしまう。アクセシビリティどころかユーザビリティまで悪くなる。……しかし、画像置換はかなり難しい。汚い XHTML コードを書いてアクセシビリティを高めるか、コードをクリーンにしたままアクセシビリティを犠牲にするか。要はトレードオフ。これに :before
, :after
擬似要素を組み合わせるというのも考えて、実装もしてみたが、IE7 はこいつらを実装していないので色々と不都合が多かったりする。結局今に至るも使っていない。また、:before
, :after
擬似要素は position
プロパティが使えない。唯一大丈夫なのが負の値を持つ margin
だが、これだけでは移動平面(と勝手に呼んでいるもの)が1つしかないので、em 単位をうまく利用したポジショニングは難しい。px 単位でも制約は残る。
……明日に備えて寝るか。ちょっと外をぶらつきたい気分なので、遅寝遅起きはもったいない。
締め切りを必ず守ることで有名な、翻訳家・浅倉久志氏のエッセイ集。訳書や依頼された書籍のあとがきや、様々な媒体で発表したそれらが一堂に会している。かなり面白い。
ちなみに、題名にある「カンガルー」は、アメリカのポケットブックスのトレードマーク。「ガートルード」の愛称があるそうな。……アジモフのふたりめの奥さんも、確かガートルードという名前だったような。
同じディック好きとしてもとても共感が持てちゃったりしている(勝手に持ってるだけです……ごめんなさい)し、いい短編集も編んでくれてる(『悪夢機械』など)。お世話になりっぱなしだ……よく考えてみれば。
もうかなりの老齢ではあるが、まだまだ現役の浅倉氏。これからももっとたくさん色々訳してください。お願いします。特にディックとかディックとかディックとか。
と、昼食を摂ったあとでふと思いついた。カロリーといっても、特に食事関連で用いられるシチュエーションでの話に限るが。調べてもみたが、単位表示についてはさしたる記述は見つからなかった。確かに k という接頭辞を使わなければならない理由はわかる。100 kcal は 100000 cal になる。数値部分が大きすぎる。だが、どうして 1000 kcal を 1 Mcal とはいわないのだろう(一般的な話なので 103)。ギガやテラはさすがに大きすぎて使わないだろうが、メガだったら特に問題はないはずだ。
心理的な要因なのだろうか。999円と1000円では1円しか違わないが、桁がひとつ小さいだけでお得感を演出できるという、ありがちな値段表記のアレに近いのかもしれない。1 Mcal といったら何となく「小さそう」に見えるから、カロリー量の過剰摂取を云々……。
だが、どちらかといえば、あまり「メガ」や「ギガ」といった接頭辞に大衆の馴染みがないからなのかもしれない。kcal は、逆によく見かけるからそのまま、M や G はその慣例がたたってあまり使われない、みたいな。今でこそコンピュータに関連した用語としては頻出するが、それだってどっぷりと浸かった人間でなければ日常的には用いないだろう。ああ、慣例とは恐ろしい。学校ではそういうことを教えないのだろうか。中学ならまだしも、高校はどうなのだろう。高専ではそもそも日常的に溢れていたし、専攻分野でもそうだし、個人的にもよく使っていたりするのだが……。2ch はいろんな意味で別の話。
よく情報処理に関わる人間が挙げられると思われるジョークにも、単位の話はつきものだと思う。例えば、「キリのいい値は?」「512 とか 1024、65535 みたいな。あと ffffff も忘れちゃ困る」。
つまり2の階乗や16進数といった類のもの。昔それを聞いたときに「まさかぁ」と思っていたのだが、慣れちゃうと本当にそうなるのだからまったくもう。k や M という接頭辞も、ついつい10の階乗か2の階乗かを訊いてしまう。わかりづらい場合ってあるもんだ。ハードディスクはその典型例だろう。アレはメーカーによって違うし、大多数が10の階乗を採用している。byte と bit の違いもあったような。それから単位時間あたりの情報転送量。つまり bps。これも10の階乗が使われる。
何でカロリーの話からこうなるんだか。書いてて自分でもわからなくなってきた……。まるで寮生時代の「
久しぶりに再読。何となく手にとって読み始めたら止まらない止まらない。あっという間に読み終えてしまった。まったく神林ワールドというやつは……。これで学生時代にどれだけ睡眠時間を削られたことか。
『完璧な涙』は、その名の通り一片の曇りなき完璧なる涙にまつわる物語だ。詳細は面倒なので省略。世界というものの不確定性を過剰にみえるがしかしギリギリのところで逸脱はしない微妙なリアリティで描きあげ、不安定ではあるがしかしどこか奥底には確固たるものとして「ありうる」状態にまでもってくる。その上で踊る人間のドラマ。これぞまさしく SF だ。思弁的でありながらもサイエンスの部分を忘れてはいない。だからこそ神林長平という作家の作品は面白い。もっと別のものが読みたくなる。まったく期待を裏切らない。いや、裏切られてばかりなのかも……。いい意味で。
何だかどっかのカエルモドキみたいだが、それはまあどうでもいい。今夜もよく眠れそうだ。いい作品を読んだあとの余韻は、興奮も安眠ももたらしてくれる。
出費はかさむけれども。この間神保町に行った折、一日で軽く1万円ぶっ飛んだ。だってさ、前から欲しくて欲しくてたまらなかった、ブライアン・オールディスの『十億年の宴』(東京創元社)が突如目の前に出現したんだから! 涙出るかと思った。勿論即購入。こんな時、財布の中身と相談なぞしていられません。以前それでえらい目にあったから。古書を買い求める人間なら絶対にわかってくれるはず。そして今月も一気に財政難に。それでも食料は大丈夫。一日三食、きちんととれているので。因みに『一兆年の宴』(東京創元社)も欲しかったが、先約があったので駄目だった。現在、かなり入手困難らしい。現物があまり出回らないのだとか。そこのところ、この間購入した同じ東京創元社の『解放された SF』は、また棚に1冊並んでいたので、あるところにはあるようだ。ハードカバーで、SF 専門書で、初版数も少ないだろうこれらの書籍。埋もれたままでは惜しい。是非『一兆年の宴』も読みたい。
その他、日本の SF 者で、ディックやヴォネガットを読んでいるなら尚更知っているはずのベテラン翻訳者、浅倉久志氏のエッセイ集『ぼくがカンガルーに出会ったころ』(国書刊行会)、『S-F マガジン 2003年1月号 特集 フィリップ・K・ディック原作映画の世界』(早川書房)、『ユリイカ 2007年6月号 特集*上橋菜穂子 〈守り人〉がひらく世界』(青土社)を購入。これらは新刊で。
一番値が張ったのはやはり『十億年の宴』。5200円ぐらいした。元の定価が2500円だから、丁度倍額というところか。10倍とかになってないだけまだいいだろう。サンリオ SF のディック本は、出版点数が多かったとはいえそれでも10倍近い値がつくのはザラ。店にもよるが、大抵高値。出版業界から手を引いて、時間もそれなりに経っていて(20年ぐらい?)、蒐集家もそれなりにいる。100年200年のレベルではないだけまだいいが、うーむ。ここはやはり、どこかの出版社に再版してもらいたいものだ。
勿論読書はこれでしょう。厚みもあり、内容も濃く、さらりと読めない素晴らしさ。既に SF 研究書の古典であり、この存在を知らないならモグリだといってもいい。それほどに有名で、完成度が高い。まだ半分ぐらいしか読んでいないが、よくぞまあここまでという広範なリサーチと集積、そして構築。ためになりすぎる。何より面白い。
有名すぎるあの作品、メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン、もしくは現代のプロメテウス』を SF の原典に非常に近しい存在と位置づけ、それが何故なのかを前後の歴史から解明する様は見事としか言いようがない。SF の魅力にどっぷり浸かったならば、まずは読むべき必携書。内容は勿論古典と呼ばれるだけあって古い(Copyright は1973年)代物だが、だからといって根幹にあるものまでぼろぼろかといわれればまったく正反対、その芯はよほどの大圧力をかけない限り歪みはしない。
プログラミング言語も同じことがいえるが、歴史を紐解くことはその概念を理解するうえで非常に大切だと思う。何もないところから唐突に生まれることなど何もない。全ては情報の蓄積が取捨選択、自然淘汰されてできあがったものなのだから。C言語を学んでおけばその子孫の持つ設計思想を理解できるし、祖先のことまでかなりのことがわかる。SF もそうだ。イマジネーションの源流が何かを辿ることには、とてつもなく大きな意義がある。
さて、通勤時間と昼休みをせせこましく利用して、どんどん読み進めよう。他にもまだ積読状態の代物はあるので、どうしてもそっちと平行しちゃうだろうが……。
こういう呑み会は大歓迎なのだ。唐突に誘われたので「いくいく」とふたつ返事で了承。早速神田のほうにある店に行った。私を含め、4人で盛り上がる。ビールを呑みたくない気分だったので日本酒を注文。都合3合近く呑んでしまった。あんなに脳味噌がくらくらしてたのは久しぶりだ。歩くのに苦労するのも。料理はおいしかったし、酒も良質だったので、頭が全く痛くならなかった。私は不味い酒を飲むとすぐ頭が痛くなってしまうのだ。他愛もない話や近況をダベり、各人の趣味の話で騒ぎ(いい仲間だ……本当に)、帰るときにはもう終電がないうち2人を、まだ都内在住のため余裕がある私ともう1人で分担して一晩泊めたりした。
自室に帰ってからも、終電ない組の片方と延々喋り通して、結局夜が明けてしまった。始発でその友人は帰路につき、私は布団の中へ。それでも昼頃目が覚めてしまった。夕方まで寝てるかと思ったのだが。ま、ある意味健康的か(違うかも)。
話題は変わるが、大きな液晶モニタ欲しいなぁと今コレを書きつつ思っている次第。未だに学生時代のまま、1024x768 の限界を突破できずにいる。そろそろいい加減19インチ以上の大きさの液晶モニタが欲しくなってきた。しかしお値段に手がでずじまいで……。欲をいえばデュアルモニタにして、片方にエディタを、もう片方に UA を表示させてやりたい。TeX でゴニョゴニョするときもその方がいいし。今のままでは、xyzzy も上下2分割でしかまともな作業ができない。せめて4分割ぐらいはしたいなぁ。どうしても UA いじるときにトラックボールへ手が伸びてしまうのはやるせないが、マウス時代に比べればまだマシか。
本棚の「ディック・スペース」がこの間買った『最後から二番目の真実』でついに満員御礼となり、うれしいのはいいが、その前に棚の前へ積まれた入らないブツがどうしても目に入って仕方ない。下のほうにいってしまうと取り出すにもひと苦労。……もし仮に将来家を建てるなり買うなりすることができたなら、絶対に「書庫」をつくってやる。まだ1K冊あるかどうかぐらいだが、10年後にはどうなっているか見当もつかない。純粋に10倍と考えても1M冊ぐらい? ううむ。場所をとるという点で紙媒体は厄介だ。しかし電子データにすると途端に読みにくくなる。あの紙の香りもなくなる。なんだ。結局のところ紙媒体が好きなんじゃないか。
戦争。戦争。戦争である。既に過去の表現と化したという認識が既知となり、手法と化したセカイ系。それを自覚的に組み込みつつ描かれた作品である。欲望に忠実でありながら個性を微妙に内包された主人公と少女の物語。現在 ikki というコミック誌にて連載版が進行中。そっちは読んでない。今手元にあるのはその原典たる単行本版である。
何となく目についたので引っ張り出して久しぶりに読み返した。うむ。やはり面白い。喋らせたら大森氏をゲンナリさせる作者の面目躍如といったところか。エンタテインメント性が比較的高めの代物として、多分誰にでもすんなり受け入れられるだろう。けっこう描写はグロいところが多いけれども。まあそれは戦争なので。未経験世代にはわからんものがたくさんあるもんだ。そんなこといっても現代社会はそれより酷いって? 死なないだけマシでしょ。精神を病んでも、病院があるし。
今日はこのまま『フルメタル・ジャケット』でも観ようかしらん。