目次

はじめに

「マルドゥック・スクランブル」は、いわゆる SF モノである。策略に嵌められた少女と、一人のネズミが繰り広げる物語――と言っても、何がなんだか解らないかもしれない。

「どうして私なの?」主人公、ルーン・バロットは問い掛ける。物語は、それに答えを与えた。だが、彼女が奪われたものはいくつか取り戻せなかった。

何となく思いつきで書いたことを、列挙するのが目的の文書である。……あなたには、どうしても書かずにはいられないという時は無いだろうか?

私には、ある。そしてそれは、まさしく今なのである。

注意

当文書の内容は、全て私が徒然なるままに書き記したものである。よって、その正当性やら何やらは一切保障できない

要するに、この文書に書かれてる内容を鵜呑みにするなという話である。

「そんな解釈変じゃねーか。俺だったらこう考えるぞどうだ凄いだろ」と考えるのは勝手だが、そればかりに固執して私に押し付けようとはしないように。とはいえ、「こういう考えもあるけど、どう?」なら全然問題は無く、返事さえ期待しなければメールを出すなり何なりご自由にどうぞ。

当シリーズの特質上、物によってはかなりのネタバレを含んでいる場合がある。よって、元ネタをまだ知らないという御仁は閲覧しない方が良いだろう。「ネタバレ? 知るかんなもん」という方は先をどうぞ。

An Escape Clause の内容を見ておくのが吉。

有機瞬変ハードソフトウェアとしての脳髄

「どんな人間も、未来を予測することはできない。だが近似は出せる」

(中略)

「人間に左右の大脳が出来たのは、第一に、脳の発達が急激で、左右の融合が間に合わなかったからだ。そのため脳幹と脊髄の融合部にしまわれていた神経細胞が、外部にせり出し、脳の皮質になった。そしてそのお陰で、我々の脳は肥大化が可能になった」

(中略)

「だが、左右の大脳が奇形的に巨大になったため、その発達がアンバランスとなった。左大脳では流動的知能であるデジタル化がすすみ、右大脳では結晶型知能であるアナログ化がすすんだ。その原因をたどれば神経細胞の発達にある」

(中略)

「無脊椎動物の時代からあった裸電線、即ち無髄神経では、シナプスのアナログ型のホルモン作用が主体だったが、被覆電線、即ち有髄神経では、デジタル型の神経電流を流す神経回路が主体となった。人間の脳は本来、アナログ脳であるにもかかわらず、その中にデジタル化が発生し、両者が相互作用をもって働くことになった」

(中略)

「人間は未来を判断できない。なぜなら複数の出来事を、同時に多体問題として解き明かすことは、いかなる数学的手段によっても原理的に不可能だからだ。残りカードが一枚なら既出カードからそのカードが何であるかは判明する。しかし残りカードが二枚以上なら、もう次に来るカードが何であるか判断不可能になる」

(中略)

「しかし二つの頭を一つの頭蓋骨の中に持つことになった人間は、流動型知能、即ちデジタル型の神経回路で一つの出来事を厳密に解き明かし――他方では、結晶型知能、即ちアナログ型の意識によってその他全ての出来事の、総合的な影響をイメージする。それによって人間は単体近似を出し、現実には多体問題を解いたことになる。人間は、無限に真実へと近づくための道のりを、生まれたときにすでに選んでいるんだ」

(中略)

「もしその人間が、双頭からさらに四頭になることができたら、単体近似に甘んずることなく多体問題が解け、この世の全ての事象が確定するかもしれない――そんな夢想によって作り出された存在がある。それは未来を解き明かすことはなかったが、いかなる外部 = 内部形成に対しても、一瞬にしてその形成体を算出する、万能の道具となった」

(中略)

「人間の脳構造では、多体問題も、計算による単体近似の連続にすぎない。ではそこで、人間が双頭になった理由であるところの、融合が間に合わなかった脳の発達を、そのまま外部へと発展させることができたらどうか。即ち、人間の頭部から、脳が形を変えて発達を続け、全身へと広がり、体全体を覆いつくしたとしたら」

(中略)

「そんな、全く別のコンセプトの二つの存在が、互いに協力したにもかかわらず、このカードの流れを読めない、なんてことはありえないのさ」

「マルドゥック・スクランブル The Third Exhaust――排気」P150...153

脳という組織は非常に特殊であるのは疑う余地も無い。記憶、認識、理解、その他諸々の機能を兼ね備えた万能ハードウェアである。

そしてまた面白い事に、脳はソフトウェアでもある。人格というプロセスを実行し、言語を形成し、複雑な計算を数学という概念ソフトウェアによって行う。

つまり、脳はハードウェアでもあり、ソフトウェアでもある。ここにも二面性が存在する。更に、脳は一刻一刻常に変化し続け、微小時間前のそれとは全く別のモノに成り果てている。意識――人格こそゆっくりとしか変化しないが、そのくせ内部では刻々と何もかもが変わり続けるのである。まさしく有機瞬変ハードソフトウェアだ。

そして、そんな脳をバロットは更に発展させてしまった。いわゆるライタイトの拡張である。全身を元々覆っていたそれは、内臓にまで侵食し、果ては脳にまで到達した。そう。外側――殻――こそがその人間を織り成す主たるものとなりつつあるのだ。ある意味、ずっと殻に閉じこもってきたバロットならではの発展形と言えるだろう。ここにも、殻を割らず、ただいとおしむバロットの根本が見え隠れしている。

こうして脳と等しくなったライタイトは、肉体という媒体を存分に使い、更なる発展を遂げていく。極めつけはカジノシーンでウフコックと完全に一体となった時だろう。先に挙げたドクターの台詞が、その全てを物語っている。

万能のハードウェアと、最高のソフトウェアをその手にしたバロット。それでもある意味貪欲に、更に上へ上へと行こうとする。自分に適さなくなった殻を、少しずつ剥がし、またその下に新たな殻を作りながら。

その中身は、まだ十代の少女なのだから。

コロンブスの卵

バロットはボイルドとの決戦前、ダストシュートへ放り込む前のシェルに最後の別れを告げた。

――ばいばい、シェル。

「マルドゥック・スクランブル The Third Exhoust――排気」P332

それは、自らの心を覆っていた殻(シェル)を捨て去った事に他ならない。バロットは閉じこもることを止めたのだ。自らの心からも、全ての現実からも。

それまで自分を護ってくれた殻は、最早彼女には狭すぎた。成長を続ける雛鳥は、ウフコックという無限の包容力を持った殻を手に入れ、それを自らのモノにするのではなく、使うことができるものとして“受け入れた”のだ。

バロットにとって、それは非常に難しい問題であった。それまで他人を受容できず、自分をも容認できずにいた少女にとって、ウフコックをどれだけ信頼しており、また受け入れているかという問題は、自分自身に“価値”を見出した時点で本質を確定され、結果的に答えと呼べるものを喚起した。

彼女は、“他”という存在を認めたのだ。

今まで、意識を希薄化する事によって得ていたものは、即ち自分という存在の抹殺に他ならず、と同時に他人を認識するという事も放棄した、存在――ひいては、“価値”の希薄化であった。数々の矛盾を内包してはいるものの、それはうまく機能し、バロットの過酷な境遇をいくらか和らげる緩衝材としての役割を果たした。

だが、それが“焦げ付い”ては、もう何もできなくなる。

ウフコックはこう語っている。

「(前略)俺に君を信じさせて欲しい。シェルもボイルドも何も信じられず、鏡の向こう側にいる。クリーンウィルがそこにいたようにだ。そこでは何の迷いも悩みもないかもしれないが、同時に何の希望もない場所だ。俺はそこには行きたくない」

(中略)

「俺は俺を、君に託す」

「マルドゥック・スクランブル The Third Exhoust――排気」P304

ウフコックは告げたのだ。「“ひっくり返った”場所に、自分は行きたくないんだ」と。だからこそ自分はバロットを信じるのだと。そうする事でしか、焦げ付きも、裏返りも防ぐことなどできないのだから。

何という皮肉だろうか。肉体的に“ひっくり返る”事こそ本業である筈のウフコックが、精神的に“ひっくり返る”事になど耐えられない――そう言っているのだ。

バロットは、ウフコックから“信じる”という事を学んだ。ウフコックは決して彼女を見捨てなかった。

限りない“優しさ”が、バロットの殻をゆっくりと撫でたのだ。それを無理に叩き割ろうとはせず、母鳥がそうするように、優しくゆっくりと温めるだけ。

そうして雛鳥は気付く。煮殺される前に。自分は生まれてきていいんだと。自分は殻をどうしてもいいんだと。

バロットは、自分の意思で殻を捨てた。決して割るのではなく、慈しむかのようにそれを脱ぎ、ただ捨てた。

あとがき

皆さんは、SF を読んでいるだろうか?

まあこんな所を見ているぐらいだから、「読んでない」という方は流石に居ないだろう。

私は、この本を読むまで作者の事を全く知らなかった。暇を持て余していた時、たまたま立ち寄った書店に少しばかり積まれていたので買っただけだ。確か、その頃はまだついていなかったような気がする。「日本 SF 大賞受賞」というオビが。

作者はライトノベル界出身なのだが、デビュー作とかまだ読んでいないので(本人は恥ずかしいから読んでほしくないらしい)、今度買おうかとも思っている。

参考文献

更新履歴

Version 1.1 (2004-10-22)
Version 1.0 (2004-09-19)