目次

はじめに

表題の疑問。それを追求すべく書かれた論考が、本稿である。

Blog というツールに注目し、BBS との対比を通じて考察する。

注意

本稿は、2005年8月5日6日7日8日13日16日にかけて Blog にて掲載された Blog 論を再編集し、加筆訂正を加えた論考である。最新版は上記日付以降の Blog に追記される可能性がある。しかし、日付以降の Blog に掲載されていない限り、本稿が最新版になる。

当論考は、現時点では完結しているものの、未完成である。文章量の増減、内容の改訂が行われる可能性があることをご承知置き頂きたい。更新箇所については更新履歴を参照のこと。

BBS って何? 喰えるの?

というのは冗談で。

昔は、所謂「掲示板(BBS)」を設置してみようと考えていたのだが、はっきり言ってめんどくさいと感じるようになった。

最近つとに思う。どうやら、私はこうやってだらだらと文章を書き連ねている方が性に合っている、と。掲示板の管理なんてやっていられない。そんな暇があったら、卒研の勉強やサイトデザインの改良、新しい文章の執筆、そしてプログラミングをしている方が余程生産的である。自分の好きなようにキーボードを叩いていられることも、理由の一つだ。

今の時代、草の根レベル――それこそ個人が運営するタイプ――の「掲示板」は、読者のニーズに即していないのかもしれない。何故なら、もっと便利で直接的な、そして日本人という民族が好むであろうシステムが存在し、実際に使われているからだ。

それは、「Blog」、「コメント」、「トラックバック」のことだ。以後、この3ツールを Blog ツールと呼称する。

Blog によるコミュニケーションの流れは、例えば以下のようなものだろう。

  1. 筆者が Blog に何かを書く
  2. 読者はそれを読み、何か言いたいことがあればコメントする
  3. 読者が自身の Blog を持っていれば、そこでネタにすることもできる
  4. 読者はトラックバックを使い、筆者に自分の記事をアピールする
  5. 筆者はコメントやトラックバックを読み、コメントを返したり原文を加筆訂正する
  6. あとは延々とループ

自己主張の選択性

前節で日本人という民族が好むであろうと述べたのには理由がある。それは、Blog ツールに選択性が包含されていると考えたからだ。つまり、してもよい / しなくてもよい、という意思決定が容易なのである。

コメントはつけてもつけなくてもよい。つければ読者は自分の意志を伝えられるし、つけなくても読者は Blog を持っているなら好きなことを書くことができる。要するに、ネタにするということだ。また、トラックバックを打つことで、読者は自らの Blog において成された自己主張を、ネタ元の筆者に対して容易にアピールすることができる。ここにも選択性は適用されており、勿論トラックバックを打たなくても問題はない。結果として、実に9種類もの選択肢が読者に提供されることとなる。制約の多い世の中において、これはかなりの自由度であると考えられる。

だが、ここで疑問が起こる。では、同じようなコミュニケーションのツールとして、何故個人サイトでは BBS が衰退してきたのだろうか? 衰退していないにしろ、BBS を設置するよりも爆発的なスピードで、Blog が開設され続けているのは何故だろうか?

ツールの形態という視点から見れば、BBS と Blog は同様の技術を用いている。例えばそれは CGI というインターフェースであったり、Perl などのプログラミング言語であり、HTTP などのプロトコルである。

しかし、両者は明らかにその在り方を異にしている。故に差が生まれ、現状のような Blog 時代を迎えているのだ。よって、他の目線で考える必要に迫られる。

実は、技術云々の話ではなく、もっと根源に「何故 Blog は繁栄しているか」という問題を認識する上で重要な土台が存在している……と考えることもできる。

それは、多対多関係と一対多関係の差異である。

多対多関係とは、BBS に代表される、管理人プラス投稿者の集団と、投稿者プラス管理人の集団とがコミュニケートする関係を意味する。例えばスレッドタイプの BBS であるならば、初発言者(2ch でいうところの >>1)が大元になり、話題の種を提供し、投稿者がそれに基づいて様々なレスをつけるという形式が相当する。これは、最早 BBS とは名ばかりの、「隔時間性チャット」とでも呼ぶべきツールが生み出した性質だといえる。いわば、電子的手段で行われる、教室にできた集団で繰り広げられるそれに似た他愛もない会話である。

対して一対多関係とは、コメント・トラックバックに代表される、Blog 筆者(BBS でいうところの管理人)と、投稿者プラス Blog 筆者の集団とがコミュニケートする関係を意味する。話題の提供という点で Blog 筆者は BBS スレッドの初発言者と同じなのだが、多対多関係と全く異なるのは、ネタ元が常に Blog の筆者であるという点である。雑誌の記事に対する読者投稿、と言ってもいいだろう。

思考の再利用 - 模倣

では、何故多対多の会話型ではなく、一対多の雑誌型コミュニケーションが Blog 文化で栄えることになったのか?

そこには、情報というものの在り方が関わっている。

基本的に、会話型の情報は自分が参加する必要に迫られる。レスを付けることが情報そのものの密度を高める唯一の方法だからだ。もしレスが付かない場合は、提供された情報の種が芽吹くことのないままに終わってしまうだけである。故に、この方法は読者の絶対数が少ない個人サイトで採用するには、あまり適切でないことがわかる。それを有効に活用できるのは、ある程度の初発言者とネタに即した人数の投稿者(レスポンス)が集える、大きな広場しかないといえよう。最大の成功例として挙げ易いのが 2ch である。巨大である分 ROM の数も多いのだが、それを補って余りある投稿者が存在しているのだ。

対して、雑誌型の情報は必ずしも自分が参加する必要はない。確かにコメントを付けたりトラックバックを打ったりすれば、Blog 筆者からレスポンスが返ってくるかもしれないが、Blog 筆者はそれを必須であるとは考えていない。「レスポンスが無くとも読んでくれている人が居るだろう」、「自分で記事を書くことにこそ意味がある」、といった(自分なりの)動機さえ存在していれば、自分自身の脳味噌から絞り出した文字で情報を伝達することができる。昔、日記は自己満足云々という論争もあったようだが、今では何であれ提供される情報さえあればそれでよい、という風潮に変化しているように思われる。

雑誌型の情報とは、言い替えればテレビ型、ラジオ型、新聞型でもある。つまり、もっと包含的な言い方をすればマスメディア型なのである。すると、Blog 筆者は一種のジャーナリストであるともいえるようになる。

ここに、日本人が Blog を好むようになった理由の一端を垣間見ることができる。それどころか、日本に限らず欧米諸国でも Blog がここまで普及した理由を説明することもできる。

つまり、皆テレビに慣れ親しんでいたからだ。

ラジオ、新聞、雑誌、書籍といった情報媒体、特に公共性が高く伝搬速度も速い上に、視覚的情報も併せ持ったテレビは、所謂「垂れ流し」の情報を生み出す。うまく用いれば、疑問を持たせることもなく、「ああそうなんだ」と読者を考えさせることなく納得させてしまうといった芸当も可能であり、事実、現在のテレビ業界は応用を効かせ、我々視聴者に「偏った」情報を提供し続けている。

そして、そんなテレビの持つ「一方的な情報」と、インターネットの双方向性が可能にした「双方向的な情報」、そしてハイパーリンクの可能にする階層無きネットワークによる「多角的な情報」の全てを併せ持ったメディアとして、WWW という土台があり、更に HTML や XHTML といった表現手法があり、CGI があり、プログラミング言語があり、結果、それらの技術を組み合わせ、簡易な保守管理を可能とした Blog ツールが生まれることになった。土台はあった。技術もあった。ただ、それを容易に用いる術が無かっただけである。Blog という言葉で認識されるようになるまでは。

昨今問題になっているのは、テレビに代表されるマスメディアが、意図的であるにしろそうでないにしろ、偏った「一方的な情報」しか視聴者に提供していないという点である。視点の固定、感情的な表現の多用、自分達の汚い面を見せないようにする情報操作等々、枚挙に暇がない。

無論、メディアの申し子たる Blog も、同じ危険性を全部孕んでいる。特に個人が書いている以上、感情的な側面は確実に増長してしまう。

しかし、Blog には様々な利点がある。そのひとつが、「情報が文字として残り続けること」であろう。テレビは映像と音声で構成される。これらは非常に残しにくい。だが、テキスト情報の交換をベースとする WWW は、一度書いたものが半永久的に保存されていく。

この利点は、比較の容易さを実現する。テキスト比較ツールとして有名な diff に代表されるように、文字列同士の比較は映像・音声のそれより機械にとっても人間にとっても格段に楽なのである。

情報の比較は自分で考えるということを誘発する。考えなければ比較はできない。また逆に、比較できなければ考えることはできない。

とはいえ、全てを自分の頭で云々するわけでもない。昔は本に書かれていた思想を拝借することが多かった。近年はテレビの情報をただ鵜呑みにすることが多かった。そして、現在。様々な Blog を読者は読み、それらの断片を繋ぎ合わせ、ひとつのまとまった考えを構築することができるようになった。

そう。それは思考の再利用。他人の思考を利用し、自分の思考をも構築する、「模倣」という名のエントロピ増大なのである。

バッファリングせよ

何やら大袈裟に書いたものの、実際のところ、「思考の再利用」自体は昔から行われている思考拡張の手法である。勿論思考だけに留まらず、知識全体が対象になる。人間が外部記憶の手段を手に入れた時から、それは延々と続けられてきた。

だが、現代においてそのニュアンスは多少なりとも変化しているように思われる。何故か? それは、高速に行われるからだ。

旧来の伝達手法は概して低速だった。文字というベースは現代でも同じであるが、媒体が異なればおのずと速度も変わってくる。書籍にしろ新聞にしろ雑誌にしろ、現実に存在する物質を介しているという点で伝達効率は低くなる。また、文字量が増えれば増えるほど、必要になる媒体量は膨大になり、持ち運びその他に支障が出る。検索も面倒だし、間違いの訂正にも時間を要する。

対して電子的な手段は、文字どおり速で情報がやりとりされる。転送レートもインフラの整備に伴い改善されてきた。保存も、大きさは同じなのに入れておけるデータ量が何十倍、何百倍、何千倍という単位で異なるメディアが次々に生まれ、実用化され、すぐ安価になっていく。ハードディスクを考えてみるといい。それこそ太古の昔は MB 単位の代物がノーマルだったのに、今や GB、TB 単位の容量である。紙へ記録するより場所をとらないという意味で、既に外部記憶の媒体は新たな局面を迎えている。

高速性が大事だということは判明した。しかし、その高速性が生み出すものは、何も恩恵だけではない。弊害もまた同様にその力を増している。例えば、他人の思考をそのまま拝借し、それを垂れ流すだけで満足している輩が存在してしまっている。

更に悪いことに、こうした垂れ流しは必ず劣化コピーを生み出す。良くなることはまずあり得ない。悪くなるしかない。全く同じものだとしても、それは他人という存在がコピーした、という時点で意味の劣化を起こす。それを補う為に、自分で考えるなり他人の考えを引っ張ってくるなりして情報に味付けを施す。文章がプログラムと異なる点はここにある。プログラムは同等になれるのに対し、文章は未満にしかなれないのだ。この現象は理学的に証明されている。情報理論におけるエントロピ増大のことだ。

エントロピの説明は省略する。前節でも少し述べたように、「模倣」はエントロピの増大を招く。まずノイズ(外乱)が混じる。全く同一の存在となるべく他者を模倣したところで、結局はそのノイズによって完璧という幻想は崩れ去る。デジタル世界ですら、そのベースにあるものはアナログ的な現実世界である。誤り訂正といった技術がなければ、情報をまともに送信することすらままならない。コピーが容易であるとはいえ、それはデジタル世界の話だ。我々人間が生きているのは、アナログ世界である。よって、完璧なコピー=模倣を行うことは非常に難しい。

故に、情報を自分なりに噛み砕き、溜めておく必要性というものが発生する。はっきり言ってしまえば、エントロピの増大を喰い止める手段である。これは、一種のバッファリングと解釈することができる。ソフトウェア構築のノウハウとしてのバッファリングとは異なり、思考――情報――のバッファリングは、鍋の役割を果たす。ぐつぐつと煮込み、よりソース(情報)を熟成させる為の。

時間が無い、というのは、現代人に共通する認識だという。ということは、必然的に思考バッファリングに要する時間も減っているということになるのではないか。つまり、材料(情報)を仕入れるのに手一杯で、料理(思考)している時間がとれないという、本末転倒な事態に陥っているということだ。

だからこそ、人々は「模倣」に走る――走らざるをえないのである。既に何者かが情報を噛み砕き、料理してくれているのに、自分がそれを煮詰めなおしたら焦がしてしまうのではないか? ……そういう言い訳(理論武装)を構築し、ただ得た情報を垂れ流すことに専念する。結果はエントロピーの増加に繋がる。情報量が増えれば増えるほどにそれは酷くなる。悪循環にしかならない。

そんな、情報過剰の時代に、Blog ツールは生を受けた。

一般性 の稚児

そもそも Blog は Web 日記の派生型である。公開され、公の目に曝されることを前提とした――意味をもっていようがいまいが、その意味付けは筆者の裁量に委ねられている――文書の集合。そんな Blog には、2つの特質を包含できるだけの余裕が確保されている。即ち、「垂れ流しの文章」と「練り上げられた文章」である。

この二つに繋がりが存在することは前述の通りである。またそれは、現代の高速性が生み出した忙しさによって束縛されていることも。

「練り上げられた文章」を書こうとするには、必ず「垂れ流しの文章」が必要である。ストックする場はどこでもよい。ポケットに忍ばせた手帳でも、自分の記憶でも。だが、現代においては別の手段が次々に生まれた。Web サイトもその一つである。

だが、Web サイトには問題点があった。専門技術の必要性である。特に HTML を書くことは、この言語がかなり単純であるという点を考慮に入れたとしても、所謂一般人にとっては面倒であり難しいものであった。

HTML マークアップそのものを原因として位置付け、その手間を軽減することで WWW への出版を促進するツールとして生まれたのが、IBM の「ホームページビルダー」に代表されるような Web オーサリングツールである。しかし、これらは決定打には成り得なかった。確かにそれなりに大規模なサイトの構築には向いていたのかもしれないが、個人サイトの管理者は、そのツールを用いることすらも面倒がった。金銭的な問題もあったろう。そこで出てくる技術的・道義的議論は既に出尽くしているので割愛する。

そんな時代に生まれたのが Blog ツールであった。本来、個人ニュースサイト的な情報発信に用いられるために UA 側からフォームを用いて直接編集を可能にした。いちいちオーサリングツールを用いたりマークアップを施しているようでは、情報の鮮度が落ちてしまうからだ。無論、BBS の構築で培われてきたノウハウを生かしたことは言うまでもないだろう。

故に Blog は台頭してきたのである。比較的容易・高速に文章を Web へ公開することができるからだ。HTML や XHTML、CSS、HTTP、FTP、サーバシステムなどの知識を持っていなくてもよい……専門知識を覆い隠すことで生まれた、一般性の稚児。

そういう意味においては、Blog の果たした役割は大きい。専門知識取得の際に発生するエントロピー増大を、ものの見事に押さえ込んでしまったのだから。

逆に、Blog そのものがエントロピー増大を招くツールにもなる。垂れ流しの文章――模倣された文章――がそれだ。

だが、Blog はエントロピー減少を牽引するツールにもなる。専門知識の必要性を排除した結果、その分だけバッファリングした情報を反芻し、「考える」時間を捻出することができる。

Blog は、両面性――真でも偽でもない天邪鬼な性質――を秘めているといえるだろう。……考えてみて欲しい。日本人は、何色が好きだった?

玉虫色だ。ころころと変化する、他に形容の仕方がない色。状態。――即ち、どちらでもない、ということだ。どちらにもなりうる、ということでもある。

Blog ツール

Blog は、ある意味で便利になった外部記憶だといえる。HTML 直打ちとの差は、ヒエログリフを粘土板へ書いていたのに、日本語を紙へ書くようになったものだと思えばいい。それだけ楽になったのだと。

こうしてひとつの道具という形に還元された結果である Blog ツールを用いて、現代人は自分の思考を徐々に蓄積させている。

これまで、Blog について延々と述べてきた。最終的な結論としては、おおむね次のようになるだろう。

Blog は非決定性を秘めているから。

q.e.d.

あとがき

ふと思い立ち、この論考の元となる事柄を Blog に書いてから、まさかこれほどまでに長くなるとは思いもせず、夜中の2時3時までキーボードを叩いていたことを覚えている。夏休みは素晴らしい。

……取り敢えず何とか再編集し、加筆訂正を加え、ひとつの文書に仕上げることができた。

予想に反して、本稿のプロトタイプを Blog 上で連載していた時、当時最高のアクセス数を記録した。それだけ興味を引くことができたのだろう。読者方に感謝の意を表したい。

更新履歴

Version 1.0 (2005-10-20)
  • Blog に掲載していたものへ、大幅に加筆訂正を加える
  • 主張の変更はない